先日の七夕の一斉ヒーリング、多数のご参加ありがとうございました。
個人的にメッセージで、感想を下さった方、また、伝授申し込みを下さった方、
いろいろと変化や近況をお教えくださった方々にも深く御礼申し上げます。
一年のうちに、いろいろな日があり、七夕もその一つだと思うのです。
忙しい日常の中で、そういった日々に込められた意味、というものに
思いを向けることがなければ、ただ過ぎていくカレンダーの上の数字に
なってしまう。そんな風にも思います。
仕事柄、いろいろな方のお話を聞かせていただくことが多く、
長くお付き合いさせていただいている人や、1度のセッションだけで
その後、ほとんど連絡を取ることがない、という方もおられますが、
そういった様々な出会いを通してみても、今年に入ってから、
『今まで見えてこなかったものが、次第に“わかるかたち”で
浮かび上がってきているんだな。』
と、感じています。それは、『時代』の流れなのだろうと思います。
“知るべきことは全て知らされる。”
大切なのは、私たちがそれを“受け取ろう”としているのかどうか?
今の自分を改める機会として、“知るべきこと”が告げられている
としても、私たちがそれを「受けとりたくない」ままでいれば、
そのようなことも有り難くはないし、むしろ痛みや不快な感情を
呼び起こしてしまうものなんでしょうね。
だれかの振る舞いや言動に、「嫌だなぁ。」と感じる。ということは、
単に自分の中に「それをよしとしない」気持ちがあって、その気持ちがあるから
そんな風に思うわけで。
そんなときに、『自分がなぜ、“それをよしとしない”と思いを持っているのか』
というところを見ていくと、いろいろな、自分についてのことが分かる。
スピリチュアルな話だけではないけれど、『ゆるす』ということの大切さを
多くの人が話しています。自分自身の人生、自分自身の幸せを考えるなら、
この『ゆるすということ』は本当にたいせつなんだろうな。と。
僕は個人的に思う事があって、“ゆるす”ということを理解するとき、
多くの人は、「相手がしたこと」を許そうとするんだと、感じています。
でも、「相手がしなかったこと」を許そうとする人は少ないかな?と。
“同時に反対側も見る”
相手が自分にとって嫌なことをした。ということはつまり、
⇒その人は「私が望んでいること」をしなかった。
ということ。
相手のしたことを許す、というのは「相手の罪」をなかったことにする。というゆるし。
相手の「しなかったこと」を許す、というのは「自分が勝手に作った“期待”」を手放す、
という解放であり、降伏であり、お互いを自由な位置へ戻す訂正だと、
僕は思っているのです。
ああ、自分は勝手に相手にこんな期待を押し付けようとしていたんだ。
という、気付き。それを手放すことで、相手だけでなく、自分も自由になることができる。
自分が望んでいること、これを無いものにする必要はない。
ただ、自分はそう望んでいる。というのは、自分のことであって、相手のことではない。
相手もそれを同じように望んでいるのであれば、
それはお互いの間で「愛のある形」になって、現実のものに現れるでしょう。
あなたは『自由』ですか?
なんでもできる、ということが自由ではなくて、
あなたの心が自由ですか?という問いかけなのです。
(日々雑感)