読解力、ということ【2】 | 過去生ツインソウル・メソッド®︎&ツインソウル・ヒーリング®︎ Primaria☆Stone

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“魂のメッセージ”を読み解く過去生ツインソウル・メソッド®︎、“魂の絆”を深めていくツインソウル・ヒーリング®︎のナグ&プリマリア【Primaria☆Stone】

前回の記事で、妻のブログを引用して、
少し「読解力」ということについて、触れてみました。 

前回の記事はこちら↓ 
コメントいただいた質問はこちらだったんですが、 

> 石には人間みたいな心はないけれど、意識はある 
> との事ですが、心と意識はどのように違うのですか? 
> どう解釈すれば良いのか良く解らなくて… 
> 差支えなければご回答頂けますと嬉しく思います。 

なぜこのコメントが 

“質問の体をなしていない”

か、ということを説明していこうと思います。 

妻の記事の「論旨」は簡潔にまとめると、こうです。 

「石たちは人間と同じようなこころ(感情的活動)を 
持ってはいないけれど、何らかの“活動”をしている。」 

この質問者の方が、投げかけている質問は

単純に質問としては、成立しています。 

が、記事に対するコメントとしては、
論旨とは、“ズレて”いるんです。 

この質問者の「前提となる立ち位置」が、
どのような立ち位置なのか?ということが焦点になります。 

妻の記事で伝えたい論旨に対して、この方が 

“石たちが何らかの(人間の精神活動に似た)活動をしている。” 

という立ち位置であるなら、 

石たちは「心=意識」があり、何らかの活動をし、
人間に影響を与えている。 

ということになります。 

つまり、この立ち位置であれば、妻の意見と同じ立ち位置で
「石たち」を捉えているのです。 

(わたしは、心=意識というふうに考えるけど、筆者は
何か「心」と「意識」にニュアンスの違いを見出しているんだな。、、、
という感じになるはずです。) 


そして、もし、この方が 

“石たちは単に物質で
「意識的な活動」もしないし、「精神活動」もない。” 

という立ち位置であれば、 

石たちは「こころ」を持っているわけでもないし、
             「意識」があるわけでもない。 

という捉え方だということになります。 

だから、 

『心と意識はどのように違うのですか?』 

という問い自体が意味を成さないんです。 

心であろうが、意識と表現しようが、
「そのようなものは、石にはない」のですから。 



もし妻が、

“石たちにある、何らかのエネルギー的な活動を
「心を持っている」と表現するか、「意識を持っている」と
表現するか?”

という論点、言い方を変えると 

『石あるのは、心か?意識か?』 

という論旨で、自らの論理を展開しているのであれば、
この質問は、質問する「場所とタイミング」が合致している
と言えるでしょう。 



文章にするとき、気をつけておきたいのは、
『必要な情報の大部分が欠落してしまう。』ということ。 

質問の前の“前提”がはっきりしていないのです。 

この質問者の質問に手を加えるのであれば、
以下のようになることと思います。 

「私も同じように、石たちが何らかの、
人間の精神活動のようなもの、エネルギー的な
活動をしていると感じていますが、 「心」とか「意識」とか
の表現、ニュアンスの違いがよくわかりません。 
 
プリマリアさんは、どのようにその定義をされているのでしょうか?」 

というのであれば、わかるんです。 

そして、この質問の内容であったとしても、記事の論点、論旨が
「心か、意識か?」ではないので、記事を通じて表現する側
としての「表現に対する責任の範囲外」なんですね。 
(まあ、ブログや記事を書き、表現する側としての“思い”として、
 答える、ということはありますが。) 

『言葉の定義』について、論じてしまう時、僕はよく 

“概念の遊びに陥っている” 

というふうに言うことがあります。 


妻の記事において、石たちの表現している活動が
「心を持っている」のか、「意識を持っている」のか?
ということはが主題になっているのではない。

ということが理解できれば、この質問にはならないでしょう。

『言葉の定義』は、同じ言葉を使ったしても、
その場で意味や「伝えようとしていること」が変わります。 

例えば『意識』という言葉、 

・この患者は病院に運ばれた時点で“意識”が無い。 
・あの日から、私は彼を“意識”し始めた。 

二つの文章では、
名詞的に使われているか、動詞的に使われているか、
という違いもあるけれど、“意識”という同じ言葉、文字で
表現されている。
そこに込められている思いや表現しようとすることは全く違う。 

全体的な文脈、論旨、主張を見失ったとき、
『概念の遊び』になることが多いのです。 


そして、この論旨や主張という表現の中の中核となるテーマを
感じ取る力は、“抽象化する力”にあると思っています。 

具体化⇔抽象化  

何かについて考え、論じるとき、この「具体化/抽象化」という
考え方を身につけていると、核心部分を見据え、
焦点を定める力になるだろうと、僕は思っています。 

そして、その力を“読解力”というタイトルで表現させてもらいました。