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 豪州ケアンズ周辺では、軌間600mm(2フィート)の軽軌道が至る所に張り巡らされておりレンタカーを借りて自分で運転してみると、道路沿いに見えたり道路を横断する狭軌の軌道に気がついたりして気分が踊ります。

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 豪州国内では製糖会社の運営するサトウキビの運搬用軌道が、現在でもディーゼル機関車運用で大規模に実用に供されているほか、往年の蒸気機関車を保存しながら観光資源として役立てているケースも多いようです。

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 ゴードンベイルの「マルグレーブ・セントラル製糖会社」 の事務所を訪ね、工場内の軌道の撮影を願い出ましたが、それは危険だ(つまり邪魔だということ?)と断られました。当たり前のことではありますが、敷地内に立ち入らなければ工場や車両整備場所は覗き込んでもいい、ということだと解釈し、周辺で撮影をさせていただきました。

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 その後、さらに南にレンタカーを走らせウールーヌーラン国立公園のジョセフィン・フォールズに至る道筋で、道路に並行するサトウキビ運搬軌道の鉄橋の橋脚が木製であることに気づき撮影に及んでいます。
 竣工年や延長、製造所、所有者や運用規格など詳しいことは分からず終いになるでしょうが、木製橋脚の上路式ガーター橋は、国内では静岡鉄道駿遠線の大井川橋梁が同じ出来であったような記憶があります。


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 ケアンズ・ゴードンベイル近隣のサトウキビ運搬軌道について、先人がすでに詳細な探索をしてみえます。

http://www1.cts.ne.jp/~k-bahn/page058.html
( MCSC マルグレーブセントラル製糖会社)

http://rail.hobidas.com/blog/natori/sp/archives/2011/11/post_225.html
http://rail.hobidas.com/blog/natori/sp/archives/2011/11/post_223.html
鉄道ホビダス
現役シュガーケーン鉄道 上・下

http://www1.cts.ne.jp/~k-bahn/page057.html
オーストラリアの製糖軌道を眺める
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 今回およそ40年ぶりに訪ねる豪州です。前回の訪問はまだ20代の半ばすぎころで、自身としては初めての海外旅行、今ほど気楽に海外に出かけられなかった状況の中できっと最初で最後の渡航経験になるのだろうなあー と思いながら、開港したばかりの成田空港発の添乗員付きツアーに参加したのでした。
その時のメルボルン・キャンベラ・シドニーを巡る駆け足のようなツアー日程の中では多少の自由時間があってもケアンズやブリスベン方面に足を伸ばすことは叶わず、昭和40年代のTMS誌で見た「Rails to the setting sun・邦題は 夕日に映える鉄道(C.S.Small著)」の内容紹介で知った豪州のサトウキビ運搬作業軌道に対面することはできませんでした。というか、そんな体験は生涯に渡って不可能だと考えていたのでした。
 この時代になって、やっとそれが叶います。ただ、サトウキビの収穫時期には少々早すぎたようで、一応の目的地としていたゴードンベイル(ケアンズ南方30km)では稼働している列車には遭遇できず、稼働時期を間近に控え車庫で整備に余念のない状態のDLや出番を待つだけの運搬貨車の大群を遠望するに留まりました。

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 移動には思い切ってレンタカーを利用しています。日本と同じ左側通行で、交差点の様子などに差異はありますが、あまり違和感はなく、まずまず戸惑わずドライブができたと思います。

 ゴードンベイルより若干ケアンズ寄りのエドモントンに蒸気機関車があるとの情報があり、レンタカーの利を活かして探索してみました。 無料で入れるシュガーワールドという私立植物公園に極彩色の機関車が展示してあります。かつては稼働する状態であって、公園内を走っていたという情報もあります。機関車が現役ではなくても貴重な産業遺産として認識されているのなら、それはそれで記録くらいは後世に残っていくものなのでしょう。

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ケアンズ・ゴードンベイル近隣のサトウキビ運搬軌道について、先人がすでに詳細な探索をしてみえます。
http://www1.cts.ne.jp/~k-bahn/page058.html
( MCSC マルグレーブセントラル製糖会社)

http://rail.hobidas.com/blog/natori/sp/archives/2011/11/post_225.html
http://rail.hobidas.com/blog/natori/sp/archives/2011/11/post_223.html
鉄道ホビダス
現役シュガーケーン鉄道 上・下

https://sugarworldwaterpark.com.au/
シュガーワールド・ウォーターパーク
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 先にオファーをいただき、構成する「16番の会」として今回の「第6回アイプラザ豊橋フェスティバル」に「16番/HOの鉄道模型の走行展示」を出展させていただきました。「アイプラザ豊橋」さんは、旧豊橋勤労福祉会館(草間町・県営であった)の移管を受け、平成25(2013)年より豊橋市による市民の生涯学習の拠点として利用されるようになった施設です。

