きのうの土曜日が例によって例のごとく休日出勤だったのですが、ビルの1階にいたらおそらくお散歩コースにちょうどいい立地なのでしょう、若々しい核家族がたくさん通りすぎていきました。で、そのうちの1組の家族なんですけれども。


2歳かそれくらいの女の子が完璧な幼児のかわいらしさで歩いていたのですよ。きょろきょろよそ見しながら。私は凝視しているから、目が合うわけです。つれなくもできないから手を振るでしょう。そうしたらば。



ぽてぽてこっちきた!!



動揺しつつ「ママ待ってるよー?」と手で示してもリンゴをしっかりみつめつづけるそのまなざし! ええ負けましたとも。かがむと目の高さがちょうど同じになって、ママのとこ行かないのーとなおも問う私を無視して女の子、子供服の胸元を指差し「おしゃれ……」とひと言。


「くまさんとうさぎさんねー。かわいいねえ。好き?」

「……」


視線はこっちに向いてるのに話がかみあわないよ??


と、やおら女の子はリンゴの首もとに手をのばし。その日リンゴは伯母にもらったネックレスをつけていたのですが彼女はそれにふれながら「ままとおんなじ……」と。


そうか! 自分のワンピースの刺繍じゃなくて、相手の同じ部分について話していたのね高度ね!!


「ああ、ママとおんなじだー。大きくなったらする?」

「うん」

「そー」


その辺りでさすがにお母さんが見かねて(私も散歩していたわけではなく必要があってそこにいたので恐縮させてしまったようです)女の子と手をつなぎにきて女の子もそのまま手をひかれていくかと思われた、次の瞬間。



だらりと片足に体重をあずけナナメにかしいだ!



あわてるお母さんとリンゴ。知らない人なんて不審者とイコールだからふれてはいけないと思っていたけれど、ケガされては大変ですから思いっきり支えにいって「頭ごちんしちゃうよー」とつい対幼児口調でたしなめると女の子「ごちんしゅるう?」



すみません、お姉さんめろめろです。



実際に朝から晩まで毎日その子の安全や健康に気を配って、度を過ぎるいたずらには叱ったりお説教したりもして、やさしい子に育つようにとかきちんとした人間になるようにとかいろいろ期待しながら成長を見守るとなったらその責任の重さに押しつぶされて心細くて何もできないだろうけれど。ほんの数分よそのお子さんや赤ちゃんとふれあうと本当にうれしくなります。


きっと社会情勢は厳しいし、お友達とうまくいかないことだってあるでしょうし、もしかしたらテストの点数や進路のことでご両親と対立して口も利かないなんてこともあるかもしれません。大きくなるまでにたくさん傷つき、傷つけるでしょう。


でも、どうかすくすくと伸びる植物みたいなあどけない向上心、おひさまを求めつづける生命力を失わず、生きて、しあわせだと思える瞬間をできるだけたくさん味わえる人生であるようにと願ってしまうのです。どんな立場で私ナニサマだろうとも自問しますが、でも、願うのです。もしかしてこれが愛情なのかなと思うくらい、こんこんと湧き出るから、それはもう選択肢じゃなくて一本道の本能的な願いで。そして、私は願っているだけなのにとても満たされていて。


先日○経新聞にパワースポットにたかる人々と気枯れ=穢れについて歌舞伎のかたが書いていらっしゃいましたが、で私はそれを否定したいわけでは全くないのですが、願望は現実の裏返しであり要するに現実への不平不満だからそれを神にぶつけるのはどうかなというあの一節に対しては、一概にそうもいえないかもよくらいの反論を試みたいと思います。


厳しい現実でも、晴れやかに生きていける子でありますようにという願いは、目標であり希望でもあって、自分の不満のはけ口とはまた違う性質の祈りではないかと感じるのです。確かに初詣で「お金をもうけられますように」とか「志望校に合格しますように」というのは、そもそも初詣の方向性を誤認しているし、そんなの自分で勉強して解決すればいいたぐいの問題に思えますが、自分とは別の肉体をもちこれから意思や価値観をはぐくんで歩いていこうとする幼いいのちに幸福を望むのは、なんていうかもはや欲ではなく……何だろう。なんていったらいいんだろう。適切な言葉がみつからないので尻切れトンボで記事を終えますが、他人のしあわせを願える私って素敵とか酔いたいのでない限り、そう俗な考えではないよねというようなことを……言いたいのかしら。


長くなったなあ。中身あるかなあ(苦笑)。