幸せな家庭を築かれている方、家族を愛している方には、とても不快な内容です。

タイトルでお察しの上、ここを閉じてください。

 

 

 

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私→長女、バツイチ・子供なし

弟→3歳年下、子供3人・孫4人、現在は隣市で妻と2人暮らし

父→既に癌で他界(叔母も叔父も癌で他界している)

母→今年80歳になる、隣市でひとり暮らしを満喫中

 

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以前にも書きましたが、私は虐待を受けて育ちました。

大人になってからは“力の暴力”はありませでしたが、“言葉の暴力”は最近まで続いていました。

 

私が虐待された理由は「男の子が欲しかったのに、女だったから」。

私の名前も「親戚が自分達が知らない誰かにつけてもらった」そうです。

(これらは物心ついた頃から、つい最近まで母親の口から聞かされていた事)

3年後に生まれた弟は、溺愛されました。

食べる物も、着る物も、何もかもレベルが違いました。

私が服を与えてもらえるのは年末だけ。お正月にお年玉をもらいに親戚の家へ行くからです。

 

父・母・弟で一泊留守にする時は、まだ小学校低学年の頃から置いていかれました。

食事がわりに置かれたのは何故か毎回メロンパン。

子供の私は寂しくて悲しくて食べられず、でも残っているのが見つかると暴行を受けるので、当時よく野良犬や野良猫を見かけた場所に捨てていました。

あの頃から50を過ぎた今でも、メロンパンは一度も食べていません。

 

弟が転んで泣くと、私が殴られ、殴られて私が泣くと更に痛めつけられるので、私は押し入れに隠れて声を殺して泣いていました。

声を出して泣くことも、人前で泣くことも未だに出来ません。

「でも」「だって」のような言葉は一切許されないので、痛めつけられないように言いなりでした。

 

直接的な殴る蹴る以外にも、辞書や重い木の置物を投げつけられる、階段から突き落とされる…書ききれないほど様々な暴力を受けましたが、大きな怪我は少なく骨折と脱臼がそれぞれ1回。

切り傷、擦り傷、打撲くらいは周囲も何も言わないというか、誰も気付いていなかったと思います。

 

 

「お前なんて生まれてこなければ良かったのに」「お前さえいなければ、みんな幸せ」「役に立たないんだから、何も食べなくていい」

私は毎日繰り返しこういう言葉を投げつけられていたので、常に自信が無く、今でも自己肯定がなかなか出来ません。

認めてもらいたくて勉強を頑張って成績が良かったりすると、それはそれで暴行を受けました。 

 

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大人になった私は、自分が働いて稼いだお金もほとんど親に渡していました。

“それが私の存在意義”だと思っていたのか、ひたすら貢ぎ続けました。

 

 

溺愛された弟は親ベッタリになるかと思っていましたが、中学生くらいから家族と殆ど会話しなくなり、高校に入学した直後に家を出てしまいました。

そして高校はすぐに退学し、住み込みで働いていました。

溺愛していた弟が自分達から去ったことを両親は受け止められず、父が家の中で暴れたり、母がヒステリーを起こすのは“日常”でした。

 

(私は結婚して→逃げて→離婚するのですが、今回は親の事なのでそれは別の機会に書くかもしれません。)

 

私が30代の頃。

父が体調不良で入院し“肝臓がん”と判明しました。

入院した時点で「治療不可能」と言われており、ただ痛みを抑える麻薬を投与されていたので、父はいつも寝ているか、起きていても意識は朦朧としていました。そしてあっという間に死んでしまいました。

 

40代でひとりになった私は、“母と距離を取る事が自分には必要”だと薄々は思いつつ、それが全く出来ず、自分を責め続けて食事も取れなくなりました。

体重も36kほどに落ち、ボロボロだった私を支えてくれたのがゴリです。

ゴリが背中を押してくれて、精神科・心療内科・メンタルクリニック…カウンセリングが受けられる病院を探しました。

でもカウンセリングが受けられる=臨床心理士がいる病院が少なく、見つかっても“初診の予約は受け付けていない”と断られてばかり。

ネットで検索する日々が続きました。

やっと見つけた隣市にあるクリニックは臨床心理士も5~6人いたので、カウンセリングを受けながら投薬治療を始めました。

今ではカウンセリングは受けていませんが、薬は月に一度処方してもらっていて、もう9年になります。

 

 

続きますが、引き続き【閲覧注意】です。