東海村JCO臨界事故から13年 | 私にとって人間的なもので無縁なものはない

東海村JCO臨界事故から13年


今日(9/30)は東海村JCO臨界事故が発生してから13年目になります。

急性放射線症候群の実態をご覧ください。

昨年の事とほぼ同じになりますがご容赦ください(;^ω^)


臨界事故発生と経過
http://www.nuketext.org/jco.html#jiko
1999 年9月30 日、午前10時35分頃、茨城県那珂郡東海村の株式会社ジェーシーオー(以下JCO)(注1)の東海事業所・転換試験棟(注2)で、3人の作業員が硝酸ウラニルを製造中、突然の青い閃光と共にガンマ線エリアモニターが発報し、臨界事故(注3)が発生。3人の作業員が多量の中性子線などで被ばくしました。この事故で核分裂を起こしたウラン燃料は全部で1 ミリグラムでした。

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注1)ジェーシーオー
  1980年に、住友金属鉱山核燃料事業部東海工場が独立し、住友金属鉱山の100%出資の子会社として、設立され、1998年までは日本核燃料コンバージョンと称していました。本業は、軽水炉用原発に使う燃料を作ることで、この場合使用されるウランの濃縮度は3~4%です。
(注2)転換試験棟での作業内容
 転換試験棟は、JCOの本来の業務とは別に、核燃料サイクル開発機構(旧動力炉、核燃料開発事業団、以下核燃機構)から委託された、高速増殖実験炉「常陽」の燃料を加工する試験的な施設でした。この時は、18.8%という高い濃縮度のウランの硝酸溶液をバケツを用いて沈殿槽に移送していました。
(注3)臨界事故
 臨界とは、核分裂反応が原子炉内のように連鎖的に起こって、継続されていく状態をいいます。この事故では、原子炉施設でもない核燃料工場の一角に突如、「裸の原子炉」が出現したことになります。

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臨界の継続
 この事故では臨界が続いているのに気付くのが遅く、有効な手が打たれぬまま約20時間継続してしまいました。そのため多量の中性子線とガンマ線、核分裂で生れた放射能の放出が続きました。東海村の各所に設置された放射線のモニターは、通常の20~30倍を記録しています。

決死の終息作業
 10月1日、午前1 時40分第一回の現地対策本部会議が開かれ、沈殿槽の回りの冷却水の抜き取りが試みられました。きわめて過剰な放射線を浴びながら写真撮影班2名と16人が決死の作業をした結果、核反応は、午前6時15分頃終息しました。その後、中性子の吸収材(ホウ酸)が注入されて臨界に関しては危険性はなくなりました。
 
被ばくの実態
 今回の事故では、わずか1mgのウランの核分裂が大きな被害をもたらしました。(ちなみに100万kw級の原子力発電所では、1 日当たり2~3kgのウランが核分裂しています。)
 臨界による放射線の放出で、東海事業所内の人々はもちろん、付近の多くの住民までが被ばくしてしまいました。放射線の種類は、中性子線及びガンマ線、そして気体の放射性物質ですが、今回の被ばくの主な原因は中性子線でした。中性子線は透過力が極めて強く、厚いコンクリートも通り抜けます。中性子線を止めるのは水素を多く含むものです。
 人の体は多くの水でできているので、中性子線は人体によく吸収され、細胞を傷つけたり、死なせたりします。
以下被ばくの状況についてまとめてみましょう。

