10ヶ月ぶりに包丁を握る(※料理のためです。笑)つもりが、後編を書くに至ってしまいました。人生には予想外がつきものですね。
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ペリカンの重力に逆らうことのできない輪郭のように、状況は少しずつ、確実に歪んでいった。
不肖は全編で書いたとおり、その現場での着任期間が決まっていたため、期間終了間際は忙しかった。細かいことはここでは書かないが、当然、その現場以外での社用もあった。
ある日、不肖はスーツの上着も着用して出勤した。
この猛暑の中、営業職でもないのにスーツの上着着用で出勤している様を見れば、誰しもがたいてい業務以外で何かしらの用事があるだろう、ということを察することができる。
ペリカンは常に遅刻をしていた。不肖達が冷房の効いたプロジェクトルームで業務を進めている30分ほどあとに、ペリカンが汗だくになりながら苦行をするかの如く席に着くのが常となっている。ペリカンから遅刻するとの旨のメールが毎朝来るのはもはやお約束事となっていた。
そのメールはある日を境に来なくなった。
話をスーツの上着のくだりに戻そう。プロジェクトリーダーは当然、不肖と不肖の先輩であるコバヤシさん(仮名)がなぜその日に上着着用で出勤していたのかを承知している。
不肖がその日に定時で退社する旨をシロタさんに伝えた瞬間、苦行(笑)を終えてノロノロとキーボードに手を伸ばしたペリカンが突如、見るからに重そうな拳をキーボードではなく机に叩き付けた。(不肖は既に学習したので、さすがに「地震!!」とは言わなかった)
「ねえ、サカイさんさあ!」
不肖は汗で色が濃くなったベージュのシャツと、それを押しのけている米袋のような2つの突起物(笑)を視界に入れないようにペリカンに目線を向ける。
「その『社用』って何なの、一体???ホントに用事があるの??ホントに早く帰らなきゃいけないわけ???」
「ええ。本日は申し訳ないのですが、自社用につ…」
「ねえ、その『社用』って一体なに???」
「すみません、大きな声では言えません」
『次の現場の打ち合わせですー☆』なんて言えるわけがないだろう。他の人には関係のないことだし。
「はあ??大きな声で言えないって何なの?!ホントに用事があるように思えないんだけど!!」
「…すいません、守秘義務もあるので、これ以上大きな声で説明するのは難しいです。どうしてもというなら、今急いでてすぐに手が離せないので、すいませんがうちのコバヤシに聞いてください」
不肖は手を休めることなく言った。両手が小刻みに震え、タイプミスで「shine」とウッカリ打ち込みそうになる。
「あ、そう!!!じゃあコバヤシさんに聞きにいきますう!!コバヤシさーん!!」
不肖の言葉をペリカンが信じなくとも、不肖の先輩でかつ不肖よりずっと経験も実績もあるコバヤシさんが説明すれば、さすがのペリカンも納得するだろう。というかしてもらわないと対処に窮してしまう。
視界の端に、象のような足取りでコバヤシさんの席に向かうペリカンをとらえる。コバヤシさんには申し訳なかったが、そうでもしない限りペリカンは不肖が何を説明しても、いつまでたっても喚き続けただろう。
不肖がペリカンの残像を消し去り、作業を続けていると、腐った魚の臭いが不意に嗅覚を襲撃した。
不肖の左側にペリカンが仁王立ち(笑)していた。
「わたし、今日からサカイさんと話しませんから」
プロジェクトリーダーが口元に手をやるのが視界に入る。
「サカイさんはわたしと話したくないんでしょ?だから『コバヤシさんに聞いて』って言ったんでしょ??シロタさんへの引き継ぎは、コバヤシさんにも参加してもらいますから。どうしても詳しいこと知りたかったら、わたしじゃなくてコバヤシさんに聞いてください」
「あ、あの、うちのコバヤシは私たちと同じチームじゃないのでそれはちょっと…というか、さっきの話とこれは全くちが…」
ペリカンは突如回れ右をし、プロジェクトルームをあとにした。
沈黙を守っていたシロタさんが不肖の視界に潜り込む。
「サカイさん、…大丈夫ですか??」
「あ、はい、大丈夫です。ペリカンさんって、人と会話ができない人なんですね、ビックリしました…てのは冗談ですが」
