しじみなる日常 -2ページ目

しじみなる日常

ひとつひとつは小さな蜆(しじみ)でも、蜆汁になったときの旨みは格別な幸せをもたらしてくれます。私の蜆汁は「クラシック音楽」。その小さな蜆の幸せを、ひとつひとつここで紹介できたらなあと思っています。

最近は妙に室内楽に心惹かれます。

 

30代の頃は、バーンと威勢のいい交響曲とか協奏曲などが好きで、室内楽にはほとんど目もくれなかったのですが。
年を重ねて、こうも好みが変わるとは。ちょっと不思議です。

 

ですが、何を聴けばいいのかは相変わらず分からない。
とりあえず、手当たり次第に聴いてみて、印象的だった曲をここで書きたいと思っています。
(そんなわけで、前回の記事のタイトルも変えさせていただきました。あしからず。)

 

今回はショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第8番ハ短調op.110
ボロディン四重奏団の演奏。1990年の録音です。

 

この曲は怖い。怖いけれど、心を掴まれます。
「ファシズムと戦争の犠牲者の思い出に」捧げるとあるからでしょうか。

 

第1楽章Largo。何か禍々しく不穏なものの存在と、底知れぬ嘆きのようなものを感じます。

 

第2楽章Allgro molto。この楽章は際限のない「怒り」のような、容赦のない「破壊」のような音楽。
鳥肌が立つほど怖いです。

 

第3楽章Allegretto。「不穏な兆し」。何か凄まじいことが起こる前触れのようなざわざわした感じ。
息苦しいほどの緊迫感があります。

 

第4楽章Largo。「絶望とあきらめ」。冒頭から繰り返される「ジャ、ジャ、ジャン」が希望の糸を断ち切る容赦ない斧のようで切ない。
その後は現実に打ちのめされる心情のよう。

 

第5楽章Largo。「虚無感」。空っぽの心模様。
破壊され奪われ尽くした廃墟のような心。

 

私が感じたのは、情景ではなく、ひたすら人間の心情のようなもの。人間のエゴであり、何もかも奪おうとする傲慢さであり、一方で抗えない絶望感であり虚無感。
ショスタコーヴィチの苦しい心のうちが見えるようで、聴いていると少しつらくなる曲です。

 

ミハイル・コペルマン(1st violin)
アンドレイ・アブラメンコフ(2nd violin)
ドミトリ・シェバーリン(viola)
ヴァレンティン・ベルリンスキー(cello)