岩井俊二監督脚本の映画『リリイ・シュシュのすべて』ようやく観ました。小説版は学生時代に読んだのだけど、映画版とは別個の作品ということで「どこまで残酷に暗黒に映し出されるのだろう」とおそるおそるの鑑賞でした。


感想をひと言で。


おそろしい。


決して、ホラーとか神経戦とかそういう意味での怖さではなくて。なんていえばいいんだろう、計り知れなさ? 序盤に「宇宙は膨張しつづけている」みたいな会話があったけれどそういう感覚に近い、どこまでもどこまでも沈みこむ、そしてそれは海のようにさらりとした液体ではなくへどろのように重たく胸に積もるもので。蓮見や津田、久野、もしかしたらいやもしかしなくてもたぶん星野も、感じていたに違いない息苦しさが伝わってきて。


その重苦しさを救うのがドビュッシーの音楽。くり返される『夢』の旋律。きらきらとまばゆい世界はきっとあって、ただそこへたどり着けるひとが限られているというだけ。この映画の言葉を借りれば「エーテルの見えているひと」だけだということ。


また宗教がかってきたな。休職中であるところの私は病院にいったり郵便局へいったり、毎日なんらかの形で運動をしようとは心がけていますがどうしても思考先行というか、頭でっかちになってしまいます。そうして考えすぎてたまった膿みは短歌の神様が吐き出させて下さる仕組みになっているものの、ねえ、やっぱりあんまり健全な感じの毎日ではないですよねー。


あ、あとこれも書こうと思っていたこと。昔どこかのサイトでこの映画について「全員がリリイの音楽を1人で聴いている、みんなでオーディオコンポや何かで共有している場面がない、閉鎖的だ」と指摘しているかたがいらしたのを覚えているのですが、ほんとにそうですね。リリイのライブも蓮見は土壇場で入場券(権?)を奪われてしまったし、みんな、1人。この孤独に寄り添えるのがリリイの歌声なのか、リリイの歌声は大っぴらに普遍的な形で聴くものではないのか、ニワトリと卵みたいな問題ですが、この「みんな1人で聴くリリイ」という設定は絶対、意識的なものですよね。人間は孤独であると。学部時代に読んでよくわからなかった高野悦子『二十歳の原点』(新潮文庫)のエピグラフだったか冒頭だったか、目立つ箇所に書いてあった言葉は「一人であること、未熟であること。これが私の、二十歳の原点である」というようなものでした。たぶんそういう……ひとの心には自分でもどうしようもない空間があって、そこを日本語では孤独という、というような、そういう意味合いがあるんではないかと。思うのですがいかがでしょうか>きょんちゃんあたりに訊いてみたく。


でも物語そのものはとっても苦かったけれど、音楽はドビュッシーとSalyu(リリイ名義)が水と魚のようになめらかに共存しているなあと思いました。わかったようなこといってごめんなさい。私は、そう感じたのですが。クラシック詳しくないけどドビュッシーとラヴェルとリストが好き。もしも私がいきなり死んだら告別式ではラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』とドビュッシーの『沈める寺』『夢』『喜びの島』そしてリストの『ラ・カンパネラ』を流して下さい(あれって宗教ごとに違うのかしら、高校時代に亡くなった幼なじみMちゃんの告別式ではずっとミ○チルの曲が流れていて私はそれ以来ミスチ○の歌声が聞こえると胸が物理的に痛い。「to U」も初めはつらかった、慣れたけど……って、ああ、じゃあ、私が好きな曲をみんながつらい記憶としてしまっちゃうことになるのか、それは申し訳ないな)。大好きなドビュッシーとさりゅの競演、しかもそれがしっとりとかみ合ってるということで、たいそう嬉しかったです。だからそこが救いかなあと。


長くなってしまいました。では最後にひとつだけ。蒼井優さんがまだふっくらとあどけない姿ですれた女子中学生を演じているのが貴いような痛ましいような、そうね、辻村深月『ぼくのメジャースプーン』(→感想 )でいうところの「車椅子のうさぎ」みたいな印象を抱かせました。ぜひ今後とも目が離せない女優さんであっていただきたいと思います。以上です!