今日から京花、明日も京花。~ハノイで奮闘編~

今日から京花、明日も京花。~ハノイで奮闘編~

ベトナム・ハノイに移住しました。
日常のこと、起業について諸々備忘録的に書き綴ります。  京花

今お仕事で、テーブルウェア(食器)に向き合っております。


お陰様で、作家さんの器が自宅にも当たり前のように並ぶ陶器の町で育ち、幼い頃から手作りの温かみのある食器達に慣れ親しんできました。

そんな私、好きが高じて食器の選定等のお仕事も時折お受けしております。


現在ベトナムでは多種多様な食器が手に入るようになりました。

メインはベトナムを代表するバッチャン焼き、そして中国の工場製のものです。和風の器を探そうとしても、中国製でなかなかなクオリティのものは見つかるようになりました(やはり磁器に絵付けのものが得意そうですね)。


ただ、それらを目にしてもやはり日本の焼きもののバリエーション、品質って素晴らしいなと改めて思うのです。


バッチャンでは可愛いものは増えていますが、かつての素朴さが影を潜め、洋食向けのやたらピカピカしている食器が増えていてデザインや色合いも似通ってきていたり、

中国製はなんとなくそれっぽいけれど「質感」や「色使い」はやはり日本のそれとは別物のように感じます。


日本本来の焼きものって、「肌質」「釉薬」「形」「技法」「色合い」の多彩さは目を見張るものがあると思います。こんなにバリエーションがあるの、日本だけですよね。

珍味入れや豆皿みたいなおチビから大皿、角皿までたくさんの色や形や大きさがあったり、土本来の良さを見せるザラザラ感もあったり(ザラザラ、ふんわり、マット感等の多様さは他の国の食器でなかなか見つけられない)、地方によって異なる釉薬や技法があったり、色は食材そのものの色を引き立てる自然界にある色を多用していたり、「自然で」「心温まる」「美味しさを引き立てる」器に対する変態的な追求は日本独自のものだと思っています。


変態的ってこのような場合私にとってかなりの賛辞で、常識から外れ効率(コスト的な)を時に度外視し、とことん追求し尽くした先にある境地のことも指すと思っています。

日本のプロダクトには、先人達の変態的な感性と追求の賜物みたいなものがたくさんあって、外に出るとその特異さ(良い意味で)を改めて実感したりします。


日本の食に対する変態的な欲求や追求、そこに付随し発展した焼きもの文化、茶道やその他の「道」における底なし沼のような深みは言わずもがな。

日頃の私たちの身の回りにあるプロダクトでも変態的なものがたくさんあって、例えば日本製のパッケージとかはどこにも真似できない(たぶんできてもしない)ものばかりですよね。毎日使う液体洗剤には、当たり前のように目盛りがついているキャップがあり、注ぎ口は液が戻しやすく外に漏れないような仕組みになっている。調味料の注ぎ口は毎回ほぼ同量が出るような仕組みになっていたり。これは当たり前みたいだけど当たり前じゃない。これをしたところで売上が劇的に上がるものでもないと思うし、コストは絶対上がるはず。

でも、日本の「相手の立場に立って」変態的にとことん想像して使い易い形を追求し続ける姿勢っておそらく世界では「当たり前」じゃないんですよね。

日本って「自由じゃなくてクリエイティブじゃない」みたいに言われることもあるけど、この「他の人の立場に立って考える想像力」って太古からめちゃくちゃクリエイティブだったと思うんですよね。だから、プロダクトのパッケージとかもコストがかかろうがどんどん進化させてより消費者に寄り添うものにしていく。よその国は、利益にならないようなことにそこまでの労力もかけないかと思います。


私はそんな日本のコスト度外視の変態的な追求の先のプロダクトがやはり美しく愛おしいと思っています。これからも愛でていきたい。


ただ、今日本では買い物もオンラインが主流になりつつある。しかも某◯天や◯マゾンにある商品を見ても、多くがベトナムECプラットフォームでもよく目にする中国製の商品ばかり。安価で画一化された商品を実際に手に取ることなく価格や見てくれのみで比較して購入するような状況。

これだと、日本の変態的な追求の先に生まれた美しく機能的なプロダクト達が生き残ることがどんどん難しくなるのではと危惧しています。


実際に触れて使ってみて分かる日本のプロダクトの素晴らしさを蔑ろにすることなく尊び使いつづける社会であってほしいな、少なくとも自分はそうしていきたいな、と食器選びの機に改めて感じたりしたのでした。


まさに徒然な備忘録。