1.労働者などの被ばく

直接作業をしていた3人ー大内久さん、推定16~20シーベルト以上の被ばく、1999年12月21日なくなられました。
篠原理人さん、推定6~10シーベルの被ばく、2000年4月27日に亡くなられました。
横川豊さん、推定1~4.5シーベルトの被ばく、一時白血球がゼロになり危険でしたが、その後退院されました。シーベルトは被ばく線量の単位、致死量は6~7 シーベルトといわれます。)
大内さん、篠原さんの死因は放射線被ばくによる多臓器の機能不全です。以上の3人の方は、1999年10月6日、急性放射線症で労災に認定されました。(大内さんの容態については、NHK取材班「被ばく治療83日間の記録」を参照してください。)
救急隊員3人 事故の内容を知らされずに出動し、13 ミリシーベルト被ばくしました。
臨界終息のための作業をした人たちや東海事業所の従業員・政府関係機関の職員など最大で120ミリシーベルトに達してします。その他に50ミリシーベルトを超えてしまった人は6人もいます。(放射線を扱う作業に従事する人は年間50ミリシーベルトを限度にしています。この数字は胸につけた線量計によるものです。)
2.住民の被ばく
 JCOの施設は普通の街の中にあります。臨界事故では、隣接の施設で作業をしていた7人や周辺の住民が長時間中性子線などを浴びました。はじめ事故調査委員会(事故報告書参照)は、住民の被ばくを7人としていましたが、その後200名が追加されました。最大の人は、25ミリシーベルト、公衆の年間被ばく線量限度の1ミリシーベルト以上の被ばく者は112名に達しています。(この数字は科学技術庁の事故調査対策本部が行動調査によって被ばく線量を推定した結果です。科学技術庁の線量評価については、後述の大泉さんの場合、阪南中央病院の調査の6分の1以下という例もあり、切り下げられています。)なお、被爆者の総数は、公に認められただけで2000年4 月までに667名にのぼりました。
 中性子線・ガンマ線の他,1ヶ月間も放射性ガスが放出されており、付近から放射性ヨウ素群も検出されています。


調査報告 東海村臨界事故 ~緊迫の22時間を追う

http://www.dailymotion.com/video/xrw8f3_enusupe-1999-10-10-yyyy-yyyyyyy-yyy22yyyyy_videogames


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JCO臨界事故『青い光の恐怖』
http://www.sakado-gr.org/kaigaten/2000/ziko.htm
 福島原発市民事故調査委員会 東井怜さんに、日本がプルトニウムという核物質を大量に保有しているという話をうかがいました。

 1999年9月30日、JCO臨界事故が発生、2人の労働者の犠牲と周辺住民を含めて、わかっただけで、400人以上もの被爆者を出しました。日本の原子力史上最悪の事態となり、「安全神話」は崩れ去ったのです。

 JCOの小さなタンクは原子炉と化し、さかんに核分裂を繰り返しました。しかし、状況を正しく把握するすべもなく、減却剤も用意されておらず、労働者の決死の覚悟で、放射線を浴びつつ、作業を行ったということでも初めてのケースになりました。

 あれから1年が経とうとしています。裏マニュアル・無責任、危機管理能力もなく無策、ただ頭を下げるのみの首脳陣、JCO事故から、この国で同様なシーンを何度も見てきました。国民の、市民の、社員の安全が第一であるのは当然のことです。

 コストダウン、利潤の追求、人間を軽視し、空虚な繁栄を築き上げてきたその破綻が、「JCO事故のように」と形容され、次々と起こっています。

 この事故で、中性子線という、これまであまり耳にしなかった放射線が問題になりました。幸いにも放射線物質は大半が施設内に残りましたが、中性子線は2キロ先でも測定されています。広島の空で炸裂した原爆の中性子線が屋根を突き抜け階下で食事をしていた家族を直撃、死に至らしめたことを聞いていますが、こんな離れたところでも計測されたのです。

 雨の中を下校した子ども達、何の防護もなく、現場に向かわされたマスコミ、屋内退避を命ぜられた半径10キロの住民、約13万人。精一杯の核防災は交通の遮断という挙に出ましたが、近くにいた人々は中性子線にさらされていました。20時間も。

 ピーマンの表面が黒く変化していました。知らずに農作業をしていた人の肌もうっすらと黒くなったといいます。8時間後にやっと中性子線測定器が到着しましたが、はじめの測定値がわからないので、被爆量がわかりませんでした。京都大の先生が中心となり、JCO周辺の民家から5円玉を集めてまわり分析したところ、亜鉛が放射化していて、100メートル地点で家の中にいた場合、220ミリシーベルトの被爆という結論になりました。これは、年間自然放射線量の220年分にあたります。しかし、国はこの4分の1と認定しています。これはいったいなぜなのでしょうか。

 地球誕生から長い時を経て、自然界にはほとんどなくなり、人類が住める環境になったというのに、人類は、半減期2万4千年という長生きで猛毒のプルトニウムをまた作り出してしまいました。

 核弾頭になるほど爆発力の強い核物質は、原発の中で毎日少しずつできています。日本は、原発の使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを大量にためてしまいました。そして、諸外国の懸念をそらすため、ふつうの原発の燃料に混ぜて使おうと計画を変更しましたが、この混合燃料の安全性は低く、関西電力が発注したイギリスの公社で不正が発生し、使用開始の目処はたっていません。