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 日本型のみならず欧州型・米国型も併せて参加者が16番/HOサイズの鉄道模型を持ち寄り、和やかな雰囲気のもとに、特設会場で机上に線路を敷き詰め模型列車の運転を楽しみました。
 往年の優等客車列車を始め、天皇陛下の地方へのご出張に利用された御料車列車、旧型客車列車、長大貨物列車、そして渥美線や飯田線、田口線の旧型電車、さらには米国の大陸横断列車なども持ち寄られ、賑やかに観覧者の目を楽しませることができたようです。
 ちなみに、「16番の会」の「アイプラザ豊橋フェスティバル」での鉄道模型の出展は、4回目となりました。みなさんの応援で、毎回少しずつ観覧いただく方が増えてきているような気がします。

 国内での愛好家による現在での鉄道模型の楽しみ方は、1/150サイズの「Nゲージ」による方法が大半を占めており、1/80サイズの「16番」・1/87サイズの「HO」による楽しみ方はマイナーなものになっています。
 かつては1/45サイズの「0番/オー(O)ゲージ」と呼ばれた鉄道模型が一般的だった時期が長かったようですが、今になって往年の「0番」の鉄道模型を見ると巨大すぎてしまって奇異にさえ見えてしまいます。でも年齢を重ねて弱った視力では、なるべく大きな模型の方が断然見やすくなりますね。テレビのCMにありました。「NゲージがHOゲージに !」

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 かつての飯田線には、荷物電車(鋼体化クモニ13)が数量の貨車を牽く姿が見られた時期がありました。厚紙を切り抜き細角木材で補強した車体を自製した模型が持ち込まれました。
 作者は、かつてこの運用を目にして、その奇異さに驚愕したそうでます。微かな記憶と探求心とによって探し出した実車の写真やイラストなどを参考にして図面を引き、製作したということでした。
 また、この模型の製作の過程の中で該当荷物電車(鋼体化クモニ13)の運用以前に、鋼体化種車の木造荷物電車による飯田線での運用もあったという事実を知り、いずれその模型化も手掛けてみたいと話されました。
 


イメージ 4 昨年夏に廃線50年の区切りの年を迎えた 旧豊鉄田口線を取材したTVバラエティ番組が、最近放映されており、目にした方もままいらっしゃるようです。
 だから、というわけでもありませんが往年の田口線の写真を会場内に若干枚を掲示しましたところ、多くの方々に気を留めていただきました。
 鳳来寺山、棚山高原、田峰観音、岩古谷山、添沢温泉・・・昭和43(1968)年以前に奥三河の観光地に足を運ばれた方は、実は田口線を利用した可能性が高いです。お話を伺った方々にはいろいろな思い出を語っていただきました。また、豊橋には、奥三河にルーツのある方々がやはり多い、そんな実感がします。

 
 かつて豊鉄社員だったといわれる方には、田口(設楽町)に保存されているモ14号の修復のこと、豊橋市のココニコ(こども未来館)に保管される市電3072号の整備のお話などを伺いました。普通には伺えないお話をたくさんしていただけました。ありがとうございました。

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 大勢の電車・汽車好きな子供さん方が親御さんに連れられ観覧にみえています。その中には、もしかすると熱心な鉄道模型の愛好者になっていく方、詳しく鉄道事情を研究されて未来の交通産業を背負って立つ方々がいらっしゃるのかもしれませんね。いろいろな体験をして育つ子供さん方の成長が楽しみにもなってきます。

 この機会をいただきました、豊橋市教育委員会生涯学習課(アイプラザ豊橋)の関係者各位、ともに模型を持ち寄っていただきました16番の会のみなさん、差入をしていただいた方々、そして足をお運びいただいた多くの観覧者のみなさん、ありがとうございました。



 通算671回を数えた当ブログ、今般の生活環境の変化により、しばらく上稿を休みます。

 みなさまには長い間、このブログをご覧いただき、また応援をいただき、そしてたくさんのコメントもいただきました。みなさまのご厚情には、本当に感謝です。みなさまの励ましを感じながら、8年余りの上稿継続ができました。ありがとうございました。

