昨年は世界の都市を巡る旅の話で、その街の歴史にも度々触れてきましたが、旅の途中で歴史的な出来事に遭遇してしまう偶然もあります。下の写真を見て、直ぐにどこの街かお分かりの方は、相当に世界の街に詳しい方かも知れません。
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そうです、この写真はモスクワの写真です。かつてのソビエト社会主義共和国連邦の首都であり、現在のロシア共和国の首都であります。ソビエト連邦が崩壊したのは1991年、もう既に20年近い昔の事ですから、最近の若者に聞いても、そんな国が有ったらしいね程度の答えしか帰ってきませんが、1922年に成立した共産党独裁国家ソビエト社会主義共和国連邦が、遂に崩壊して、東西の対立構造に終止符が打たれたのは、わずか20年ほど前のことなのです。

僕はまさにソ連邦崩壊のきっかけになった8月革命と呼ばれるクーデターの当日にモスクワにおりました。

1991年8月19日の事です。フランスのパリから日本へ帰国する途中の日本航空の便は、当時必ずモスクワにワンストップして、給油や整備で2~3時間休憩するものでした。

当日その便に乗っていて、モスクワ空港に降り立ったのですが、空港内の様子がいつもと全く違っていて、自動小銃を持った兵士達が数人ずつで空港内を固めていて、トランジットの乗客にまで鋭い目を光らせて、緊張した顔付きで、トイレにまで付いて来ます。空港内のレストランやお土産店も全て閉鎖されていてコーヒー1つ飲めません。仕方なく搭乗開始まで空港内のロビーのベンチに座り、兵士達とにらめっこしながら時間を過ごしました。
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この日、ソビエト連邦の初代大統領であり、最後の大統領であったゴルバチョフ大統領の側近たちが、大統領の進めるペレストロイカと呼ばれる改革開放路線に反対をしてクーデターを起こしたのです。上の写真はアメリカのレーガン大統領と核兵器削減交渉の合意書にサインをするゴルバチョフ大統領ですが、東西の対立構造が崩れてソ連邦内で分離独立派が台頭する事を恐れた共産党の守旧派が、クリミア半島のフォロスの別荘に休暇中のゴルバチョフ大統領を襲って、大統領辞任を迫って軟禁すると言う事件の真っ最中に、JAL便がモスクワに降りてしまったのでした。KGBのクリュチコフ議長やヤナーエフ国家非常事態委員会の委員長らが首謀者で、一時ゴルバチョフは殺害されたと言う報道も流れました。モスクワ市内には軍隊が展開して、あちこちに下の写真のように戦車が警戒に当たっていたそうです。
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この事態に直ちに対応して、ゴルバチョフの解放とクーデターの収束を訴えたのが、当時のロシア共和国のエリツィン大統領達の改革派でした。モスクワ市内で兵士に呼びかけ、連邦議会を市民の人垣で埋め尽くして、ゴルバチョフの救出を訴えました。

西側諸国の首脳も直ぐに反応して、アメリカのブッシュ(パパ)大統領、イギリスのメージャー首相、フランスのミッテラン大統領達が、クーデターを非難し、ゴルバチョフの解放を迫りました。

当時の日本の総理大臣は海部俊樹、事態に対する正確な情報が無い為に、守旧派が勝利するかも知れないと配慮して、この事態に対する何の声明も出さずに、静観を決め込みました。何とも情けない外交姿勢でした。

その後、ソ連邦議会の幹部がクリミア半島の軟禁場所にゴルバチョフの救出に向かい、無事に連れ帰り、クーデターは失敗に終わりました。

このクーデターに参加した人達は逮捕されたり、自殺したり、国外逃亡を図ったりで、急速に治安は回復しました。しかしこの事件がきっかけとなって、永い共産党独裁によるソビエト社会主義共和国連邦は崩壊し、現在の政治体制に移行したのでした。

当日モスクワ空港にいた僕は、情報が全く無いので、事態の進行が分らず、兵士の銃口に戸惑うばかりでしたが、その2年前のベルリンの壁崩壊と、東ドイツのホーネッカー議長の失脚も、ヨーロッパにいて目の前で見ていたので、何かただならぬ事態が進行しているなと、察する事は出来ました。

どんなにあがいても、自由を求める市民の動きを止める手立ては無く、ルーマニアのチャウシェスクの殺害や、ホーネッカーの失脚を見れば、時代に逆行する守旧派の動きが、市民の支持を得られるはずが無いと感じていました。案の定、8月革命と呼ばれるクーデターは失敗に終わりました。

さて、では次回はこの目で見た、ベルリンの壁崩壊のお話をしましょう。