心の果てに何が有るかなんて僕は知りません。

現実の果てに何が有るかなんて僕は知りません。

命の果てに何が有るかなんて僕は知りません。


例えば「何か」の果てに「何か」が有るとしたら

それはもう結末が見えてしまっているもの。

そんなものに夢をベットできるのですか。

そんなものに命をベットできるのですか。


果ての果てに何も無かった。

それくらいの方がよっぽど魅力的じゃないか。

果ての果てには自分の死に場所しかなかった。

それくらいの方がよっぽど進みがいがあるじゃないか。


果ての果てには大地と空気しかないくらいでちょうどいい。

誰もいないのは当たり前だろう。

果ての果てなんて文字通り未開の土地。

存在を許されるのはたどり着いた者だけ。

それが無味乾燥な焦土だとしても、桃源郷だろうとも、

自分にとっては己の境地。

他の追随を視認し得ぬ空間。

心を閉ざしてしまえば居心地のいい最良のもの。

その先なんてもう無いのかもしれないし、

果ての果てにだってまだまだ先は有るのかもしれないのだし。

上には上がいるのだから、果てにも果ては有るんだろう。

無論、果ての果てにだって果ては有るんだろう。


応えに至ってこその

夢を抱いて。

その先に於いてのみ

死を許される。

生きていたくなくとも、死んでしまいたくなくとも。

許される死のみをその体に刻み込んで。

必要の無い生をその体に刻み込んで。

肉体が朽ちようとも、

精神が朽ちようとも、

意識に於いて、己が境地へ。

その崇高なる意識を以って。

理性も必要に応じて、捨てて、拾って。

肉体も必要に応じて、捨てて、拾って。


単一的方向に流動するその時間の概念も捨てて。

それでも僕は今日を生きる。

それでも僕は昨日を捨てて。

それでも僕は明日を捨てて。

僕は今日を生きる。

今日を。


何か一つをその両の手のひらに握り締めて。

十字架をその背に背負って。

意識の海を歩く。

海の底を。

海面への上昇を夢見てその不合理性を笑い、

嘲笑されるとは理解しつつも、その合理性の為に歩く。海底を。

意識の底を。

深層心理の海底には己の絶対的排他性をも否定する、獣。

己に食い尽くされる恐怖と、己に対する支配欲。

何が必要か。

何が必要か。


海を歩く。

海を歩く。


その境地へと。


水面も水底も己の記憶と時間軸に支配され、自我のスープ。

認識する己と、不可視の己と。

それはある種の恐怖。

意識は球体。

それは真理。

真理は破壊。

それは必然。

必然の奇跡と、絶望。

なぜならそれは無意識下の自己構築。

知っている己に食い尽くされるも、

知らない己に食い尽くされるも、

媒体は=。

それは世界。

過去か現在か、その差異を除けば=で結ばれた世界。

水底に広がる世界を、深層心理で構築して。

深層心理の海を表層心理の心で歩く。

その恐怖の度合いは僕の心が決めることではなく、世界に対する希望、絶望が支配する。

水底の草木は荒れ果て、生き物の存在を許さぬ漆黒の世界。

踊る生命の中を明るく照らす光と共に描かれる神幸の世界。

全てを構築するのは深層心理。




無論これは第一幕。

真の希望は、絶望は


この先に。

今日の思い出の全てを忘れてもいいから


明日への希望だけを忘れないで。


今日に絶望したって


明日の存在、可能性はまさに無限大。


今日を落としたっていい。


昨日なんて忘れちまってもいい。


明日だけは拾っておこう。


五十嵐に反抗しているわけじゃない。


底辺はもういいだけ見てきたつもり。


それなら


開き直ってみるまで。


全てを落としてしまっても、忘れてしまっても、


明日の何かに、それが1%の何かでも


賭けてみる価値は無きにしも非ず。


だってそうだろう。


明日は誰にも知りえぬもの。


絶望が待っているなら、それはいつものことだと


笑ってやる。


楽観的になるわけじゃない。


望みをつなぐつもりも無い。


明日も人生は続くから。


死にたいと思ったって死ねるもんじゃない。


それほどの覚悟はない。


生きたいと思っているわけでもないが


世界は続く。


それが本意なのか不本意なのか。


僕も知らないよ。


確かなのは、


僕がいて


君もいる。


それくらい。

世界に希望があるとしてもいいじゃない。



別館だっていいじゃない。