- 前ページ
- 次ページ
80.エピローグ
剛は、一人沖縄の最南端与那国島の東崎の絶壁から、眼下に広がる大海原を眺めていた。
若い時から、この海のように、自由気ままに生きてきた。
夢とロマンを追い続け、元々人より優れた才能や能力が有る訳でもないのに、人一倍の負けん気と情熱だけで、生涯通算1000回余りのイベントやコンサート、ライブを手掛けて来た。
その結果、愛する妻と別れ、最愛の娘佐知子の心に深い傷と哀しみを与えてしまった。
その代償として得たものは何だったのか。
製作した映画や舞台を記録したDVDや、プロデユースした歌のCD、そして何枚かの大切な写真はある。
記録としての、CDやDVD、そして写真は残っている。
しかし、剛の手がけた多くのコンサートやイベント、舞台は、、花火のように儚く消えてしまって,形あるものは何もない。
製造業なら、製品が、建築業なら建造物が、作家なら執筆した書物が、作曲家なら音楽が、画家なら絵画が残っているだろう。
プロデユーサーには、何も残らない。 プロデユーサーとはそう言うものだ。
観客に、大衆に、ほんの一瞬の感動と喜びを与えはするが、終ってしまえば、多少の余韻は残るもののそれまでだ。
打ち上げ花火や、シャボン玉のように、美しいが儚いもの、それがプロデューサーなのだ。
その儚くも魅力的なものに、剛は人生全てを賭けてきた。
剛は、プロデユーサーを忘れゆっくり海を眺めて居たかった。
それでも剛は自分の生き方を決して後悔していない。
素晴らしき人生!
素晴らしき世界・・・・
サッチモの歌が聴こえてくる!
蒼い空、白い雲
なんて世界は素晴らしいのだろう! (完)
79.佐知子に「バックステージ」のことを話せなかった理由
2009年、映画「バックステージ」のDVDが発売された。
この映画の公開当時、劇場で見られなかった人達にも見てもらうことが出来て、
色んな、感想を頂いた。
概ね、「感動した、」「泣けた、」「主人公の生き方に共鳴した、」と言った好意的な意見だったので、剛は嬉しかった。
特にこの映画の重要なテーマである、「夢は持ち続ければ必ず叶う」と言うことに観た人の多くが共感してくれたことは製作者の剛にとって無上の喜びである。
公開当時は、佐知子に対しては、「バックステージ」のことは剛の方からは何も言わなかった。
佐知子も、「バックステージ」を観たとも言わないし、ましてや感想など言わなかったので観たかどうか判らない。
剛が最愛の佐知子に、本当は誰より真っ先に観て欲しいのに、「バックステージ」のことを、佐知子にだけは、あえて観てくれと言わなかったのは、映画の中にこんなシーンがあったからだ。
ヒロインさやかの母、一色舞子は、さやかが4歳の時ブロードウエーミュージカルに出るため、夫と4歳のさやかを捨てて単身渡米してしまう。
幼い時から「母親は死んだ」と聞かされ、男手一つで育てられてきた。
さやかが18歳の時、舞子が昔さやかを捨て渡米し、ブロードウェーで主演したミュージカル「アイム・ア・シンガー」が日本で上演されることになった。
かって、舞子が演じたヒロインを日本人歌手の中からオーディションで選ぶと
言 う。
そのかっての主演女優が実の母とも知らず、さやかが応募してくる。
大勢の応募者の中から、予選を見事突破してさやかを含め10名が最終審査に
臨む。
最終審査の前日、ホテルのバーで、さやかの父と舞子が会っている。
父が舞子に、さやかと会ってやってくれと頼んでいる。
しかし、舞子は「私が死んだことにしてくれて、有難う」
「今更、会ってどうするの?!」と強い口調で拒む。
実はこのシーン、この台詞があったため、佐知子の気持ちを慮って、「バックステージ」を観てくれとは言えなかったのだ。
現実には、杏子は「今更会ってどうするの?」と佐知子との再会を拒まなかった。
それどころか「サッチャンは、私を恨んでいたでしょうね」と自分を責めた。