プロジェクトリーダーは相変わらず片手で口元を抑えながら作業をする。
再び腐敗した魚の臭い(笑)が鼻をついてきた。シロタさんは鼻が悪いのか、ブツブツと何かわからないことを誰にともなしに言いながらモニターを睨みつけている。
「ねえ、シロタさーん」
ペリカンが鼻声を出す。不肖は鼻も耳も塞ぎたくなり、応急処置(笑)としてマスクを装着した。
「ねえ、シロタさんってさあ、独り言気にならない人お?」
シロタさんは返す言葉をすぐに用意できなかったようだ。
「あたし、独り言気になる人」
またしてもペリカンは席を外した。
不肖はもはや愛想笑いのやり方を忘れてしまったであろうシロタさんを見やった。
「シロタさん、気にしなくていいですよ。すくなくとも私は独り言気にならないです。何かあったら声かけてください」
「俺ですか?大丈夫ですよ。俺、そこまでナイーブじゃないです」
シロタさんはフン、とした面持ちでペリカンの席を睨みつける。
「前の現場ではもっとヒドい奴いましたよ。あんなの、小物っす。それよりサカイさんこそ大丈夫ですか?さすがにあの言い方はないっすよね…よく爆発しませんね」
「爆発?しないですねー。それから会話の途中で離席するなんて幼稚なこともしないので、安心してください」
こうして、不肖とシロタさんには共通の敵ができた。
ペリカンはプロジェクトリーダーには常に猫なで声をあげる。以前はペリカンはよく不肖にリーダーの陰口をもらしていたが、リーダーがいるときはチェシャ猫のような胴体を揺らし、ブルドックの笑みを漏らす。
不肖はペリカンの宣言(笑)は単なる子どもじみた(※齢四十)強がりだと思っていたが、その予想は見事に覆された。
不肖とコバヤシさんは別のチームに所属した為、席は近くても一緒に仕事することはなかった。
ところがそのコバヤシさんが、着任終了期間間際の忙しい中、不肖たちのチームの仕事もするハメになった。というのもペリカンは完全に不肖との仕事上でのやり取りとコーディングを放棄(笑)し、コーディングはシロタさんに丸投げし、さらにコバヤシさんを伝書鳩のように使うようになった。不肖がペリカンに事務的な連絡をしようと声をかけようとすると、ペリカンはお菓子をおあずけされた4歳児のように、口角を下げて離席してしまう。ペリカンから不肖に連絡しなければいけないことがあるのに、不肖にメールを送ることすらせず、すべてコバヤシさんに伝言していた。
そしてその伝言ゲーム(笑)とペリカンの沈黙は、不肖とコバヤシさんが着任期間を終了するその日まで、終わることはなかった。
不肖たちはいよいよ着任終了のその日を迎えた。
ペリカンはその日、ほぼ終日会議室にこもっていた。「今日はずっと会議なんですう」などというペリカンの猫なで声をその日の朝に耳した気がするが、少なくともノートPCを持ち込み、1人で延々と作業をしている様を「会議」と呼ぶ人はいないだろう。
不肖は最後にペリカンの横顔を見てしまった。両目をガマガエルのように見開き、紅ショウガ色の唇が下向きのアーチを描いている。ペリカンは一心不乱にモニターを見つめていた。不肖たちの挨拶がまるで聞こえなかったかのように。
不肖は飲み会でのシロタさんの言葉を思い出した。
「サカイさん、どの現場でも、ペリカンさんみたいに何もできないのに変なことを言う人はいますよ。そんな人と一緒に仕事しても、技術力が上がる訳じゃないから単なる時間のムダだと思うかもしれないけどね、これがムダじゃないんです」
ペリカンのように、齢四十にして子どもじみた態度をとることしかできない人間は腐るほどいる。年齢の数値が精神年齢をそのまま表すわけでも、歳月が肉体のみならず精神をも成長させるわけではない。年月を経て人の皮膚の張りが失われるかのごとく、歳月は時に膨らませた風船を萎ませるかのように、精神を徐々に小さくしていくことがあるのかもしれない。
そんな人間に今後でくわしたとき、人は次の言葉のような思いで立ち向かえば、その風船のような精神の人間に屈することも、自分自身が昔の自分から何も改善されていないと恐れることはないかもしれない。
シロタさんの言葉には続きがあった。
「キツいなーとか、ムダかもって思ってもね、絶対何かしら成長してるんで、大丈夫です。『あの時よりマシだ』…この精神が、否応無しに頭と体を動かす!」
第7話 終
