肝心なことは、目に見えない。

肝心なことは、目に見えない。

心で見なくちゃ物事はよく見えない。

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2018年~2019年の年末年始はタイで過ごしました。昨年は香港・中国にいましたが、今回はタイ。一年は早いですね、一年前の年末年始もありありと思い起こすことができます。光陰矢の如しとはこのことです。


ここ数年は、普段は会社員として仕事をしていて、年末年始やゴールデンウィーク、お盆の時などは国内外に旅行に行くという、ありがちかもしれないけどそんな休暇の過ごし方をしている。ときに人からイイね羨ましいとかいうことも言われるけど、要は自分が納得のいく過ごし方をすればいいわけで、実家に戻ってもいいし、一人で東京に残ってもいいわけだし、どれが優れていてどれが劣っているとか、そういうのもないと思う。


こういうとき、「幸せの雛形」のようなものがあって、それに当てはまっているとあなたは幸せとか、幸せじゃないとか、そんな数式があるように見えるのだけれども、そういうものでもないと思う。


2019年は多分もっと目に見えないものに敏感になる必要があると思うし、それが後々大きな違いとなって現れるような気がする。


目に見える、分かりやすいもの、数字や指標、外見ではなく、表層の裏に隠れた真理、流れ、気、見るのではなくて感じるものをもっと重視すること。

具体的には、自分や他人の感情、雰囲気、気、場、音楽、聞くもの、嗅ぐもの、などなど。


そして私は2019年はもっと良い気を纏っていたいと思う。人の佇まいや気というのはその人自身は多分分からないものではあるけれど、自分の身の回りのことにこれまで以上に気を遣い、言葉、仕草、環境、人間関係、着るもの、飲むもの食べるもの、やること、触れること、全てを自分がそうしたい・そうすべきだと思うもので満たしていれば、自ずとその人の雰囲気は作られると思う。



【2019年に意識したいこと】

・ますます目に見えないものが重要となる。

・綺麗事だけ言わない。人間の美しい部分だけでなくて、醜さやずる賢さも認める。清濁併せ呑む。

・今生で全てやろうとしない。今生で全てやろうとするから苦しくなる、と考える。

・習慣が重要になる。無意識でやってしまうもの。習慣化させたいものがあるなら、最初は意識的に行う必要がある。何度も繰り返して無意識でもできるようにすることが要。


 

夜、1人になると、どうにもこうにも感傷的になる。

 

論理や数字はすべて端に追いやって、

気持ちのおもむくままに、

思慮したり、思考を柔軟にさせることに注力する。

 

 

そして、自分の臨終のときを思い浮かべる。

 

どんな最期を迎えるのか。

 

親しい人たちに囲まれて静かに息を引き取りたい。

 

今、関わっている人たちは、

私の死ぬ間際まで関わっているのだろうか。

私は関わってほしいと思っているのだろうか。

 

死期が近くなる頃には、今の人間関係とは違う人間関係が形成されているかもしれない。

 

ただ、今いるステージで、

その時期、その時期、一瞬一瞬を一生懸命生きていれば、

それは、周りの人たちの心に残り、何かしらの影響や印象を与えることで、

「あの人はこういう人だったね」と偲んでくれるだろうと思っている。

 

 

 

今日もお読みくださりありがとうございます。

 


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自分を律するもの。
それはセルフイメージ。

どんなイメージかを持つかで
自分がどんな人間になるかが問われていることになる。


「私が思う私はこんなことをしない」
「私の抱くセルフイメージでは、こういうときはこういう風に振る舞う」

など、セルフイメージが自分自身たらしめ、行動にも影響する。




今日もお読みくださりありがとうございました。


 

文章によって、違う自分を表現できる。

 

例えば、現象的なものを楽しんでいる自分と、

物事の本質をとらえようとしている自分。

 

文章にはその人柄が出るというけれど、

時々自分でも「これは同じ人物が書いた文章とは思えない」と思う程、

ずいぶん違う文章が出来上がってきて戸惑うことがある。

 

でも、それはアリなのだと思う。

 

自分の中にもいろんな自分が共存していて、

「昨日はこの私が文章書いた」

「今日はまた別の私が文章書いた」ということがあるからだ。

 

自分の中には幾つもの側面があって、

時に応じてそれぞれの立場から文章を綴っていく、そんな感じ。

 

でも根っこは一つで統合されている。そういう感覚。

 

 

今日もお読みくださりありがとうございます。

 

現象的なことに対処している自分と、

その一歩奥に下がって見ている自分がいる。

 

現象的なものに対応するのに必死で、

うまく立ち振る舞っていて、

リアクションするのが上手な自分と、

 

何事にも静観して、

物事の奥にある本質を見極めようとじっとしていて、

コアとなる何かを言葉にしようともがいている自分。

 

どちらも自分であって、

どちらの自分も肯定して、

どちらの自分も私の中に共存している。

 

 

 

今日もお読みくださりありがとうございます。