しかし、離婚は杏子一人の責任ではなく、むしろ剛の方が、佐知子の心に深い傷を負わせてしまい、杏子には大きな哀しみを与えてしまったのだと、二人に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
昨年杏子と佐知子が感動の再会を果たした後、剛は映画「バックステージ」のDVDを佐知子に、「パパが創った映画のDVDだ。是非観てほしい」と言って渡した。
78.タップ「みにくいアヒルの子」
2005年は、デンマークが生んだ童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの生誕200年にあたる。
その記念行事の一環として、皇居前の名門、パレスホテルで「アンデルセンフェア」が開かれた。
剛の劇団アートシアターに、アンデルセンの童話をお芝居にして上演してくれないかと言うオファーがあった。
剛は考えた末、「親指姫」「裸の王様」「人形姫」など数ある名作の中から、 「みにくいアヒルの子」を選んだ。
これまで「みにくいアヒルの子」は、絵本はもとより児童演劇、アニメなど色んなジャンルで作品化されてきたあまりにも有名な作品だが、 剛はこれまで誰も実現したことのない、
タップダンスで「みにくいアヒルの子」を表現してみた。
台詞もナレーションも一切なく、唯音楽とタップダンスだけで「みにくいアヒルの子」を表現したのだった。
台詞がないと言うことは、外国の人にも楽しんで貰えるだろうと言う、剛の狙いはピタリ当たった。
会場が名門ホテルの宴会場とあって宿泊客だけではなく、官公庁や商社、金融機関、更には大使館関係者など、多くの外国人が来場鑑賞、大受けだった。
開催が夏休みの期間中だったので、家族ずれも多く、小学生や幼稚園の児童たちにも大好評だった。
ここでも、浩平とWAICHIのタップは子供達は勿論外人観客対をも魅了した。
剛は改めて二人の高い技術に感嘆した。
たまたま、これを観た、デンマーク大使館の関係者が感激して、コペンハーゲン(デンマークの首都)で公演しないかと言われた。
チボリ公園という,日比谷公園の野外音楽堂のような所があって、大勢の市民が集まるそうだ。
デンマークで公演するのであればそこが使えるように政府関係者に働きかけましょうと言うことだった。
何時かは行ってみたいなと思うが、それは自分自身の観光的な興味のためではなく、浩平とWAICHIのタップが世界のショービジネスでも通用する事を、実証したいからに他ならない。
77.主役になれないタップダンサー達とは一味違う!
浩平とWAICHIという若き天才タップダンサーを得て「愛の絆」は完成した。
タップダンスが題材になったドラマはハリウッド映画ではかってフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース主演の数々のミュージカル映画や、 ジーン・ケリー主演の「雨に歌えば」と言う名作映画などあったが、日本では、映画、舞台共にタップがテーマの優れた作品は殆ど無かった。
その原因の一つは、優れた技量のタップダンサーは、沢山居るが、
タップのテクニックこそ素晴らしいが、ルックス、演技力、スター性、と言ったものに欠ける。
だから、料理の素材としては飛び切り新鮮であったり、黒マグロの大トロの様に、最高の素材であったりするのだが、メインディッシュというか 料理の主役にはなれなかった。
しかし、浩平もWAICHIも違った。
料理の主役になり得る、スターだった。
彼ら二人のお蔭で舞台「愛の絆」はタップ場面をこれでもかと言うほど取り上げたので、とても楽しいステージになった。
※「愛の絆」についてはもっと書きたいのだが、この自伝的小説「この素晴らしき人生」が間もなく終るので、第2弾としてご紹介しますので、引き続き読んでください。(作者)
76.天才タップダンサーは二人居た!
