一つは、戦後に軍人恩給が復活した時、南京大虐殺があったなどと言うと恩給がもらえなくなる、と元兵士たちは脅かされたそうです。それにも拘わらず死ぬ前に良心のとがめを流しておきたいとインタビューで勇気ある証言をする元兵士もいます。残虐行為の話で「もうこれ以上はとても言えません」と涙を流したり。否定派はそういう事も「ウソに決まっている」と。 >有ったという人は、南京虐殺記念館に行けば証拠は幾らでも有るといっていますね。 そんな事は言っていません。南京虐殺祈念館は中には間違いもありますが、あくまで例外的な間違いで捏造ではない。 日本軍は終戦時に大量の資料を焼却しましたが、それでも当時の日本陸軍の将軍、実戦に参加した兵士、従軍記者の証言、日誌などが少し残っています。御紹介しましょう。 南京の人口20万という記録は存在しません。南京戦の前の人口に関し信頼出来る唯一の資料は1937年11月23日に南京市長が政府に出した報告書「調査によれば本市の人口は50万余、将来はおよそ20万と予想される難民の為に食糧送付が必要」と。南京戦の前なので南京市長がウソをつく必要はない。20万は難民の数です。否定派はその20万を人口だと言い張る。
南京攻略軍総司令官・松井石根大将、東京裁判で死刑直前のコメント
「南京事件はお恥ずかしい限りです。私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、、、従って、私だけでもこういう結果になるという事は(注:死刑)当時の軍人達に一人でも多く深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
軍司令官、師団長だった澄田睞四郎中将の回想
「日本軍は事変の出だしから隠れもないあの南京虐殺事件は論外としても、残念ながら略奪、放火、殺人、強姦などあらゆる悪行のし放題と言ってよい」
陸軍省人事局長・阿南少将(のち大将、陸軍大臣)南京視察メモ
「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪絶えず」「「婦人方面、殺人、不軍紀行為は国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり」
第11軍司令官・岡村寧次中将(のち大将)
「派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺すの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上がる大殺戮、市民に対する掠奪強姦多数ありし事は事実なるが如し」
中島今朝吾第十六師団長の従軍日誌
「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約千三百」「大体捕虜はせぬ方針なれば片端よりこれを片付ける事となし(軍事用語で「処理」「片付ける」は虐殺)
第十軍国崎支隊歩兵第十四連隊の宮下光盛一等兵の日記
「①民家を発見したら全部焼却する事②老若男女を問わずシナ人を見たら殺せという命令を受けた」
山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記
「二、三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出して機関銃をもって射殺す。その後銃剣にて思う存分突き刺す。ウーンウーンとうめく支那兵の声、年寄りも子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた」
第十軍嘱託カメラマン河野公輝の話。
「銃剣で刺すなんて生易しいものではなく、棍棒でぶっ殺す。バクッと叩くと血がぶあーっと噴き出してね。蘇州の女というのがまたきれいでね。兵隊は手当たり次第に強姦して、やったあとは殺していたな」「川沿いに女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から道端に延々とそういう死体がころがっていた」
同盟通信社・新井正義記者
「校舎の一角に収容してある捕虜を校庭に引き出し下士官がそれを前方の防空壕の方へ走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突く。悲鳴をあげて壕に転げ落ちると更に上からとどめをさす。それを三ヶ所で平行してやっていた。壕の中には鮮血でまみれた死体が重なっていく。交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている」
昭和天皇の弟・三笠宮(陸軍士官)の自伝
「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ南京の総司令部に赴任、一年間在勤。その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんがそれは氷山の一角に過ぎないものとお考え下さい」
(中国人を生き埋めにする日本兵。日本側の撮影)
