都の青少年健全育成か何か、そんなような名前の条例案があるでしょう。しをんさんや書評家の方々が激怒していたので漠然と「BLが規制されるのかな」程度に薄く考えていたんですが、


……もしかして「衝撃の」と帯に書かれそうな小説も場合によっては対象? 自主規制を促すってニュアンスは禁止ってことでしょ? 我孫子武丸の『○○に○○○○』とか桜庭一樹の『○○○』とかもうっかりすると読めなくなる?(ふさわしくない間柄の人を恋慕の対象とし肯定する……に引っかかるのであれば。新聞に載ってた例は児童だったけど)


ヒトゴトだと思っているうちは聞き流すし「健全な育成」の響きについ何も考えず従いそうになるけど、身近なとこに敷衍するととたんに慌てますね。といっても新聞記事で解説されていたことしかまだ読んでいないし、政治に関する知識がとぼしいので本当に桜庭一樹が読めなくなるなんて事態が起こりうるのか、先走っていたら恥ずかしい限りですが。


少々ずれますが、こないだミ○シィで「純文学と大衆文学の違いは何か」というテーマで議論しているページを見かけて、深く納得したのがこちら。


ストーリーテリングを目的としているものが大衆文学。

ストーリーテリングという手段の奥に何らかの主張が込められているのが純文学。


たぶん語弊があるのを承知で書くと、文学あるいは小説、フィクションって食虫植物みたいなものだと思っています。興味をひく花があって、寄ってきた虫を取り込んでから本領を発揮するという点において。敬愛している漫画『ハチミツとクローバー』は8巻までラブコメの要素で大勢の読者をきゅんきゅんさせ、9巻と10巻でぐんとテーマを深化させたでしょう。花がすべてじゃない。ハチクロの主題は10巻、戻れなくなってから滲みだしてくる植物の液、あれ。


おためごかしの名目のもと、花の色で処分を決めるのは軽率ですよ。花しかないのと、実があってそれが人の心に響くのと。もしくは、べつに実なんかないんだけど頭を使いたくなくてただ映像を流しておきたいっていうのもあるし。


辻村深月『スロウハイツの神様』(→感想 )の中でチヨダ・コーキの作品をなぞった殺戮事件が起こったためにコウちゃんはひどいバッシングに遭っていましたけれども、コウちゃんの功罪の功のほうは注目されません。そうなの。作品が悪いんじゃない。受け手の感度が悪い。物語を愛して物語に生きさせてもらう精神的土壌の形成、情操教育とか、そこをすっ飛ばして作品を踏みにじるなんて発想が貧困だわ。