ご無沙汰しております、ナグです。
こちらのブログで記事を更新するのは本当に久しぶりです。
基本的に、散文的なブログなのですが、2019年もあと2週間と少しになりましたね。
平成から令和に、元号が変わり、書類などの「令和元年」を見ると、
昭和から平成へと変わった、あの頃の違和感を少し思い出します。
毎年、この時期になるとこの一年はどうだったとか、来年はどういうふうにしたいとか、
いろいろと思うことがあるわけですが、頭の中で考えていることを「かたち」にして表現するには
10年前と比べると、本当にさまざまなツールがあり、選択肢も多種多様になったと感じます。
ネット環境、というものはほんとうに私たちの生活を一変させましたね。
ブログ、インスタグラム、Youtube...etc.
個人が自由に情報発信できるようになった、というのはとても大きな変革だと思います。
と、同時にその膨大な情報の中から、本当に価値のあるものと、そうでないもの、を見分ける力、
というものが求められていることは確かだと思うわけです。
特に、スピリチュアル畑(ばたけ)においては、もともと「根拠」を提示することがとても困難なものが多いです。科学や統計学のように、いわゆる「エビデンス(証拠・根拠)」に基づいた論理展開で話をすることは不可能で、『受け取りたいことを、受け取りたいように、受け取る』という傾向がどうしても強く働いてしまうものです。
その中で、「体験的客観性」を持つことは、スピリチュアルな道を歩むうえで、とても大切なことだと思っています。
「体験」は、そもそも個人的なもので、「主観的な」ものになります。
「客観」は、外から見る視点、第三者的な立場から物事を見た状態を言います。
ですから、「体験的客観性」という言葉は、一見相反する言葉を並べた、矛盾する言葉のように感じるかもしれません。
たとえば、
「あの人が、こう言っているから。」
ということだけが自分の選択や決断の根拠では、あまりにも頼りないと、感じてしまうのです。
もし、その結果、望む体験へと到達することがなければ、
「あの人の言うことは、当たらない。」
とか、「当たる当たらない」の話にまで、落ちてしまったりもします。
「体験的客観性」という言葉を、この話に当てはめてみると、
「あの人」が言っていることを、自分が信じた理由や、自分の選択を決定する要因にした根拠に当たる自分の思いや気持ちを、自分が意識できているか?という部分を見ておく必要があるのです。
その人の言葉を「自分が選んだ」という事実。
そして、そこに至る中で、自分自身で考えて、至った結論と同じだから採用したのか?
「そうであってほしい」と、渇望していることに対して、あてはまる言葉だから採用したのか?
自分自身の中での心の動き、プロセスが見えているのかどうか?が重要になるのです。
現実世界での「体験」は、起こった出来事、という結果だけしか見えません。
スピリチュアルな世界観での「体験」は、この“心のプロセス”を含んでいるわけです。
そして、自分がどのように感じ、どのような理由で、どのような選択をしたか?という「心の内側の動き」を含めた一連の流れと、現実的な行動が合わさったのちに、現実世界的な「体験」が現れているのです。
自分で、自分自身のその心の動きを見てみる、という客観性をもって、向き合ったときにはじめて
『だから、そうなってたんだ!』
と、自分の体験に納得がいくようになるのです。
人は、自分自身で納得がいくものしか、
再び自分の人生のなかで「ツール」(方法論)として、活用することはできないものです。
『どのようにして、自分の体験を広げていくのか?』
ということは、スピリチュアルな道を歩んでいくうえで、尽きない問いですよね。
「じゃあ、どうやって?」を語っている人は、意外に少ないんだよ。
「情報」が意味を持つのは、『体験』へと昇華したとき。
情報は「説明」を必要とするが、
『体験』した者同士の間では、説明の必要性はなくなるものである。