 東京電力がベルギーに発注した分についても、十分なデータが発表されず、使用差し止めが福島地裁に申し立てられています。原告は皆様の協力で全国から1107名になりました。

 (文責 岡村ひさ子)


強い放射線を浴びても、細胞はほとんど死なない
ただ、細胞分裂ができなくなるので、再生できなくなる
だから一定期間後(今ある細胞が寿命を迎えて死んだ時)に症状が表れ始める

具体的に言うと
腸の粘膜細胞が全部剥がれるので、栄養吸収できなくなってとんでもない下痢になる
皮膚が全部垢になって剥がれおちて、下の生肉がむき出しになる(大火傷と同じ症状)
血球を作る骨髄細胞が消滅して、免疫がなくなる(エイズと同じ症状)
・・・などなど

脳みそや神経の細胞はずっと生き続けるため、意識・感覚はそのまま
死ぬまで生き地獄が続く

$私にとって人間的なもので無縁なものはない


Oさんの手の変化
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/96/5df097f74f2b47b493950579afb40f73.jpg

妹の幹細胞移植&皮膚移植も効果無し(閲覧注意
http://scrapjapan.files.wordpress.com/2008/12/jco-021.jpg

東海村JCO臨界事故の被害者の写真(閲覧注意・子供さんは見ないで!
http://blog-imgs-46.fc2.com/c/h/e/cherio1222/231108456747-up41591.jpg


東海村臨界事故

http://youtu.be/L_aZZlD-Iuc
被曝治療83日間の記録


被爆治療83日間の記録 NHK取材班(岩波書店) より
http://www8.plala.or.jp/grasia/dokushyo/JCO/Hibaku2.pdf
$私にとって人間的なもので無縁なものはない被爆-1999 年 9 月 30 日 
・バケツで七杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し始めたとき、大内はバシッという音とともに青い光を見た。
臨海に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。
その瞬間、放射線の中で最もエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。被爆したのだった。(2頁)
・被爆医療の専門家として歩み始めた前川は、前日の情報交換会で、原子力関連施設周辺の病院の医師や医療スタッフに被爆医療の知識が徹底して教育されていないことをあらためて思い知り、驚いていた。(6頁)
・前川には、症状や緊急の血液検査の結果などから見て、運び込まれた三人のうち、大内と同僚の二人が非常に高い線量の被爆をしたものと考えられると話した。
また三人が放射性物質を浴びていないことや、大内の吐しゃ物を分析した結果、ナトリウム 24 が検出されたことから、中性子線による被爆、つまり「臨界事故」だと確信していると伝えた。(9 頁)

1999年12月21日 - 被爆83日目
・「血液の流れが悪くなったことで、抗生物質や抗真菌剤が全身に行きわたらなくなった大内の体の表面には浸み出してくる体液を栄養分にしてアスペルギルスというカビの一種がはえてきた。銀白色のアスペルギルスは体から腕、そして足の付け根の部分に広がった。
「あーあ、お父さん、かわいそうに。頑張るのよ」言いながら、妻、涙ぐんでいる。また、顔をしっかり見たいとも言っている。」(128頁)
・「強心剤のボスミンのアンプルを三本使った。全く効かなかった。上が90、下が40あった血圧が突然、すとんと落ちた。
あっという間だった。通常は、少しずつ血圧が下がり、心拍数も徐々に下がって亡くなることが多い。
医療チームでは大内の心拍数が60を切ったら家族をよんで、病室に入ってもらおうと決めていた。
急遽、家族のいる待合室に連絡を入れたが、間に合わなかった。・・・・・・・放射線障害の圧倒的な広がりと強さに、医師として虚無感すら感じていた。」(131頁)
・「勝てぬ戦いに挑んだドン・キホーテの闘いだったのだろうか。・・・・・。矛盾していることはよくわかっていた。
生きてもらうために治療をしているのだが、治療はとてもつらいことが多い。そのつらい処置で本当に助かればいい。
しかし、大内はそうならなかった。助からないことは目に見えていたのだ。」(132頁)
・「山口も大内の最後に、自分も立ち会いたかったと思った。「三ヶ月間。昼も夜も患者さんのそばにいて、その運命にここまで関わる事は、これからもおそらくないだろうと思えたからなんです。
救急医療に携わっていると、余命があまりないと診断された患者さんをどこまで治療すべきなのか、患者さんの運命にどこまで関ることが許されるのかという問題に、つねに直面しています。
ぼくは大内さんの治療に三ヶ月関りました。でもいまも、はっきりとした考えはまとまらないんです。」」(134頁)
・「三澤はこれまで3000体余りの遺体を解剖してきたが、大内の遺体を見たときは驚きを隠すことはできなかった。
正面から一見すると真っ赤に火傷したような状態だった。
しかし、全身が真っ黒になった焼死体とは違っていた。放射線が当たったところと、そうでないところの境界がくっきりと分かれていたのだ。このような遺体を見たのは初めてだった。」(136頁)
・「大内さんにかぎったことでなく、亡くなった方はいつも、自分の意思に反して解剖されます。
だれも解剖されることはおろか、亡くなることさえ望んでいなかった、予想もしていなかったはずなんです。
それは、いわば国家権力によって解剖するのが、自分の仕事である司法解剖だと私は常々思っています。
だからこそ、ご遺体が何を言いたいのか、その声を聞き取らなければならない。
それは自分たち解剖医にしかできないことなんです。集中力を持って観察し、記録することで、その人の声に必死で耳を傾けるのが私たちの仕事だと思っています。」(139頁)
・「人間の体を内側から壊していく、放射線被爆。放射線の影響は、体のすみずみまで及んでいた。
しかし、体中の細胞が破壊されるなかで、大内の心臓は生きつづけていたのだ。」140(頁)

