ナガサキの、平和祈念式典の模様を見ました。


64年という歳月は目には長いけれどその地で生き抜いてきたかたがたにとってはきっときのうのことのようにあっという間なのでしょう。私がMちゃんを亡くしてからの7年4ヶ月を「365日×7年+何度かの閏日」という重さで感じられないように、いえ、それ以上に。だって9倍以上で、犠牲になったかたも数えきれないほどで、もちろんひとのつらさは数値で表せるものではありませんけれども。私が軽々しく「お察し申し上げます」なんて言えないような重い沈黙の溝を感じます。


大島ミチルさんが曲をつけた歌、歌われていましたね。大島さんといえば古筝の伍芳さんが作曲・演奏した「彩虹橋」(→日記 )の編曲をしたかたということで私の心に名前が刻まれています。彩虹橋は阪神淡路大震災で喪われたいのちへ語りかける曲。きょうの「千羽鶴」は、原子爆弾によって奪われたいのちを悼む歌。


かねてから私、祈ることと折ることって似ていると思っていて、字もそうですが、こうべをたれ手元を見つめて一心に紙を折る姿がひざまづいて祈る敬虔な人を思わせるというか、うまくいえないのですがこう、通じ合うものがあるなと。それが、きょう聴いた「千羽鶴」でも同じように。鶴を折ることと戦争を決してくり返さないと誓うこと、平和を願うことがイコールで結ばれているように聞こえました。


もう誰も殺さないで。死なないで。


その想いを束ねて捧げる、それが千羽鶴。聴きながら泣いているおばあさまがテレビに映っていて、長く生きて、楽しいことだってあったでしょうけれどもひとに死なれたことでできた空洞は何をもってしても埋められないんだなと、このかたの傷は、悲しみはどうしたってなかったことにはならないんだなと思いました。


同じ気持ちを私の周りのひと、その周りのひとたちに味わわせたくない。いきなり自分の話にしてしまって恐縮ですが私、うつだろうと自分からは死にませんよ。Mちゃんを、私たちには見せない悩みを抱えていただろうけどきらきら笑って生きていたMちゃんを無慈悲に喪わされて、死なれることがどんなに痛いか、身をもって知ったから。自分がつらいからって周りに同じ痛みをまきちらすほど幼稚な私ではありたくない。じつは、ちょっとは考えましたがもっと考えたら「これは、駄々だ」と思いいたったのでやっぱり死にません。


ああ、ひとが死ぬってほんとうに嫌だ。みんなが笑顔で楽しく、生きたくて生きていられる世界であったらどんなにいいか。憎しみはどうしたら解けるんだろう。この世の未来はどうしたらみんなが譲りあい、敬いあう、そんな優しいものになるんだろう。


千羽鶴、神様のもとへ願いを届けておくれ。