どうも、またまた 久しぶりの更新。
私も30後半ということで、たまにはビジネスについて記録したいと思う。
私はこう見えても女の穴を塞ぐ工事やスケベな尻を眺めているだけではなくてだな。
風俗と不動産関係の事業をしておる。
意外と仕事は好き。
その傍ら、気休めにスケベな女を漁ったり共同作業をしているだけだ。
でね、不動産や風俗に限らず求人って世の中に有り触れた情報じゃん?
応募から対面、合否通知が流れだろうけど、超大手は別として、相手の対応や声色で担当者の能力と組織の優良さが分かるんだよね。
これからの話は大手以上の組織は別としての
そんなお話。
私はこれまでの人生において、面接受けるより面接した方が圧倒的に多い。
もちろんお察しの通り、我が組織は弱小も弱小で大手ではない。
だから応募者の過去の経歴なんてものには興味がなく、今何ができて、将来何が出来るのか。が重要。
失礼ではあるが話す内容にあまり意味はなく対面する意味は応募者の仕草と視線を観察し、声色を聞き、癖を見て、リアクションの時間を図る事にある。文面では見れない事柄を見測ために対面する。
つまりウチの組織としては応募フォームもないし、履歴書は対面時に持参はしてもらうが見ない。
職務経歴書も必要ないし大した効力を持たない。
何故なら書面ってものは信ぴょう性のない情報であり、弱小だからこそ、人の可能性しか見ない。
故に応募が来てから遅くても2-3日で必ず対面する事にしてる。
何故なら、それ以上伸ばすと今度は応募者のモチベーションが揺らいでしまうからだ。
求人の応募というのは、稀にではあるが、やる気のない応募者も存在する。が、その様な応募者でも、一番やる気のある時がいつなのか分かるだろうか?
それは応募した、その時である。
そのやる気、モチベーションも求人の対応によって下がることもあるだろう。
やる気、ないしモチベーションというのは青天井であるから故に、雇用側は常にそれを仰ぐ必要があり、求人においては双方にそれが如実に表れる。
だからこそ、求人対応を冷静に分析すると雇用側の組織的な優良さが応募者は計り知ることができる。というわけだ。
風俗店で働くキャストの応募数と採用数の比較を表したオリジナルのデータでも、応募から対面までの時間が遅くなればなる程、比例して対面率が悪くなり、結果的に採用に至らない事が多くなる。
このデータは想像に難しくない結果だろう。
以上の事から結果論を含み解説すると、大手以下、特に弱小組織、まあ総勢20名以下の組織というのは超有能な従事者が足りていないから事業として伸び悩んでいる。無能が有能と扱われるから効率が悪く人材が育たず、無能が有能と評価されてしまう事から本物からして見れば程度が低過ぎるのだ。
それ故に大手は働き手を選ぶ事ができる。
何故なら既に有能な従事者に恵まれており有能が有能を育み効率化が加速度的に進む事で組織的な体力が産まれる。
その体力こそがコスト削減を支える余力である。
故に書類選考が最適解となるのだ。
早い話、母数の少ない超絶有能の数人が書類選考というザルから抜け落ちた所で程よい有能は残るから大した機会損失ではない。と、いうことだ。
その反面、弱小になればなる程、相対的に有能気取りな従事者しかおらず能力が足りないが故に効率化が悪循環を産み、停滞、あるいは著しい成長阻害を発生させてしまう。従事者を選ぶ段階にあらず、従事者を育てる段階であるが故に、やる気だけ買えば如何様にも化ける可能性が秘められている。
更に言えば本物の有能な従事者を作り出す事で組織に対して都合の良い有能な従事者になる可能性もあるのだ。
だからこそ、弱小になればなる程に応募から対面まで応募者にコストやストレスを与えず、可能な限り調子の良い状態、可能な限りモチベーションが高い水準にある応募者と対面し観察し取り零さない様にコストを掛ける必要がある。
労働対価の根幹は最小限の労力で最大限の利益を得ることである。有能な従事者はそれを知っているが故に無駄を嫌い効率化を勝手に行う。