イメージ 6 いつかブログの復活ができたら、またいろいろなことを豊橋から発信できたら・・・と思いつつ一旦の休止とさせていただきます。

 PC環境・当ブログサイトは維持できますから、相変わらず記事へのコメントやゲストブックへのご投稿をいただくことはできますし、ご返答もできると思います。これからもよろしくお願いたします。

2019.2.25
   TOYOHASHIKARA
                     lundi2003n


Darjeeling Himalayan Railway、दार्जिलिंग-हिमालय रेलवे 2016.3  by lundi





 




イメージ 3 こどもが小さいころ、ざっと30年近く前のころですが、旧田口線の鳳来寺駅跡近くにあった青少年旅行村でキャンプをさせてもらえると聞いて、やはり幼いこどもを持つ友人らと連れ立って何度かお世話になっています。当時は旧線路跡のトンネルが施設への入り口として再利用されており、キャンプ道具と子供を満載した車でトンネルをくぐってキャンプサイトに進入したと記憶しています。

イメージ 1 現在このトンネル(田代隧道)には進入路に柵が設けられ、旧鳳来寺駅側の切通部分も含めて歩行者も進入禁止になっています。
 柵の隙間から内部を見るだけになってしまった様子は依然として変わらず、ひっそりと以前の鉄道トンネルの様子を現在に伝えています。


イメージ 2 この田代隧道跡から旧玖老勢駅方面に路線跡をたどれば、田代川橋梁・麹坂隧道・「なかよし小道」そして玖老勢橋梁 へと旧豊鉄田口線(田口鉄道)の遺構が続きます。廃線から50年余、再利用がされて曲がりなりにも地域の役に立っている遺構がある反面、再利用がされずに打ち捨てられ、むしろ厄介者扱いされていると感じられる遺構とがあり、その明暗を分けているように感じます。

イメージ 4 明治期頃からの地元沿線の人々の、「鉄道で地域を開発し、地域の人々の暮らしを高めたい」との熱い志と努力がやっと実を結び、昭和4(1929)-7(1932)年に順次路線開業した田口鉄道(のちの豊鉄田口線)、残された多くの遺構の前に佇むたびに、当時の人々の地域開発への大きな夢と希望を感じ取れるような気がします。

今回の訪問・写真撮影 2018.9.18

 


田口線 鳳来寺-玖老勢 の隧道・橋梁   拙ブログ (2011.11.12)


参考図書

・「したらの文化財 9 図録・田口線と用具」

設楽町教育委員会刊・平成8) 豊橋市図書館蔵書

・「鳳来町誌/田口鉄道編」 

鳳来町教育委員会、1996年 豊橋市図書館蔵書

・「青春のアルバム豊橋鉄道田口線」

小早川秀樹/自費出版・平成18年 豊橋市図書館蔵書

・「産業考古学会1995年度大会岐阜」 研究発表講演論文集

産業考古学会/1995 豊橋市図書館蔵書

「豊橋鉄道(株)田口線の産業遺産」の稿 市野青志


 



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イメージ 2 豊鉄田口線の廃止日は、昭和43(1968)831日でした。その前々日29日は台風10号の強い風雨により落石などの被害を予想して午後より運行を全線(本長篠駅-清崎駅間)見合わせています。翌30日に路盤などの被害が軽微であった田峰駅-三河海老駅間のみを一時復旧するも、さらに続く降雨により田峰駅-清崎駅を含む三河海老駅以北の軌道状態は不安定だということで、31日廃止日当日に現地に赴くと三河海老駅-本長篠駅間のみの区間でモールで飾り付けをしたモ15号が名残を惜しむ多くの乗客をピストン運転で捌く運行となっておりました。

イメージ 3 モ14号は地元の設楽町に寄贈するため海老駅検修車庫にて電装解除済、モ36号は清崎駅に駐泊したまま引き降ろせず、そしてモ37号は路線内にあった空貨車を牽引する任務があったことから、当日の客扱いは、実はモ15号のみではダイヤを守っての三河海老駅での列車交換を伴う区間の運行ができなかったということが真相であったと考えています。

イメージ 4 そして豊鉄田口線の廃止日直前には、地元の製材業者より国鉄飯田線経由で多数の外材積載貨車を引き上げる駆け込み需要があり、その荷降ろし済みの空車を集め本長篠駅まで搬送する仕業が生じていたようで、大草停留所付近で目撃したモ37号が荷のない無蓋貨車4両を牽き本長篠駅方面に向けて走った運用もそのための臨時運行だったと思います。

