【ナン・ヨーコーの小説】
第2話 黒田
その日、目黒タカシ(28歳・男性)は代々木のカラ館で会社の恒例行事となっている上期の打ち上げに参加し、おしぼりを振り回しながら湘南乃風を巻き起こしていた。
「いつもより多めに回しまっせ~!濡れたまんまでイっちゃって~!」
「きゃー!タカシ君エッローい!」
目黒はハイになった時に、時々現れる真っ白な眩暈が、少しずつ自分に近づいているのを感じていた。
一方その頃チベット南部のヤルツァンポ川中流の、ここらでは一段と海抜の低い窪地で慎ましく稲作を営んでいる農村の一角で、盲目の高僧タンボ・ラマ(28歳・男性)はマニ車をいつもより多めに回しながら、暗闇の中に少しずつ光が射し込むのを感じていた。
なぜ、タンボ・ラマは28歳にして高僧になれたのか。それは彼が村人から28年前の1987年に死んだパンハ・ラマ10世の生まれ変わりと信じられていたからだ。
ところがタンボ・ラマはこの輪廻転生という考え方が嫌いでしょうがなかった。肉体は魂の入れ物に過ぎず、魂は永遠にこの世をグルグルと周遊し続ける。そう信じている村人の念仏には、共通して現実に対する諦めと来世への期待が込められていた。タンボ・ラマは思った。
「地球は回る、時代は回る、ファッションも回る。されども、俺は回っていない。人生は一度きりだ」
一方目黒は何がしたいかと言うと、とにかく遊んで暮らしたかった。同僚に合わせて会社への不満を口にすることはあったが、それでも毎月もらえる20数万円のサラリーに生かされている自覚があったし、組織の矛盾や非効率を糾弾できるほど頭の良い男ではなかった。
目黒は5分前、同僚の根本ハルオ(25歳・男性)とトイレで鉢合わせ、こんな会話をしていた。
「あっ、目黒先輩。今日も大活躍ですね。この勢いで、総務の小野ナノカ(26歳・女性)に告っちゃってくださいよ」
「おう、さっきも小野ちゃんと結構盛り上がったからなぁ、今日ならお持ち帰りできるかも」
「ははっ、そりゃ無理ですよ!目黒さん、だいぶ酒が回ってますね」
「いやいや、ワンチャンあるでしょ!ワンチャン!まぁ見てろって。いいか、根本。俺は回っていない。人生は一度きりだ」
境遇の違う2人は全く同時にほぼほぼ同じ事を考えながら、おしぼりとマニ車をいつもより多めに回した。
この2人の不思議なシンクロニシティは、一瞬だけ2人の魂を交錯させる事象を引き起こした。
おしぼりとマニ車はダイナモの如く機能し、回せば回すほどに光は強くなった。
少しずつ飛んでいく意識の中で、2人は共通の景色を見た。黒い田園の隅に花びらが浮かんでいる。
「あぁ、これが睡蓮か」
この0.1秒の出来事に気がついたのは、目黒に密かに想いを寄せている制作部の三浦ハルナ(27歳・女性)だけであった。三浦には、明滅するカラオケボックスの空間の中で、一瞬だけ目黒がオレンジ色の袈裟をまとった坊さんに見えたのだった。
一方、マニ車を回し終え、自らの肉体に舞い戻ったタンボ・ラマの元には、ある女性が訪れていた。女性はペコリ・チョンドゥー(14歳・女性)と名乗ってから、自分が大変に罪深い人間である事を告げた。
「タンボ・ラマ様、こんな私は生まれ変わることができるのでしょうか?」
タンボ・ラマは答えた。
「ええ、人間は生まれ変わることができます。一度きりの人生の中で、何度でも」
