1993年(15歳)くも膜下出血発症 クリッピング手術受ける
2016年(37歳)くも膜下出血発症 カテーテル手術受ける
二度とも後遺症なく2回の出産育児も乗り越え、現在子供達も成人し第二の人生を模索中
不安定なメンタルと戦いながら生きてます
2024年になって久しぶりのブログになっちゃった。
色々ありました。
先日、父が78歳で亡くなりました。
父は2017年5月に大動脈解離で倒れて緊急手術を受けて以来、寝たきりの生活がもう6年半も続いていました。
手術は何とか成功したものの3週間も麻酔から目覚めず、目覚めてからは以前のような意思疎通ができなくなりました。
3週間の間に気管切開をし、その後は胃ろうをつけ、体も麻痺が出て、ずっと入院したままになりました。
コロナが流行りだしてからは面会もできなくなり、一気に認知症が進んでいったようです。
去年の3月、父と同じ仕事に就くことになった息子を連れて報告がてら面会に行ったのが父に会えた最期になりました。
今年に入って容体が悪いと連絡を受けて、2/10〜11に旅行に行く予定を取りやめて。
そして2/6に夢を見ました。
父は亡くなったけど、少しの間だけベッドの上で身体を起こしてる父と会える時間がもらえる。
身内が集まってて、まだ小さい姪っ子姉妹が歌を歌ったり踊ったり父に披露していて、父はそんな姿をニコニコ笑って見てる。
時間が来て、父のいる部屋を出なければならない。
部屋を出たらもう父とは会えない。
部屋を出ようとした私は、
「そんなことない。お父さんは絶対にここにいて、ここに来たらまた会える!」
そう思って、一旦部屋を出て、またすぐ部屋に戻るも、そこは空っぽで誰もいなかった。
そこで初めて父が本当に亡くなったんだと知って号泣してる。
正直なところ、コロナ以降父にほとんど会えてなくて、妹から話を聞くだけで普段はほとんど父のことを忘れて生活していました。
でも生きている。
望めば寝てるだけの姿でも見ることができる。
温かい身体に触れることができる。
それがわかってるから積極的に会いに行こうとしなかった。
でも死んだらもう姿を見ることはできない。
当たり前のことに改めて気付いて父に会いに行かなきゃと思い、病院に面会が可能か問い合わせましたが、ちょうどインフルエンザが大流行中で、当面は無理だと断られました。
その1週間後でした。
また皮肉なことに、連休明けで職場に欠員出てる週で忙しくなることがわかっていた私は、眠れないのは困ると睡眠薬を飲んで寝ていたため、明け方妹からかかってきた電話に気付けませんでした。
いつも通りのアラームで目覚めると何件もの着歴があって、妹からのLINEで父が亡くなったことを知りました。
私が目覚める15分前でした。
もし妹からの電話に気付いたとしても間に合ったかはわからない。
それでも情けなかったです。
姪っ子たちが父に手紙を書いて火葬するって言ってたので、私も書きました。
口下手で感情表現が苦手な娘も書きました。
素直な性格の息子は書かなかったけど、ボロボロ泣いてました。
ごめんね、と、ありがとう
そればっかりの手紙。
簡単で大事な言葉に限って、なかなか伝えられないんだなと思いましたね。
ここまで書きましたが、父は世間的には誇れるような人ではありませんでした。
ギャンブル大好き借金大王で破産もして、私には頼る実家がなかった。
父が入院して、もう退院できなくなって、借家を空けないといけなかった時は、滞納した家賃を含めて100万以上のお金を払いました。
保険も何も入ってなくて、それはもう大変でした。
でも私が幼い頃は、ネグレクトの母に変わって毎日美味しい食事を作ってくれた。
長期休みの間は、仕事の合間に昼食も作りに帰ってきてくれた。
休みの日は色んなところに連れて行ってくれた。
良い父親だったと思います。
不思議な感覚なんですが、
生前は頼りになる人ではなかったけど、今後は絶対に私達姉妹を、孫達を守ってくれるだろうって気がします。
結構苦労してきましたが、今後は父が守ってくれるから私の人生大丈夫に違いないと思えてます。
寂しいけれど、心強さを感じてます。