イメージ 5 田口鉄道株式会社(豊鉄田口線の前身会社)の事業発足時(昭和2/1927年)での筆頭株主は宮内省(資本金300万円のうち42125万円)でした。田口鉄道線の西側には段戸山系の帝室林野(現在は国有林、管理は林野庁)があり、当時は皇室の財産として宮内省が管轄しており、田口町長関谷守男氏や元宮内省職員平野雅夫氏らを代表としての大正年間からの地元民からの請願によって田口鉄道の設立に宮内省が資本参加することが有利であると理解され、その大口の出資に至ったといういきさつがあるようです。(田口鉄道が実質的には「半官鉄」ともいわれた所以です。)
 昭和30年代から段戸山地域の国有林の資源が枯渇して搬出材は減少し、田口線路線廃止間際には微量ながら逆に洋材を引き上げて沿線の製材所に供給する役目を田口線がなお担っていたという事情を聞いて、時代の変遷の中での盛衰というものを感じます。


イメージ 6 廃止日の昭和43(1968)831日、運行ができなかった三河海老駅-清崎駅の区間には、6本の橋梁がありました。寒狭川第一(延長64.96m・プレートガーター上路式4)・第二(延長82.70m・同5)2(の堂々たる)の橋梁は路線廃止後撤去されており、今ではその痕跡をかろうじて留めるほどの状況ですが、この区間のうち田峰駅-長原停留場間では大木和田橋梁と呼ばれる小橋梁の橋台・桁(延長3.66m・鋼I型桁上路式)が、藪の中に埋もれて未だひっそりと残されておりました。
 この区間は、廃止日前日までの風水害により営業復旧がされずに路線廃止日を迎えた区間です。現状は路盤にかなりの量の土砂崩落があったり、隧道内に湧水が溜まったりしていて、探訪をされた方々からは「徒歩でも通り抜けの難しいところがあり、経路を通しての探査がしにくい状況だ」と伺っています。モ36号を清崎から引き下ろせなかった(路線廃止後、トレーラー車積載で搬出/モ37号ととにも600V化対策をして渥美線に転用)状況から、現状とそう変わらない被害が生じていたのではないでしょうか。
 なお、この区間にあった隧道は清崎第1、同第2、同第3の3本です。自身は、第1隧道にはまだ到達していません。


イメージ 7 「アイプラザ豊橋」さんから今回もオファーがあり、「16番の会」の1員として同調者とともに 224日開催のイベント「アイプラザフェスティバル」に16(HOサイズ)Nゲージの鉄道模型を出展することになりました。通算4回目となります。
 計画では昨年と同じくR730-610程度のオーバルエンドレスを3線敷設、幾種類もの列車編成を用意して鉄道模型の運転を楽しみながら1(午前900-午後1500くらいまで)を楽しく過ごします。ぜひ、観覧にお越しください。持ち込み車も歓迎します。
(DC12V2線式での16.5㎜及び9㎜、また♯80レール使用のため低フランジ車に限ります)


イメージ 8 当日は「穂の国鉄道模型クラブ(HMRC)」の月定例会の活動日(午後1300-1600ころ)でもあります。午前中はアイプラザ豊橋(草間町・旧勤労福祉会館)へ、午後はHMRC(豊橋市役所近く・豊城地区市民館で)へどうぞお越しください。おそらく、いろいろな人と話し合う良いチャンスとなるでしょう。自身は、アイプラザ豊橋でお待ちしておりますよ。

穂の国鉄道模型クラブ(HMRC) オフィシャルサイト


イメージ 9参考図書
・鳳来町史 田口鉄道編 
愛知県南設楽郡 鳳来町教育委員会 H8(1996)  豊橋市図書館蔵書
・飯田線展 三遠南信を結ぶレイルロードヒストリー
豊川市 桜ケ丘ミュージアム  H15(2003)  豊橋市図書館蔵書
・「青春のアルバム豊橋鉄道田口線」
小早川秀樹/自費出版・平成18年 豊橋市図書館蔵書
・「産業考古学会1995年度大会岐阜」 研究発表講演論文集
産業考古学会/1995 豊橋市図書館蔵書
「豊橋鉄道(株)田口線の産業遺産」の稿 市野青志