折り鶴 - 未来
・名和は大内の妻と抱き合って泣いた。・・・・そして自らの生き方についても考えた。
「自分にとって大切な人とはいっぱい話をして、その人がし口を聞けなくなって、治療するかしないかという選択を迫られたときに、この人はこういう人だったからこの治療は続けて下さいとか、この治療はやめてくださいとか、そういうことが言えるくらい、たくさんたくさん話をしたいと思うようになりました。
そして「いのち」について前よりずっと考えるようになりました。
生きたいと思っている人なのに生きられなかったら、その生きたいという思いをすごくわかっているからつらい。
反対に、生きたくないって思っているのに生かされている人を見ていても、とてもつらい。
生きたいのか、苦しい思いをしてこれ以上生かされたくないのかは、本当に本人しかわからないと思うんです。だからこそ、「いのち」を人の手にゆだねられたくない。人は、落ち込んでいたら、もうどうでもいいって思って、死んでしまいたいと思うときもある。
頑張って生きたいと思うときもある。わからない。「いのち」って何だろう?」(142頁)
・「柴田直美も「いのち」について考え続けている。・・・・・死ぬのも生きるのと同じように、その人が自分の死に方をきめられればいいのに。
最後まで、その人の意思が尊重されるような、そういう最後を。・・・・どういうふうに生きていきたいのかを考えるのと同じように、自分はどういうふうに死にたいのか、考えられるようになればいいのに。そう思うようになりました。」(145頁)
・「細川美香も大内の看護で考えが変わった。助かる見込みがない患者さんにとっての「生」を考えるようになりました。
この人にとっては治療しても苦痛だけしか感じていないんだろうなという患者さん見ていると、いままでは、そんなことをしても患者さんの苦痛な時間を長くしているだけだ、早く楽になりたいと思っているんじゃないかとどこかで思っていました。
でも、大内さんと出会って、その考えは変わりましたどんな状況
でも患者さんは、決して早く楽になって死にたいなんて思っていない。
前向きに「よくなりたい、頑張りたい」と思っている。・・・・意識もなくて状態もよくなくて、治る見込みがないのにずっと延命していて、「生命の質」が問われる患者さんもいる。そのなかでも患者さんというのは、生きたい、頑張りたいと思っていると思うんです。」(146頁)
・「花口麻希は、いまも大内と対話を続けている。あの治療の意味がいまだにわからずにいます。大内さんの気持ちがわからないから。
いま振り返ってみても、あそこまで頑張って治療を続けたことが、果たしてだれのためになったのか。
やはり大内さんにつらいことを強いただけではなかったか。
大内さん自身の気持ちが永遠に聞けないから、自分自身がしてきたことへの後悔、罪悪感まで覚えてしまう。・・・・・あんなに家族を思っていた大内さんだから、家族のためにがんばったんだって思わないと、自分が許せなくなる気がするんです。
自分が大内さんを無理やり生かさせてしまった一因になったのではないかと思うと、一生罪に感じてしまう気がするんです。」(148頁)
・「大内の同僚の篠原理人が東大病院の前川のもとに転院してきた。・・・・・・・大内の死は一週間か二週間くらいたって、兄が伝えた。篠原は、そのとき泣きながら「俺もそうなるのかな」と言ったという。
妻は「元気になったら、二人で大内さんのところにお線香をあげに行こうね。」と夫を励ました。・・・・・・しかし、容態の悪化は止まらなかった。
転院から一週間後には尿が出なくなって、24 時間の持続的な血液透析が必要になった。
また、放射線による肺の障害が顕著になり、肝臓の機能も悪化した。そして、被爆から211日目の4月27日7時25分、死亡した。40歳だった。」(153頁)
・「大内と篠原、二人の被爆患者の治療は前川の医者としての驕りをみじんに打ち砕いた。同時に、被爆治療は、近い将来、勝見込みのある闘いだとは思えなくなった。
