電子機器の製造を協力会社にお願いすると、私は数日、1、2週間、1ヶ月、数ヶ月。私は現場に応じて出張させられた。
その中で、新潟の福島県境に近い山の中の過疎の村に長期滞在した。
直接の取引では無く、いわゆる孫請け、ただ直接の取引先には指導できる人が居ないので、異例の対応だった。
この会社は村の村会議員でガソリンスタンドを経営する人が村の若者の為に私財を投じて作った会社。
大手企業の電子部品を手作りする仕事だったが、難易度が高く親会社の検査を通る率が低くお金にならず撤退したばかり、つまり我々の電子機器の仕事をする技術も無ければ設備も無い20人位の会社。社長は年配で、工場長は20代の男性で、他は殆どが女性。
先ずは、本社の人員でプロジェクトチームを10人位で作って設備導入を行った。
私もその中の一員。その後一通りの指導を行うと、2週間後私以外は皆本社へ帰った。
何しろ全員素人。簡単な仕事とは言え完成品にしないといけない。
しかし、効率よく作らなければ赤字になる。
滞在が長期化すると、私は本社では影の工場長と言われていたらしい。
それでも、皆さん一生懸命仕事をしている。工場長も若いのに一生懸命やる。
何とか仕事を覚えてもらって、我々の仕事が終わっても、他社の仕事ができる様にしてあげたい。そう思って教えていた。何ヶ月滞在したのか忘れたが、秋には自立できる様になって、私も帰り、電話でコントロールしていた。この年賀状はその翌年正月の物で、一番年上の主婦の方がくれたもの。
その後、我が社の仕事が終わって、設備は無償譲渡して良い事になって、近隣の同業者の仕事で2、3年生き延びた。
しかし、バブルが崩壊して日本中の仕事が無くなって解散した。
工場長は東北の地元に帰って実家の会社で働いていると連絡が来た。「仕事とはどう言うものか勉強になった」と、言ってくれた。
