集まったのは23人中、男子4人、女子8人でした。
女子は一人は看護師で仕事、一人は職場の旅行、一人は用事で3人欠席でしたが、みんな町内と隣接市町に住んでいるので、出席率はいい方です。
中学は3小学寄るので3クラス、高校は9クラス。
それぞれの同窓会に行ってもそれなりに楽しいのですが…。
小学の友人たちは保育園から8年間ぐらい一緒に過ごしてきたし、実家も小学の周りに車で10分ほどの間に点在しています。
親のことも、「おいちゃん、おばちゃん」と呼んで、みんな顔見知りです。
だいたいみんなの性格も判るし、昔から知っているので男女とも仲良く、一番気心しれた仲間なんじゃないかなと思います。
大阪のオバチャン顔負けの、あっちでもこっちでも弾丸トーク炸裂
で、実によう喋る喋る

うるさ過ぎて端の声まで聞き取れず、みんなそれぞれで大いに発散していましたね。
あちらこちらで昔の思い出話に花が咲きました。
当時水洗トイレは珍しかったのですが、私はいつもその男子の家のトイレを借りて、自分家に帰っていたら、そこのおばちゃんに、「学校でして帰り!」と言われたことがありました。
2年の担任の女の先生にいたずらしました。
教室の扉の上に黒板消しを挟んでいて、先生が入って来られた時に頭に落ちて、先生が怒って職員室に戻られ、謝りに行ったこともありました。
6年の時、男子の一人と交換日記の話をしていて、好きな男の子ランキングでその子が3番目で、その時に周りからからかわれ、囃し立てられたので、その男の子が怒って学校を飛び出し、近くの自宅に帰ろうとして、誰かが引き留めようと追いかけて田んぼ道を走って行ったこともありました。
給食の揚げパンが美味しかったとか、当時の牛乳に入れる粉末のミルメークCというコーヒー牛乳になる粉は美味しかったけど、今市販のは味が違うとか…。
6年の時の担任の男の先生と、いまだ年賀状のやりとりをしている男子がいて、たぶん80歳前後やろか?ということで、もうヨボヨボみたいやで~とか。
今年の年賀状も来てたからまだ死んどってないわ~とか…。
2年の時の担任の女の先生の自宅にほとんどの女子がバスに乗って遊びに行き、お風呂に入らせてもらったことがあります。
珍しい岩風呂で、広くて泳げました。
今みたいに不審者対策で集団下校も、地域のサポート隊も無く、ある日の下校時は、電柱から電柱の間ジャンケンをして、負けた子が数人のみんなのランドセルを持ち運ぶようなことをしたり、ずいぶんみちくさをして帰ったなぁと誰かが話してました。
理科室に聴診器があって、それを数人で触って遊んでいたら、6年の担任の先生が突然扉を開けて、「こらっ
、何しとるんや~!」と言われ、みんなで一斉に飛び出して行ったこともありましたっけ…。ある日のこと、近所数軒の朝の新聞配りをし忘れていて、登校途中男子の家で電話を借りて、私の母に「新聞配るの忘れとった。お母さん、配っておいて~」
と、そんなこともありました。
…………………
もう記憶も断片的になってきましたが、いろんな思い出があります。
近況報告では、今尿失禁がひどいねんとか、私泌尿器科の受付しているから、診察においでとか、
更年期、閉経になりつつあるとか、子宮筋腫持ってるねんとか、胃カメラはあそこの病院では少しもえづかなかったとか、
旦那の母がすい臓癌で、元気だったのに手遅れで見つかり、あっという間に亡くなったとか、
嫁と親が折り合いが悪く別居していたけど、嫁が同居してもいいと言ってくれて、今実家をリフォームしているんやとか。
誰それは孫がおるねんでとか、
あの子中学以来見たことないなぁ…。どないしとるんやろ?とか、
そんな話もしましたね。
そして、一人の男子が「みんなに提案がある!」と。
「近いうちに小学6年間の6人の担任の先生を招いて、正式に同窓会しないか?」
「僕たちも数年したら50歳になる。いつまでみんなと一緒に話できるかわからない。この度は先生にも参加してもらおう!」
ということで、さっそく来年2月に泊つきで小学の同窓会を計画することになりました。
一人ヨボヨボの先生がおられるという噂ですが、ほとんどは定年になり、第2の人生を過ごされている方ばかりです。
東京オリンピック開催、新幹線の開通…といった高度経済成長時代に生まれ、“縁”あって同級生になった23人の仲間たち。
「オールウェイズ3丁目の夕陽」
の1964年生まれの私たちです。
携帯もパソコンもゲーム機も何もなかった時代に大きくなりました。
今はみんな携帯でアドレス交換などして、何とか時代についていっていますが、昭和の私たちの成長した時代は、田舎の素朴な鼻たれ小僧もまだ数人はいた時代でした……