 大木和田橋梁のI鋼製の桁には、近年まで取り付けられていた銘板を外した跡がありました。「大阪鉄工所製作・昭和5年」の銘があったと思われます。大事に保管されているとは思いますが、できれば数年後に新装成るはずの奥三河郷土館/道の駅(清崎に建設予定)あたりで展示されるとありがたいなあ。

 
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イメージ 2  昭和4(1929)年に当時の鳳来寺鉄道鳳来寺口駅(JR飯田線本長篠駅)より三河海老駅(延長11.6 km)を開業した田口鉄道(のちの豊鉄田口線)は、3年後の昭和7(1932)年までに三河田口駅までの延伸工事が終了、計画営業路線を全線(22.64km)開業しています。



イメージ 3 田口鉄道の路線には延長3m以上の橋梁が17(最長は寒狭川第4橋梁の104.06m・道路用橋に転用され現存)が架けられ、そして23本の隧道(最長は稲目隧道・滝上停留場-田峰駅間の1,510mで、竣工当時の愛知県下では最長の鉄道トンネルであったことも知られています。)が貫かれるなど、その山中での工事の困難さが今に偲ばれます。

イメージ 4 旧田口鉄道の隧道は路線廃止されて50年を経過した現在でもその多くが道路用に転用されており、自動車が通行できる状態のものも少なくありません。対して橋梁の方は桁・土台ともにすでに失われているものも多く、当時の橋台・橋桁がともに残存するものは5本ほどのようです。


 稲目隧道は昭和43年の路線廃止後10年ほどは豊鉄の代替路線バス専用トンネルとして使われましたが、昭和54年に愛知県道389号線のトンネルとして拡幅整備され、以来地域の重要な路線として供用されています。大きく拡幅されたために往年の鉄道トンネルの痕跡を残していません。

イメージ 5 俳人種田山頭火は昭和14(1939)年に鳳来寺を訪ねた折に当時の豊川鉄道と鳳来寺鉄道を経て鳳来寺口駅(現・JR飯田線本長篠駅)で乗り換え、鳳来寺駅までの間を田口鉄道の電車に乗車したことが後日の山頭火研究により判明しています。この区間でのトンネルの数に圧倒されて(鳳来寺駅までの4.8km8本の隧道、この区間での最長隧道は万寿隧道の339.5m)山頭火は「トンネルいくつ おりたところが木の芽の雨」と詠んだのであろうことはその心境の理解に納得がいきます。

イメージ 6 寒狭川(豊川水系)の沿いの深い渓谷に多くの橋梁と隧道を越え入り込んでいく田口線の沿線風景は風靡なものであった半面、逆に何度となくの風水害に悩まされることになり、その復旧費用がその都度大きな財政負担になったことを思うと、この路線の維持、そして企業体としての経営はおよそ大変なことであっただろうことも容易に想像できます。

イメージ 7 昭和43年の路線廃止から50年を経て、自身が最近やっと探訪できた隧道が2本あります。1つは、稲目隧道と滝上停留場との間にある海老隧道、そしてもう一つは清崎第二隧道で、稲目隧道と同じく拡幅整備されてその大半が国道257号線の清嶺トンネルとなった清崎第三隧道の未利用部分(田峯側坑口)にも到達しています。
                                  今年は・・・・亥年。蹄の足跡を発見。
                   
イメージ 8 昨年(平成30/2018)年の夏から秋にかけて催行され、人気を博した田口線の路線跡を探るツアーが、今年も催行されるようです。しかも従来のツアーでは足を延ばせなかった三河田口駅接続の森林軌道跡の探索ができるコースもあるということで、さらに参加者の興味をくすぐる催しになりそうな気配です。


イメージ 10 清崎第2隧道(延長118.3m)田峯側坑口付近には泥濘部分と深い水溜まりがあり、ウォーキングシューズ程度では徒歩通過できません。また
清崎第3隧道 (現R257清嶺トンネル/延長190.8m)では当時の坑口が田峯側のみ残りますが、その坑口付近・内部も崩落部分や深い水溜まりがあって徒歩での進入は難しいようです。




豊鉄ツアー今年も続行 東日新聞記事

種田山頭火 (ウィキ)

参考図書                       イメージ 9
・東三河における山頭火
鈴木折嶺 著 豊川堂 平成3(1991)
・「したらの文化財 9 図録・田口線と用具」
設楽町教育委員会刊・平成8)
豊橋市図書館蔵書
・「鳳来町誌/田口鉄道編」 
鳳来町教育委員会、1996年 
豊橋市図書館蔵書
・「青春のアルバム豊橋鉄道田口線」
小早川秀樹/自費出版・平成18
豊橋市図書館蔵書
・「産業考古学会1995年度大会岐阜」 研究発表講演論文集
産業考古学会/1995 豊橋市図書館蔵書
「豊橋鉄道(株)田口線の産業遺産」の稿 市野青志
 
