解説します。まじで懇切丁寧に話すよ。
はじめに東浩紀さんについてお話ししよう。彼は日本の思想家です。思想家っていうのはいろんなことを考える人だね。彼は哲学者をあまり自称しないって聞いたから僕も配慮して"思想家"って紹介してみる。デリダ文脈を読むと(僕はちゃんと読んでないけど)、哲学に縛られないことが大事!(って哲学的に言う)という人だから、思想家っていう表現の方が、あるいは叙述家みたいな表現の方がおおよそ適切といえると思う。(上のようなデリダ紹介はあずまんが昔デリダを語ったときのマンマなんだけど、僕もこの表現がしっくりきている。理解していないね!って言われたらヘコんじゃう)
それで彼はゲンロンっていう会社をやってるんだ。出版会社です!って簡単にいえれば良かったんだけど、出版以外のこともいろいろやっているからヤヤコシイ。とにもかくにも彼は1990年代後半ゼロ年代に登場して、論壇をクソだと思ったので自分で土壌を築きます!ということを現在もしているパワフルな人なんだ。すばらしいだろ?(そんなこともないのでしょうか)
東浩紀氏の紹介はこんな感じにして、次に"決定不全性"という現代思想の概念を僕が素描してみるよ。
決定不全性って字面を見るとかっこいいよね。わかるます。あとなんとなく意味が想像できると思う。"まあ、なんか決定できないんだな"って。そうです。正解。意味が分かったね、君は非常に察しがいい読者だ。すぐにブラウザバックしたまえ。
こんな三文ジョークは置いといて、フツウはこんな適当な話ではわからないからいろんなアプローチで紹介してみる。3つのアプローチでいくよ。(1)原泉から紹介(2)特に理系の人が理解しやすいアプローチでの紹介。(3)ラプラスの悪魔-自由意志とかから考えてみると面白いんじゃね? の三部構成でいこう。そうしよう。
(1)まずはこの思想の原泉からいこう。といっても原泉なんてナイね。表現が悪いと思う。だから別のしかたで、パラフレーズしてみる。
「原泉ではなくて、決定不全性のお気持ち」を紹介する。
決定不全性をググると科学哲学のお話が出てくる。パラダイムのおはなしだね。これはね、科学理論がいくつか競合しているとき、どういうロジックにするか?を決めきれないということなんだ。理系チックにしないでこの話を紹介したい!
物体が下に落ちるという万有引力の法則がある。考えたのはニュートンさんなんだけどロジックは「質量のもつもの同士が引き合う」だった。これを理論の骨子にしよう。理論の核だ!次にじゃあこれが成り立つ条件をいろいろ考えていこう。万有引力の法則ってどういう条件で成り立つだろう。このとき隠れた命題がたくさんあるね。まず、質量っていうものが物体に存在している!とか、万有引力の法則って引力のもので、斥力は働かないって言ってるよね。とか。こういう暗黙の縛りって結構無限にありそう。このとき、どういう条件で万有引力の法則が成り立つかって、厳密に分析しきれないし、どの補助的な仮定が正しいかって決めきれないよね。この補助的な仮定の決めきれなさが決定不全というわけだ。
(科学哲学的に言えば、補助仮説群の選択が決められないっていうお話。用語を引っ張てくればデュエム-クワインテーゼとかも並列に語られるね)
(2)次に理系の人向けに話してみる。というよりこの理系チックな決定不全のアプローチがわかりやすいと思っている。
ハイゼンベルクの不確定性原理があるね。あの公式、僕は物理の人じゃないから間違っているかもしれないけど、とりあえず「電子などの素粒子はその位置と運動量を同時に正確に計測できない」という主張だね。もっといえば電子って今!ここに存在している!って主張が難しくて、確率分布の形で球状で表現される!ということだね。こういうマクロな系では見られなかったミクロの系の特殊性って量子効果っていうね。この電子の位置の決定のできなさも決定不全!っていえる。これはちょっと拡大解釈なんだけど、決定不全という語の可能性を広げるために許してほしい。でもこの決定不全が問題になりだしたときに量子力学の問題が取りざたされたから無関係ではないんだな。そういう時代精神だな。
(3)この決定不全のお話がどこに効いてくるかっていうと、まさかの自由意志とラプラスの悪魔。
ラプラスの悪魔っていうのは、"物理的なすべての条件を測定出来たらば未来に起こることもすべて予想できる、そういう存在って仮想できるのではないか?"という主張だ。物理学と哲学の間の子供だね。でも確かにこのまま物理学が進んでいったら人の動きを全部予想できそう!ってふわっと理解できるんじゃないかな。つまり、「物理学進みすぎたら、いずれすべての物理的条件を計測できるラプラスの悪魔って現実的に存在できるようになるんじゃないかな?」ってなる。この主張が対決するのは何を隠そう、自由意志。僕たちって自由に選択している!って自分で思っていても実は未来は全部決定されているんだよ。ほら、今僕がこのボールを手から離したら、下に落ちる未来が想像できるだろ?こういう感じで君の動きのすべても予想できるんだよ。ってね。でも上述した量子力学とかのおかげで、物理のすべての条件を測定できても予想できないことがあるってわかってきた。だからラプラスの悪魔なんていないね。退治終了!って話になったの。あと俺が一番好きなラプラスの悪魔のユニークな反論がある。
僕 「君がラプラスの悪魔か。君は僕のすべての行動を予想できるんだってね。」
ラプラスの悪魔 「そうだ。君は次に急に手をたたく」
僕 (手をたたいている)
僕 「すごいね。予想されちゃった。じゃあ、次に僕は何をすると思う?」
