De 1983 à 2023 - Konbini - | Now It's Mika! (ミーカ)

Now It's Mika! (ミーカ)

Mikaファンライフの中で、日々観て聴いて感じて想うコト
~what Yuko thinks by watching, listening and feeling in her Mika-fan life~
Mika(ミーカ)はアメリカ人の父親とレバノン人の母親を持つ、ベイルート生まれ、パリ、ロンドン育ちのシンガー・ソングライター

De 1983 à 2023 

Mika revient sur TOUTE sa vie et sa carrière 


2023から1983まで

御年40歳を迎えたMikaが、今年から遡り生まれた年までの人生そしてキャリアを、一年ごと総括しながら振り返るインタビュー。

Rewinder、そういうことか。巻き戻し。


相変わらずMikaらしいざっくり感はあるけれど

とても面白かった!



Mikaにざっくりしてた部分があったからではないですが、こちらはほんとにざっくりとした訳です。

間違いがあったらごめんなさい。

YouTubeの文字起こし、google翻訳、音声入力を使って、ざーっくりとまとめました。

久しぶりにフランス語を頑張ったので置いておこうと思う。

あくまでもご参考まで。看板持ち

カッコ内は私の補足、もしくは感想(ツッコミ有り)です。


on y va!UMAくん


2023 

初めてのフランス語のアルバムを完成した。

そして、シングル曲C‘est La Vieをリリースした。


2022 

絶対アルバムもシングルもリリースできないと思ってた。

共作者の人達を殺してしまいたかった。www

(、、え?合ってるのか??ちょっとぉ。言い方よね、、笑)


2021

とても悲しいことがあった。

まず、母を亡くした。一緒に働いてきた母を。私は彼女の息子ですが、友人でもあり、全てを共に制作していました。

これを受けて(コロナ禍、Mikaはギリシャに滞在していた)、空っぽのパリを見てみてみたら、街からは完全に人が消えて、広告は古くなっていた。

それで、じゃあ、これを変えてみたらどうか?と思った。

そして、街中のColonne Morris(モリス塔:パリの街中に昔からある広告塔)やバス停の広告を全て展示のポスターに変えて、ある種の一時的な世界最大級のアートギャラリーに変貌させた。

姉のYasmin、Palomaと一緒に選んだ、パリをアトリエとしていて、そこでロックダウンを過ごしていた様々なアーティストのセレクションによって、非常に商業的な空間が、何も売っていなくてもカラフルでユニークな空間となり、それは見ていてとても美しいものがあった。

(これは本当に素晴らしかった!こういうことをできるのが、芸術に重きをおく、決断の早い、アーティストが尊重されているヨーロッパの国だと思ったし、何よりMikaの発案力、お姉さん達含めたMikaの瞬発力のある行動力に感銘を受けた出来事でした。Mikaのフランスでの人気も物語ってますね。)


2020

ベイルートで恐ろしい爆発事故があった。

ベイルートの人々やアーティストも助けるため、世界中で見れるオンラインコンサートを開催し、レバノンの赤十字、Save The Childrenに多額の寄付をすることができた。

自分が生まれたとはいえ(すぐにパリへ越したため)一度も住んだことはないし、長期滞在もしたことがない国だけれど、レバノンは私の日常生活の一部なのだ。

(I Love Beirutは素晴らしかった。3つか4つのタイムゾーンに合わせて事前に録画されたコンサートの配信があって、Mikaは Twitterに来てコメントに返信したりいいね❤️したり、コミュニケーション取ってくれました。ほとんど寝ずにアジアのタイムゾーンでも来てくれ、私がMikaに呼びかけたツイートには返信をしてくれました!コロナ禍に突入してすぐ、COOKING WITH MIKAをインスタライブで生配信してくれたのも2020年でした。3月から4回も。)


2019

My Name Is Michael Holbrookをリリースした。

Michael Holbrook Penniman Jr、これがアメリカ人であるとってもアメリカンな僕の本名。

(このアルバムは、それまでよりも少し成熟した歌が詰まっていると思ってます。悩みを抱えて、もがきながら、どこかに答えを探しながら過ごしていたMikaから、自分を俯瞰して見れるようになったような、そんな歌詞に変わったような、、そんな印象を私は受けています。2020年3月にこのアルバムを提げて日本にも来るはずが、コロナ禍に入ってしまったのよね。。)


2018

Stade de Franceで開催されたLe Top 14(ラグビー)の決勝戦の後のパフォーマンス。

巨大な真っ赤なハートに羽がついていて、約650個ものライトが付いたような大規模なステージでした。

(ステージにはかわいらしさもあり、Mikaらしくエネルギッシュで圧巻なステージでした。子供のダンサー達も素晴らしかった!)