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 鳳来寺駅 昭和43(1968)年3月 モ15 
 

イメージ 2 漂泊の俳人と呼ばれる種田山頭火(荻原井泉水の門下)が、戦前(昭和14/19394)に知多半島師崎から船で福江に渡り、伊良湖・赤羽根・下黒川(田原)・豊橋・豊川・鳳来寺山・岩屋観音・白須賀(湖西市)の各所を訪ねて回った折の旅日記が残されており、後年になって多くの人たちによって山頭火の辿った様子を解析する研究がされています。

イメージ 5 おそらくは雲水姿で当時の豊川鉄道(現在のJR飯田線)を利用、豊川稲荷(妙厳寺)に立ち寄った後、さらに鳳来寺鉄道(やはり現在のJR飯田線)・田口鉄道(当時の鳳来寺口駅/現在のJR本長篠駅-三河田口駅間、昭和43年廃線)を乗り継ぎ、田口鉄道内では最初の列車交換駅である鳳来寺駅で下車、石段1,425段を登り詰めながら十数句を詠んでその日のうちに豊橋に戻ったとされています。



トンネルいくつ 
 降りたところが木の芽の雨
                    山頭火

                   
                                        鳳来寺駅 昭和43(1968)年3月 モ15 
                                                     

イメージ 7 自由律の俳句の人なので、詠んだといわれる句は変わった印象の句です。5-7-5の基本的な句律をぶっ壊している句ですが、僭越ながら山頭火の句からはその時々の思いが実にストレートに自身には伝わってくるような気がします。


 

イメージ 8 現在では失われている田口鉄道線の記憶が詠まれているならば自身の興味の範囲ですから、この12月半ば、高校在学時の恩師I先生と共鳳来寺を訪ねました。
 山頭火が鳳来寺を訪ねたおよそ80年前の折には、当時の鳳来寺口駅で電車の乗り換えをした(おそらく木張外板時代のモ14あるいはモ15に乗車)と思いますが、その後鳳来寺駅に達するまでには、内金、大草、富保、峰、峰第2、峰第3、峰第4、万寿、の8本のトンネルを通ったはずで、山頭火は、まずその連続するトンネルの数に圧倒され霊峰鳳来寺の山深さを実感してこの句を詠んだのではないでしょうか。

イメージ 6 バイクで取材に出かける時が多いのですが、今回は旧鳳来寺駅構内跡と思われる駐車場に車を停め、参道を歩き出します。
 すでに紅葉の季節から外れ、初冬の参道は寒く人影もまばらでしたが、参道で句を刻んだ石碑を3基、中腹本堂向かいの休憩場(正しくは田楽堂・毎年1月3日には伝統芸能の鳳来寺田楽が奉納されるようです)では山頭火が鳳来寺で詠んだ16句が記された奉納額を確認、また五平餅と関東煮を食べた参道沿いのお店で壁に掛けられている往年の電車の写真の掲示とお客に見てもらうために備えられたと思われる故・小早川氏が自費出版した写真集を発見、90年ほども前の俳人の旅、そして交流のあった小早川氏を偲びながら1日を過ごしました。

イメージ 4 昭和54(1979)年ころには食堂に改装されていて、南信・治部坂高原からのスキー帰りに立ち寄ったことのある旧駅は、お店を切り盛りするお姉さんから、実際には参道の突き当り、現在は道になっているところにあったんだよと教えていただいています。
 それ以外にも何回かこの駅を訪ねた記憶でも、確かに駅舎は参道の突き当たりにありました。
                                                          鳳来寺駅 昭和43(1968)年3月 モ37

イメージ 9 昭和38(1963)年秋、小学校行事の遠足は鳳来寺山方面への歩行訓練で、電車を降りた後は博物館と硯屋さんの作業風景を見物しながらのそぞろ歩き、鳳来寺駅から石段1425段を登り仁王門から笠杉を経てへろへろになって当時の仮本堂に達し、さらに東照宮と行者越を経由して湯谷温泉に下る行程でした。駅跡から歩いて石段が始まってからの参道の風景は、その当時からほとんど変わっていないと思います。
 旧駅付近に四季桜(冬咲き桜)とおぼしき花が咲いており、山頭火の訪れた4月でなくとも桜の咲く中を進む電車と鳳来寺を意識できたことが今回の冬の鳳来寺訪問の一興となりました。