ラプラスの悪魔 「急に走り出す。」
僕 「へえ、そうなんだ。じゃあ走るのやめよ」
ラプラスの悪魔 「!?」
僕 「僕は君の完璧な予想に反する行動をとれるよ。だって、君は僕が死ぬまでのすべての未来をもう予想できているんだろ?君の言ったことの全てを聞いてから行動してもいいわけだ。じゃあそれを聞いて、自由に選択するよ。」
上のような反論だっていいはずだ。量子力学というナイフを取り出してもいいんだけど、これでもいいよね。ラプラスの悪魔を退治したら、僕たちの行動は決定不全。つまり、未来は無限大ってこと。ピース!(BossB風 みんながBossBをどういう風に見ているかわからないけど、あの人は結構僕と似ていると思う。見た目は似てないけど物理を思想につかっている結構すごい人だと思う)
よし。決定不全について大いに理解してもらえたと思う。じゃあ、東浩紀の話と統計熱力学に絡めていくね。本論の核心部へ。
つまりここまででわかったのはこういうことだろう。未来は厳密には決定できない。
でもどうだろう。せめて"確率的"には予想できるんじゃないかな。どういうことかって?君と似た人間を100人集めて行動パターンを集計したとする。そしたら君の行動を完璧に予想するわけではないけど、確率的にこう!って言える。アマゾンとかの"オススメ"とか(いわゆるレコメンデーション機能とかって言われるヤツだ)はまんまそう。ビッグデータといってもいいかも。
さて。決定不全とはいえ、確率的にはわかるね。っていう主張はよさげ。ここで僕的に大切にしてほしい感触は「確率って言い方ってなんか無機質だなあ。肯定的なのか、否定的なのかさっぱりだ。」という感じ。あと作為的な言い方をすれば「ここで思想が終わってしまいそう。」
ここで東浩紀を召喚してみる。誤配の概念の手触りを手短に紹介。
誤配というのは「郵便物が誤ったところに配達されてしまう」ということだ。これは「予期しないことが起こる」とも言い換えることができる。決定不全と似てるね。郵便物は確率的には正しく配達されることが多い。でも本当にたまに誤配されることはあるよね。経験したことがある人も多いんじゃないかな。
じゃあ、次にこの誤配をどういう風に捉えますかという話になる。東浩紀はこの誤配をもっと「肯定的にとらえよう」とした。つまり、誤配はいいね。ってこと。決定不全って無機質だけど、これっていいことなんじゃないか?って。
誤配が起こったらラブコメ的展開があるかもしれない!ってことでもある。あと人間がさ、自由意志あるよ~って言われたほうがなんかよくないですか?「お前は完全に予想できる存在だ」ってなにか嫌じゃないですか?この誤配を使うという感覚、肯定的な感触って、別の概念にも見出されるんです。それが「統計熱力学」
統計熱力学って何かといえばよく、熱力学と量子力学の間の学問って言われる。分子一個一個をちゃんとみてそれを統計的に扱うことで熱力学と対応させよう。みたいな発想の学問。これって確率の、決定不全の肯定的な利用なんですよね。小さい分子一個一個は良そう不可能だけど、全体で見たら結構規則的なんだって。この肯定の感覚。
これが誤配と統計熱力学の交差点の素描です。つまり、東浩紀の誤配概念は「決定不全っていう現代思想のテーマの、無機質な感触を肯定的に結んだ」という感じでもある。
これがいったんの素描終了ね。ここからが僕の思案。
まず、『一般意思2.0』を見るとこのビッグデータによる処理、(確率処理)を肯定的に扱った。深く立ち入らないけど、とにかく民衆の意志を進歩した科学の利器・統計的な処理でやってみたらおもしろいんじゃないか?っていう提案だ。(22世紀の民主主義っていう成田祐輔氏の本が出版されましたね。) しかしまあ、『訂正可能性の哲学』とくにこの周辺の文芸春秋に投稿された『ハラリと落合陽一』とかを参照すると、揺り戻しが来てるんですよね。
統計の処理ってやっぱり無機質じゃね?っていう。東氏は同書で「ぼくはたくさんのビッグデータの中で個人であるという尊厳を破壊されている」ということ言ってる。この捉え方もアリだ。統計処理は僕らの生活を豊かにもしたけど、デメリットとして、「君という存在はたくさんの君に似た人たちからはじき出される1サンプルにすぎない」って言われてるような気分って。となると誤配っていうミクロ単位の決定不全はヨシとする一方、社会・構造・統計から規定される、決定・予想される疑似的なアナタからも解放されたいなっていう二段構成になる。
この点で東は同書でビッグデータ民主主義の思案を捨てていた。そしてこの違和感から発展させて「結局は人間的な泥臭さから人間は開放されないよ」っていう一撃をくらわせてくる。これは科学主義がどんどんすすんでいったときに人間がどんどん神に近づいていくような全能感を感じさせるけど、結局そういう"到達"ってできないよね。っていう。
たぶん、僕の感覚でいえばマアあの本の訂正可能性の概念をここで使ってもう少し分析的になってみるべきなんだろうけど息切れして切っちゃった。てか、なんとなく同氏の確率の手触りってこんなところで終わっていたような気がする。
彼的に言えば結びとして、「ビッグデータの外にいく人間になろう。自己保存性を保とう。」っていう言葉が最後につかないと気が済まなそうな気がするけど。
じゃあ、僕がどう生きるかっていう話だ。僕はあいにく、彼らほど素晴らしい捉え方アイデアがポンポン出てこない。うーん、でもまあ自己保存性、他人から解釈される自分から逃れていく姿は僕にとって大事かな。
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