2017

CasaMikaというイタリアのTV番組を発表した。

フランスにも持って来て欲しいと良く言われるが、とてもシュールで良い意味で風変わりでもあるので、ここ(フランス)でうまくいくかは分からない。

バーチャルな家の一種で、あらゆる場所にTim Berton風の装飾をし、朝食から始まり、最後はベッドで、そこで眠るのだが、毎週こんな風に番組は終わり、人が入れかわり立ち代わり登場し、Stingがいたり(ケーキから出てきたと言ってるけど、それはElioというX-factorで審査員をしたことのある別のゲスト。Stingは玄関の外の階段に座ってのトークでした。)、Monica Belluciが冷蔵庫から出てきたり、もし現実の僕の家がこんなCasaMikaのようだったら、もっと嬉しいのだけど。

(CasaMikaが放送されたのは2016年11月にシーズン1。2017年11月にシーズン2でした。)


2016

マイアミで作業して、番組やコンサートをしにヨーロッパへ行ってた感じです。

スポーツをすることに拘るので、ジムに登録してプロテインシェイクを摂取したのですが、効果がなく非常に太ってしまい、プロテインを摂りすぎて重くなると、浮腫むことが分かりました。

(そんな一年??笑。CasaMikaのシーズン1が2016年11月放送でしたよー。年末はフィレンツェでSinfonia Popでした。その後Mikaがフィレンツェに住むことになるとはね、、。)


2015

Imagine for Margoに加わったのが2015年でした。

小児がんの治療に協力したいと思いました。

子供達と一緒に撮った写真が広告になってフランスのあちこちにあるのですが、全てPeter Lindberghが撮影してくれた写真です。

完全に治癒した子供達というのが、この話の一番良いところです。

僕は子供がいないのですが、子供と話す時は彼らが大人であるかのように話します。

(ポスターに写っている子供達は完治した子達と言っているような感じに聞こえますが、一度は写真撮影できたほど元気になったということなのかもしれないですが、1人お星様になって空で輝いていると、2015年11月にMikaが投稿して教えてくれたことがあります。)


2014

シュールで、カオスで、面白くて、カラフルな瞬間もあったり、すごい振り幅の大きいX-Factor Italy。

(使われたシーンがなぜか、Mikaの悪ノリが止らなかった時のもの。。汗

Spice GirlsのWannabeを歌った女の子達がいたのですが、I wanna really really really wanna zig a zig ah のreally が“WILLY“(名前ではなく💦)に聞こえると言って、ツボにハマり笑いが止まらなくなってしまった回。その子たちは数年後リベンジで登場してくれてました!)


2013

「みんなのための結婚法」を祝うコンサート。それは重要だった、そして今でも重要な大義である。

フランスのような国が前に進んで、それが可能であること、愛は全ての人のものであることを示すことができないとしても、やるべきことはたくさんある。フランスでも他の地域同様に、平等を守り、祝うことが重要です。

(これだけ?私がMikaのコンサートへ初めて行ったのが2013年5月の来日時でした。)


2012

The Origin of Love。自宅で披露した時には全く理解して貰えなかったアルバム。

エレクトリック シンフォニック これがコンセプトだった。最終的に、今では大好きなアルバムになりました。というかずっと好きでした。

これはEmpire of The SunのNick Littlemoreと制作をしたのですが、このアルバムにはUnderwater、Origin Of Love、Elle Me Ditがあります。

それとSkypeで出会った赤い髪の女の子とのデュエットをトラックに入れたのですが、その女の子の名前はアリアナ・グランデです。

(私はMikaの音楽に再会したのがこのTOOLだったので、2番目のアルバムを飛ばしてた分、すんなり聴けたのか、私の好みだったし、このアルバムがなければ逆に今ほどMikaに夢中になっていなかったという。Mikaファンの中でも異端児な私なのでした、、。でもMikaも言ってるように、コンサートでのマスト曲多いでしょ?そういうことです。)