イメージ 3ここからお山のさくらまんかい
             山頭火

 ぼくも山頭火を偲んでへたくそですが 一句。

  さくらまんかい 
     鳳のお山の 山頭火 (lundi)



荻原井泉水(ウィキ)
種田山頭火 (ウィキ)
豊鉄田口線(ウィキ)

参考図書 
・東三河における山頭火
鈴木折嶺著 豊川堂 平成3(1991)年 豊橋市図書館所蔵
・「青春のアルバム豊橋鉄道田口線」
小早川秀樹/自費出版・平成18年 豊橋市図書館蔵書
・「産業考古学会1995年度大会岐阜」 研究発表講演論文集
産業考古学会/1995 豊橋市図書館蔵書
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 自身の移動とともにトンネルの出口の白い馬蹄形の光束が近づくと、どんどんそれが大きくなってきます。外の風景は眩しくて実はよくわからない。最後に閃光のような輝きを感じて風景が大きく開けます。それが自身にとってのトンネルを抜けるときの一連の印象。出口に近づいてその光がだんだんと強くなってくる情景を見るたびに、人の生活上での希望の証がその情景の中にはあるのではないかと感じさせられます。


イメージ 2 学問をして世界と人を学び、産業を興して地域の発展向上を図る。明治から大正・昭和にかけ、国の近代化を目指して全国の諸地域の先覚者たちの多くが、鉄道を敷き、電気・道路を通し、金融機関を設立するといった地元興産の活動を始めています。



イメージ 4 明治30(1897)年の豊川鉄道の一部開業よりおよそ30年後、大正12(1923)年の鳳来寺鉄道の全通からも6年を経過した、昭和41929)年に鳳来寺口駅(現・JR飯田線本長篠駅)-三河海老駅を開業させた田口鉄道(豊鉄田口線の前身運営会社)の設立は、地元だけでは到底足らない事業資金を当時の宮内省(帝室林野局)を筆頭に豊川鉄道・鳳来寺鉄道・鳳来寺などからの大口出資に求め、寒狭川沿い奥三河の総合開発鉄道としてやっと実現されたものです。

イメージ 3 段戸山の帝室林野(御料林/現在では国有林)から引き下ろす木材の搬送を提言しながら多額の出資を求める宮内庁への陳情に何度となく東京に出向いた関係者の労苦は大変なものであったと聞き及びます。




イメージ 5 大草隧道から鳳来寺駅方面に路線敷を辿り富保隧道を抜けたところの築堤は元軌道敷とは思えないほど広く、後年に集材などの目的で拡張されたのではないでしょうか。




イメージ 6 ただ、広い築堤上を自在に移動することは避けた方がよいと思います。築堤上は草が刈られて藪状態ではありませんが、泥濘部分や隠れ石に足を取られ要注意でした。





イメージ 7 富保隧道からさらに鳳来寺方面に貫かれている2本の隧道は、峰隧道、峰第2隧道です。峰第2隧道の外部両端部に崩落があり、車両はとても通れません。その先には後年の道路建設があり、路線敷跡は分断されています。今回の三河大草駅(停留場)付近の探訪は、ここまででひと段落です。


イメージ 8 峰隧道の大草側入口付近に石垣を組んだ上に祀られた石祠がありますが、特に彫られている文字も見当たらず、何が祀られているかを知る由もありません。山の神様や峠道の馬頭観音様など、何かいわれのある石祠なのでしょう。隧道工事に携わった人々の慰霊祠かもしれませんが、周囲の石塔の形が近代・近世のものではないような気もします。地元の石碑や石像などを網羅している鳳来町誌・金石文編を参照しましたが、峰隧道の祠についてはその記述を発見できませんでした。ご存知の方はご教示を願えるとありがたいと思います。


イメージ 9参考図書

・「青春のアルバム豊橋鉄道田口線」

小早川秀樹/自費出版・平成18年 豊橋市図書館蔵書

・「産業考古学会1995年度大会岐阜」 研究発表講演論文集

産業考古学会/1995 豊橋市図書館蔵書




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イメージ 2 昭和43(1968)年に路線廃止された豊橋鉄道田口線(昭和4/1929年の開業当初では「田口鉄道)は、現在でもその軌道敷跡を残す部分が多く、というより容易に訪ねることのできる部分が大半、というくらいに当時の痕跡がとどめてられています。