放射線障害を受けた臓器や組織を最新の再生医学によって次々と置き換えていくだけでは、人間は救えない。事実、大内も篠原も造血幹細胞移植は一応成功したものの、高度な免疫機能を持つリンパ球は未熟なままにとどまり、本来の免疫機能が回復することはなかった。
高線量の被爆、とくに臨界事故などによる中性子線被爆の治療について、これまで日本ではほとんど研究が行われてこなかった・・・・・原子力防災の施策のなかで、人命軽視がはなはだしい。
現場の人間として、いらだちを感じている。責任ある立場の方々の猛省を促したい。」(154頁)
・「放射線の恐ろしさは、人知の及ぶところではなかった。今回の臨界事故で核分裂を起こしたウランは、重量に換算すると、わずか1000分の1グラムだった。
原子力という、人間が制御し利用していると思っているものが、一歩間違うととんでもないことになる。そのとんでもないことに対して、一介の医師が何をしてもどうしようもない。
どんな最新の技術や機器をもってしても、とても太刀打ちできない。その破滅的な影響の前では、人の命は本当にか細い。
しかし、大内は、そして篠原は、その命の限りを尽くして、前例のない闘いに挑んだのだった。
放射線や原子力と命の重さの関りを見つめなおしたい、前川は決意した。人の命の尊さを、原子力防災の枠組みのなかで訴え、万が一、同じようなことが起きたとき、できるだけ早く医療として対応できるような準備をしたいと思った。
そのための体制づくりに、自分自身のこれからの人生とエネルギーを捧げたい。それは二人が与えてくれた決意だった。」(156頁)
・「とても悲観的な考えなのかも知れませんが、原子力というものに、どうしても拘らなければならない環境にある以上、また同じような事故は起きるのではないでしょうか。
所詮、人間のすることだから・・・という不信感は消えません。
それならば、原子力に携わる人達が自分達自身を守ることができないのならば、むしろ、主人達が命を削りながら教えていった医療の分野でこそ、同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう、祈ってやみません。」(157頁)

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「均一化は必要なかった」(吉田守審査官)
NHK特集 事故原因の核心に迫る
http://www.jcan.net/tanpoposya/tsuchida/jco0311mtzk.htm


クローズアップ現代 No.2401 隠された臨界事故~問われる原発の体質~ 2007.04.24

http://www.dailymotion.com/video/xredst_yyyyyyyyy-no-2401-yyyyyyyy-yyyyyyyyy-2007-04-24_videogames


【大切な人に伝えてください】小出裕章さん『隠される原子力』

http://youtu.be/4gFxKiOGSDk


もうひとつの連鎖反応-臨界事故への歯車はいかに回転したか
2002 年 10 月 11 日 京都大学原子炉実験所 藤野 聡
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No89/fujino021011.pdf


JCO臨界事故総合評価会議
http://www.cnic.jp/jco/jcac/

JCO 臨界事故・最新の知見と教訓の国際発信
http://www.takagifund.org/grantee/r2005/02-53.pdf

JCO臨界事故 3年後に見えてきたもの( JCO 臨界事故総合評価会議 )
http://www.cnic.jp/jco/jcac/reports/2002/350/JCO2002_350full.pdf