2010

ツアーをしてました。休みなく。2009年と2010年は止ることがなかった。

自分の人生で受け止めたいと思っていた。自分がやること全てに素朴な喜びを感じられなくなるのではないかと心配していた。

旅行やコンサートの回数が多すぎると自分の人生や音楽から切り離されてしまう危険性がある。


2008

いくつか賞を貰ったが、今その賞(トロフィー)はどこかの地下室に隠されていて、僕はそれがどこにあるか分からなくて、その方が良いと思ってる。


2007

Life In Cartoon Motion。このアルバムは僕の部屋、色とりどりの夢を果敢に夢見たママの家のリビングで書いた。

このアルバムは良く売れていて、他の誰かが作ったものではないので私を不安定にすることはない。それは心強いことだ。


2006

まだアルバムをリリースしてなかったが、にも関わらず私は存在していた。

成功し始めた瞬間からアーティストは存在すると言われることがあるが、私は存在していた。

食事もしたし、トイレも行ったし。(どんな例、、?笑)

実際、私がやることは最初から職人技なのだ。2006年から絵を描いたり、服を作るといった準備をしていた。


2005

最初のアルバムとなる作品をレコーディングしていた。


2004

人々に私のことを信じて欲しいと懇願してました。

(Mikaらしい!!!笑)


2002

London School of Economicsにいました。はい、1日です。

ある種健康を害していたので、午後4時以降も教室にいたらどうなるか分かっていました。朝10時からいましたし、全ての教科書を揃えるのに487ポンドも使いましたが。青いカーペットを覚えてるし、気持ち悪い照明、今にも眠ってしまいそうな先生も。(Mikaの個人的な意見です。笑)

ここに居たら音楽は絶対にできないと自分に言い聞かせました。そしてトイレに行くと言い、本を置いて地下鉄の駅へ向かい、そのまま音楽院、The Royal College of Music(王立音楽大学)へ行き、そこで待ち、ボーカルスタディの責任者に入学するためにオーディションを受けさせてくれないかと懇願し、幸いにも受け入れてもらうことができました。

(このエピソード、ほんと凄い。日本ではあり得ないと思うけど、イギリスだと有り得るだろうと思う。私も10代の前半だけどイギリスで過ごしたので、そういうイギリスの良さは知っている。)


1995

半分は学校へ行き、後の半分はCM用のジングルを作ったり、ウェストエンドでミュージカルに出たり、クラシック音楽もたくさん歌っていた。


1992

学校へ行かなくなった。dyslexia(失読症、難読症)という問題を抱えていたから。ママが9ヶ月くらいは学校へ行かなくて良いと決めてくれ、代わりに音楽を学び始めた。すごく濃厚で、習得も早く、6ヶ月後にはRoyal Operaで歌っていた。それは私の人生を変えました。

その後学校へは戻ったが、その学校へ行かなかった6ヶ月はとても重要でした。私は公園に行ったり、歌ったり、ピアノを弾いたりしてました。


1991

1991年の終わり、私は話す事を止めました。私は全てを秘密にしていたので、誰も私に何が起こったのか分からずにいました。

物事を秘密にしてはいけません。これは保証します。


1990

1990年にロンドンにいました。当時のロンドンは今と全く違います。信じてください。

(Mika、信じるよ、というか分かります。もちろん変わったのはロンドンだけではないけど、もう住んではいないから旅行だけでは受ける印象も違うけれど、全然違ったよね。)


1987

パリとロンドン間の移行期でした。多くの問題を抱えてロンドンに到着しました。

父は仕事で問題を抱えていて、最初の湾岸戦争で人質に取られてしまい、戻って来て職を失った。

非常に混乱した中でロンドンへ到着し、ホテルに住んでいて、時々ママはキッチンで働いてました。

ホテルを遊び場のように使い初め、エレベーターへのトンネルがある場所へ隠れていたことを覚えてる。

観光客がいることもあって、アメリカ人の観光客が乗って来た時に、トンネルをノックして、パタパタ叩いたら悲鳴が上がり、彼は幽霊がいると思ったんです。そして私たち(お姉さん達とMika)は朝食の幽霊になった。そのホテルはWilbraham Hotelといいます。

(この年号が正しければ、私は心底嬉しい。Mikaは1990年にイギリスへ引っ越したと思っていて、私がイギリスにいて日本へ戻ったのが1989年だったので、完全に入れ違いだと思っていたから。)


1983

ベイルートにいました。本格化した内戦の最中、私は生まれました。

戦争やあらゆる苦しみと混乱にもかかわらず美しく、神話のような存在であり続けてくれる街です。



おわりニコニコ