母が死んだ。
病名は脊髄小脳変性症。
49歳の若さでこの世を去った。
父と母と母方の祖父と姉と私と弟、6人家族。
母が壊れ始めたのは、姉と私は小学校低学年。弟はまだ幼稚園。
家族旅行の途中、パーキングでトイレ休憩に行った時、突然頭から倒れて鼻の頭を切った。
私は母が倒れたのをみたのはこれが初めてだった。
弟の幼稚園での運動会、年少年中年長。毎年母は倒れ救急車で運ばれてた。
残された弟の競技に、本当はお母さんやお父さんと出る所、私が代わりにでた。弟を肩車が出来なくて可哀想な思いをさせたことが今でも忘れられない。
公民館やスーパー、色々な所で倒れその度に病院に運ばれ、結果はいつも異常無しと言われてた。顔から倒れる為、鼻は曲がり歯はボロボロ抜けてった。
次第に幻聴、幻覚が酷くなって行った。私達への暴言も酷く、食べ物を投げるようにもなった。
やがて1人で歩けなくなって、意味不明な言動が多く、家の中でいつも叫んでた。
何度も救急車で運ばれてった。
不思議と、救急車の中だと正常を取り戻す。意味不明な事を言わず、救急隊の質問にきちんと答えてた。
ある時、精密検査をする為、入院することになった。
地獄の様な日々から解放される。私達兄弟はそお思ってた。
でも、本当の地獄はこれからだった。
退院して、母は家に帰ってきた。
父も仕事に行き、私達も学校に行った。
学校から帰ってきたら、母が全裸になって、クローゼットの所で寝て居た。
何してるの?と聞くと金粉がとれないの。と自分の体をむしっていた。
終いにはトイレがわからなくなり、リビングでうんちをしたり洗濯機の中でうんちをしていた。
洗面台が凄く臭くて、なんでこんな臭うんだろおと思ったら、母は洗面台の所の棚の奥にうんちを隠していた。
病院側に、検査入院をしてからもっとおかしくなった。と伝えたら、それは大変ね〜と言われた。
他人事だった。病院側のせいだと思った。変な薬を使ったんじゃないかと思った。
この時高校生だった私は、絶望的だった。
母の症状は悪化する一方。
夜も寝ないで真冬にオムツ一枚で過ごしたりしてた。
叫ぶことも増えて、私達の言ってることもわからなくなった。
もともと母は、私と姉が小学生になってからあたりが強かった。
リビングに私達の物があると邪魔だといいゴミ袋に入れ捨てられてた。
休みの日に遅くまで寝てると、貴様らいつまで寝てんだ。と怒鳴られた。
手伝いをしないと怒鳴られ、姉と泣きながら洗濯物を畳んだ。
言葉の暴力が酷く、母のことが嫌いで仕方なくて、姉と車の中に隠れたこともあった。
母との思い出は、そんな嫌なことしか覚えてないまま、母は頭もおかしくなり体もおかしくなっていった。
面倒なんてみたくなかった。早く死ねばいいのにって思ってた。
なんで私達が母のせいでこんなに迷惑をかけられなきゃいけないんだ。なんで面倒をみなきゃいけないんだ。母親なんて思ったことない。お前がいなきゃ幸せなのに。
そお思っていた。
ある日、母の両足が硬直した。まったく動かない。救急車を呼び、すぐに入院が決まった。
私達は母の介護から解放された。
時間にも曜日にも日にちも縛られることがなくなった。
あの叫び声を聞かなくてすむ。
とても嬉しかった。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
母が入院してから一度も会いに行かなかった。
2年の月日が流れ、私は結婚して子供を出産した。出産はこの世のものとは思えない痛さで、本当に辛かった。初めての育児にも苦戦した。眠くて眠くて仕方なかった。
子供が5ヶ月になったころ、今度は父が入院がした。
病名は細菌性髄膜炎、眼内炎、肝膿瘍。
恐ろしいことに一気に3つも病気になった。
医者からは、植物状態になる恐れがあります。自分のことがわからなくなり、お子さん達のこともわからなくなる日がくるかもしれません。
と告げられた。
泣き崩れるしかなかった。
父はすぐさま抗がん剤治療が始まった。あんなに辛そうな父をみたのは初めてだった。
薬が父にあい、効いたため、一命をとりとめた。でも、手術や治療をするのに、3ヶ月の入院が必要だった。
その間、母の着替えを持ってたりするのに、母に会いに行かないといけなかった。母の病院は、姉の家のすぐ近くだった。これも今思えば、偶然にしては出来すぎてる。
姉も、母が入院してから一度も会ってなかった。父が行けなくなった代わりに、姉が着替えを持っていてくれた。
父はなんとか一命を取り留め、退院した。父は母の容体が気になると言い、まだ目が見えず運転は出来なかった為、私の運転で向かった。私もこの時が母が入院してから初めて会う日だった。
母は、痩せこけてた。骨と皮で、かろうじて息をしている。生きている。そんな状態だった。
でも、私が久しぶりって話しかけると、顔を持ち上げようとした。子供産んだよって言ったら、母は涙を流した。
言葉は話せなくても、何かを伝えようとしていた。
私は涙を堪えるのに必死だった。
なんで泣くの。なんの涙なの?
父は徐々に目も見えるようになり、母の見舞いには1人で行くようになった。その時私は、行きたかったけど、散々母のこと悪く言ってたのに、今更父に私も行く。とは言えなかった。
父は母の様子がおかしいと死ぬ1ヶ月前くらいから言っていた。今年の誕生日は越せないと思う。ってずっと言っていた。
私はまったく気にしなかった。
なんだかんだずっと生きてるんだから、大丈夫だよって軽く流した。
母の誕生日は5月24日。
母は、5月6日に亡くなった。
あれだけ嫌いで憎んで憎んで、早く死ね。消えろ。ってずっと思ってた人。お前がいたから私たちの人生むちゃくちゃだった。一生許さない。死んでも許さない。
そお思ってた人。
でも、死んだって聞いたら悲しみしか残らなかった。たった1人の母親。その母が死んだんだ。
この時私は22歳。この歳になって気づいたこと、人の親になって気づいたこと、母が死んで気づいたこと。
悲しみに満ち溢れた。
母が死んで、もっと衝撃的だったのは、一緒に住んでた母方の祖父。
祖父は、母が死んだことをたいしたことないって言っていた。
死に目にも会いに行かなかった。
通夜にも葬儀にも。四十九日も納骨も。
一度も来なかった。実の娘が亡くなったのに‥。
こんなに冷血だったのかと思い知らされた。
今思えば、私達が母と言い争ってると、殺してしまえばいいんだよって祖父も言っていた。私たちもほんと早く死ねばいいのにって言っていた。
でも、祖父は母の親なんだよね‥?
実の娘に対して言うことなのかな‥?
そおやって、今まで一緒に住んでた祖父は、完全に私たちの味方だと思っていたけど、まんまと騙されてたんだ。
そんな親に育てられた母に同情してしまった。母は自分の親に愛されたことがあったのだろうか。母は、どんな人生だったのだろうか。幼少期はどんな子だったんだろうか。
なんでもかんでも母のせいにして、母しか悪くない、母がいるからみんな不幸なんだってずっと思っていた。
でも、子育てを母に任せっきりで、お金をどんどん使い込んでも、仕事ばかりで母と向き合わなかった父も悪い。
娘を守ってなやらなかった祖父も悪い。
私達家族は、最初から壊れていたんだ。