中村浩平と出会って剛の「愛の絆」の構想は大きく膨らんだ。
主人公が、美人のタップダンサーと言う設定だが、そのヒロインが密かに想いをよせる振付師&タップの名手役を中村浩平に出演してもらうことにした。
更に劇中劇のタップダンスのショー場面で、スターダンサーとして登場する、スターの要素を持ったタップダンサーが必要なので、中村浩平に人選を任せた。
浩平が推薦して来たのは、松岡和一朗、芸名WAICHIと言う若いダンサーだった。
WAICHIは爽やかな浩平と違って目に独特の色気があって、大人の雰囲気を漂わせていた。
タップは浩平とはスタイルが全く違うものの浩平と同じぐらいに凄かった。
ちょうど全盛期の王と長島みたいなもので、世界に通じる記録を残す王が浩平だとすると、記録面では劣るけれど、スター性やカリスマ性で断然リードしていた長島がWAICHIと言ったところである。
実際WAICHIのタップは華麗で見る人全てを魅了した。
浩平が現代のタップ界を代表するセビアン・グローバー型だとすれば、WAICHIは時代や流行と関係ない、ハリウッドの大スタージーン・ケリーやサミー・デビスJRのような華のあるエンターテナーだった。
浩平もWAICHIも二人とも紛れもないタップの天才だった。
75.若きタップダンサーはジョン・コルトレーン
その江口祥子が、家の事情で突然兵庫県明石の実家に帰ってしまい関西で活動することになった。
剛は急きょ、江口の代わりのタップダンサーを求めて、色んなダンス関係者に、若手のいいダンサーが居たら紹介してくれと頼んで回った。
代々木上原にカザミヤスタジオと言う名門のダンススタジオがある。
カザミヤの清川社長が、「アメリカから帰ったばかりの、良い若手が居る。」
と言って、中村浩平というタップダンサーを推薦してくれた。
清川社長のオフィスであった中村浩平の第1印象は,シャイで清潔そうな好青年だった。
オフィスの片隅のダンスフロアで踊ってもらった。
内気でナイーブな印象と違って、タップは凄かった。
機械のように正確なリズム、力強く小気味良いステップ、、江口祥子のタップをモダンジャズのようだと言ったが、中村浩平はモダンジャズの巨人ジョン・コルトレーンだった。
剛は心の中で唸った。「こいつは、凄いや! こいつは、本物だ!」
74.「愛の絆」とタップダンス
何時かは、タップダンスを題材にした舞台をやりたいと思っていたが,やっとその気になったのは、「スタートライン」の再演にあたり、 ダンスシーンに変化をつけたかったのだ。
偶然タップのライブを見に行ったときに、目に止まった江口祥子と言う若手の女性タップダンサーが、あまりにも素晴らしかったので、「スタートライン」の主演女優である星野ゆりかと京島奈央の二人に、タップダンスを教えてやって欲しいと頼んだことから始まる。
江口祥子のタップはそれまで剛が知っていた、中川三郎や佐々木隆子のタップと明らかに違っていた。
あたかも、中川三郎や佐々木隆子のタップがスイングジャズだとすれば、江口祥子のそれはモダンジャズだった。
リズムと言いステップやフィーリングが全然違うのだ。
タップは生まれて初めてと言う星野と京島は、ほぼ1年間、江口の猛レッスンのお蔭で、一年後にはある程度タップが踊れるようになっていた
二人のタップが加わったせいで、「スタートライン」の再演は大成功だった。
73.「愛の絆」舞台公演とタップダンス
アートシアターの次回公演は好評を博した「スタートライン」に続いて、矢張り剛の作品「愛の絆」ときまった。
「愛の絆」は音楽もダンスもふんだんに出てくるが、純然たるミュージカルとは少し違う。
テーマは美人のタップダンサーの恋と、母子の強い愛の絆を描いてはいるが、剛としてはストレートプレイとして描いたつもりである。
唯、主人公をタップダンサーに設定したため、タップダンスの場面が何回も出てくる。
現代の日本の若手タップダンサーの中でも最も注目されている、中村浩平、松岡和一朗の二人を軸に、大勢の子供たちのタップも有り、その上出演者全員が中村浩平の猛特訓を受け全員タップで踊る場面も有り、その印象が強烈なため、この作品をミュージカルのジャンルに入れる人もかなり居た。
剛は、昔からタップダンスが大好きで、昭和45年頃日本のフレッド・アステア(ハリウッドの大スターでタップの名手)と言われた、中川三郎のマネージャーを引き受けてから、一層タップが好きになった。
特に中川三郎の愛弟子で幼少の頃からタップ一筋で、後に日本のタップ界を背負う逸材佐々木隆子のタップは素晴らしかった。
その佐々木隆子が若くして急死してからは、タップは好きだが、そのタップを題材にした舞台や映画を創ろうという気にはならなかった。