こんにちはナグです。
多数のアメンバー申請とメッセージありがとうございます。
お待たせしていてごめんなさいね。ゆっくり拝見し返信しますので宜しくお願いします。
男性側の気持ちを知りたいのでアメンバー申請をお願いしますというメッセージが多いのですが
性に関することでプリマリアが他のサイトで書いていた文章と頂いたコメントを載せています。
したがって僕側や男性の気持ちを書いているわけではないです。
Primaria☆Stone では、パワーストーンを始め、スピリチュアルな体験や事柄について
幅広くお伝えさせていただいています。
実際にセッションを受けてくださった方々からはささやかな奇跡のご報告もいただいています。
ありがとうございます。
日々の奇跡。
これはあるカトリックの牧師さんの話ですが、ある日曜礼拝で牧師の説教が「神の奇跡」について、話をされたあと、信者の方が質問をしたそうです。
「奇跡とは、なんですか?」と。
牧師は、こう答えました。
『種を蒔いたら、芽が出てくる。これが奇跡です。』
と。
普段、ごく当たり前にしてしまっていて、そんな事を考えることに気持ちを向けることもないことがあります。農家の方は日々、作物の世話に情熱を傾け、愛情を込めて育てられていることでしょう。
そんな農家の方々が、
『この種を蒔いても、芽が出なかったらどうしよう。』
なんて、考えないでしょう。もちろん、芽の出てくる種、芽の出てこない種、というものはありますが、総じて“芽が出てくること”を信じていることすら、考えもしないことだと思います。
そうなることが、考えることもないくらい当たり前に自然である。
芽が出ることに対する、農家の心の姿勢ってそんなふうではないでしょうか。
“信じよう”とする、という半ば脅迫的な気持ちがある。
ということは、そもそも、深いところでは「信じられない!!」と魂が叫んでいるのです。
その叫びに耳を傾けていかないで、“自然に信じられている”という心の状態に至ることはありません。
「彼を信じているんです。」
その言葉は、“種を蒔いたら芽が出てくる”くらいに、自然に思えているでしょうか?
当たり前を、もう一度見つめてみる。
そうすると、今ここにある奇跡に気づくことができます。
『種を蒔いたら、芽が出てくる。それが奇跡です。』
という牧師さんの話を紹介しました。
そして、“そうなることが当たり前に自然である”というについて、
奇跡を受け取れる心の在り方に触れてみました。
> 「彼を信じているんです。」
>
> その言葉は、“種を蒔いたら芽が出てくる”くらいに、自然に思えているでしょうか?
「ああ、私はそんなふうに思えていない。(だから、ダメだ。)」と、
自分自身に“ダメだし”してしまった・・・という方も、もしかしたらいるんじゃないかと思ったのです。
でもね、大丈夫なんです。
どうして“大丈夫”なのか?ということを書いておきたい。
そこで、今日は“成長”の本質、ということをお話したいと思います。
例えば、体を鍛えよう、筋肉(筋力)をつけよう。と思って、100kgのバーベルを持ち上げようとします。
まあ、100kgでなくてもいいですけど、とにかく今の自分には到底挙げられない重さだったとします。
しばらくの間、持ち上げようと格闘しても、1ミリも挙がらなかった。
結果として、「全然ダメ」だったわけです。
現実的な部分、目に見える部分だけを捉えるとそうなります。
ここで“見えないところで起きている変化”や
“まだカタチになっていない変化”に気持ちを向けるのです。
でも、普段使わない筋肉を使い、一生懸命頑張ったから、
次の日にはちょっと筋肉痛だったりします。
今日もまた、少しだけでも挑戦してみるのです。
そうしているうちに、その負荷によって筋肉が鍛えられてきます。
“成長”の本質というのは、そういうところにあるのです。
100kgのバーベルが持ち上がること ⇒ これは結果です。
持ち上げられたとしたら、それは目標達成です。成長した結果、そこに到達した。ということです。
持ち上げられる(られた)ことよりも、持ち上げようとすること
ここに成長の本質、本当にあなたが大切に自分自身で認めてあげるべきもの
があるのです。
だから、
『今、その人のことを信じられないとしても、
ありのままのその人に向き合い“信じよう“とする』
その思いを、もし、あなたが持っているとするのなら、
その尊い思いを大切にして欲しいのです。
そして、その思いをより確実なものにしていく鍵になるのは、次のことなのです。
彼の振る舞いや行動、発言が信じらないものなのではなく、
彼の振る舞いや行動、発言の背後に隠れている彼自身が抱えている傷が見えるかどうか?
誰だって、傷に触れられたら、触れられないように離れます。抵抗します。
そして、その前に
彼の振る舞いや行動、発言が信じられない、と
感じてしまう自分自身の“感受性”、その理由を探る必要があるのです。
そう感じてしまう自分自身の感受性を見ていくには、どうしたらよいのか?
というところを、セッションなどでお話させていただいています。