例えば、これまでの常識に反する事であっても、終着点が同じであれば一考の余地はあるだろう。
浮いた時間と常識に反する事のデメリットを計りに載せて考えれない様な組織には有能な従事者は産まれず事業としても成長はしないだろう。
弱小組織が有能な応募者を取り零してしまう事で発生する機会損失は計り知れない事が理解出来ただろうか。
ビジネスとは基本的には運要素が多いから何が正解か なんてことは分からない。
論理的に考えれば応募する側にしても、雇用する側にしてもこれらの話は頭の片隅に留めておいても損はないだろう。
自分で自分を有能だと思っている従事者が管理者になる事で組織の成長はそこで止まってしまう。
能力に貪欲であれ、知識に貪欲であれ。
その様な人材が将来、本当の有能になるのだろう。と私は思っている。
求人情報を見て、オフィシャル等の情報を見るのは必要だろう。
相手の詳細な事業内容、組織力、規模などを参考に面接に望む必要があるからだ。
面接中の態度、採用後、組織門を潜った時に面接での対応と中身に相違はないか。
勘違いした上司がいるかいないか、その辺を見て場合によっては早々に退社した方が良いかもしれないし、様子を見る必要があるかもしれない。
深淵を覗く時、深淵もまた覗いている。が如く。
組織が応募者を見図っている様に応募者も組織を見図っていなければならない。
豊かな人生を得るには必要な事だろう。
立場こそ違えど腹の中で思う事は自由である。
片方が見図るのは不誠実である。
双方が見図うことは誠実である。
片方が利用される事は悪意でしかない。
双方が利用し合う事は善意にもなる。
そして自分の評価を見誤ると身を滅ぼすということは肝に銘じておくと良いだろう。
自己啓発として言えば自己評価は高くするべきだろう。しかしそれは感情的な部分までの評価に留めた方が良いと言える。
やる気があるとか、気持ちは誰にも負けない。など人が干渉しにくい感情論に留まる範囲であれば、余程 大きな衝突は産まれないだろう。
しかし、客観的な評価というは第三者が判断するものであり その客観的なものに対しての自己評価は高く見積もるべきではない。
容姿が良い、スタイルが良い、足が速い、字が上手い、計算が早い、頭の回転が速い、頭が良い、会話が上手い、口が上手い、仕事が早い、などなど。
これらは相手がいて初めて評価が成り立つものであり自己ではなく相手が評価するものだからだ。
有能という客観的な基準は人により誤差があり必ずしも一致するとは言えない。
自分は有能だ!と思っても、他者から見れば無能以外の何者でもないかもしれない。
私の経験則で言えば、自分は有能だ!と思ってる者に限って無駄に高いプライドだけを持っている。
そして数少ない成功体験をとても貴重に取り扱う。
まるで他の誰にも成し得ないような大成功を成したと言わんばかりに。
しかし、だ。
そんな大きな成功を成したと周知させ、私は有能である!と、しているにも関わらず、そのプライドが少しでも傷付けられる危険を察知した"だけ"でも逆鱗に触れたかのように激昂し憤怒する。
そんな低俗な者を誰が有能だと褒め称えるだろうか。
少なくとも私はそんな低レベルな者とは仕事したくないし、そんな低俗な者とは関わりたくもない。
私の知る限り有能な人は激昂はしないし、新しい知恵や知識に対して貪欲で寛容的だ。
自意識過剰とはまさにこの事で、小さな成功体験で終わるのではなく、その成功体験の母数を圧倒的なまでに増やす事で気付いた時には周りが正当にそれを評価してくれているだろう。
それが限りなく正解に近い客観的評価と言えるのではないだろうか。
そうなれば自分で私は有能だ!なんて思ったり言う必要がないのだ。
何故なら既に周りが認めているからである。
話が少し逸れてしまったが求人に対して応募する側も受ける側も自身を正しく認識する事でより円滑で有益な時間になるのではないだろうか。