イメージ 3 JR飯田線からの分岐駅であった本長篠駅-旧鳳来寺駅間の旧三河大草駅(停留場)付近では街道から軌道敷であった築堤を望むことのできる場所があり、近くの小道からその築堤を目差して坂を上りました。




イメージ 4 近隣の隧道を掘ったり山裾を切り取ったりして発生したズリ(土砂)で谷を埋め作ったはずのこの築堤上には容易にバイクやクルマで到達できます。右すぐには路面に轍のある富保隧道(延長37.4m)がありますが、左側の築堤を通って本長篠方面に口を開けている大草隧道(延長95.4m)に入ります。


イメージ 5 特に危険はないと思い、バイクを進めましたが内部には崩落した箇所もありました。中心部分の内部面にコンクリート打ちはなく、ワイルドな素掘り部分のある隧道です。出口上部に当時の電線を留めた碍子が残ります。




イメージ 6 大草隧道を抜けてまもなく、かつての三河大草駅(停留場)のホーム跡は山の中にひっそりとたたずんでおりました。自身は大草駅跡に廃線後では初めて到達しました。50年前の運行最終日に雨の中、付近で撮影をして以来です。
 当時の駅名表示看板や待合室は失われましたが、地域の方々やその他関係者の方々の労力によるのでしょう、ホーム跡と隧道入口に小さくても案内看板が立てられ、付近の除草もされて周辺の手入が行き届いていることに感謝です。

「小林あにのページ」 2017.8 この項では、大井川橋梁跡から傘川橋梁跡までを探査してみえます。






参考図書
・「青春のアルバム豊橋鉄道田口線」
小早川秀樹/自費出版・平成18(2006)年 豊橋市図書館蔵書
・「産業考古学会1995年度大会岐阜」 研究発表講演論文集
産業考古学会/1995 豊橋市図書館蔵書
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滝の上にあたる場所にあるから、「滝上」 
 駅・停留場名のつけ方というものは地名を取るか、あるいはこんな感じでその土地名を現す方法で、利用者の馴染みやすい付け方がされるのだと思います。「滝上」、よくわかります。絶対に、下には滝があるはず!! 
 滝を名瀑に仕立て上げ、観光地として売り出せないかという目論見も、もしかするとあったかもしれませんね。

イメージ 2 昭和4(1929)年の鳳来寺口駅(現・JR飯田線本長篠駅)-三河海老駅間開業に続き、その翌年三河海老駅-清崎駅間を開業させた田口鉄道(その後の豊鉄田口線)の路線を敷設する工事では、山間での少ない耕地や宅地を潰さないように随所で山裾・山中を削っての工法が取られたと見られます。旧滝上駅付近でも民家の上の山裾を切り開いて路線敷と駅(停留場)が設置されたことが地形から伺えます。


イメージ 3 先の現地訪問時期は晩夏だったが故に夏草が生い茂り、足を踏み入れる気にはなれなかった旧滝上停留場跡を訪ね直したのは11月初旬です。ともすると背の丈ほどもある草の勢いは衰えてはいても、立ち枯れた薄芒(すすき)猪子槌(いのこづち)の藪を越さないと旧駅の痕跡が残る現場には到達できません。2本の桜の木のある嘗てのホーム跡は生い茂る草の中、こんな人里の近くにと思えるようなところにひっそりと佇んでおりました。


イメージ 4 10月になってから、新聞紙上で二つの田口線関連記事に気が付いています。
 一つは1014日に催された「すべての田口線駅を歩いて訪ねるツアー」で、旧滝上駅にも多くの方々が訪れたことと思います。11月初旬の自身が訪れた際には、付近の路線敷跡に草を踏み分けた跡がわずかに残されておりました。
 もう一つは豊鉄の企画で「田口線廃止50年 秋の廃線跡探訪バスツアーの実施について」と題するツアーの参加者募集広告。10/13より1/15まで5コース延べ7回の日帰りツアーで、一部のコースは天竜浜名湖鉄道の天竜二俣駅の見物も加え、田口線の痕跡の見どころを巡ります。すでに終了したコースもありますが、きっと満席開催だったのでは ?


イメージ 5 路線廃止から50年が経過した割には当時の痕跡が多く残る旧豊鉄田口線(田口鉄道)、地元を愛し、地元に生きる多くの方々の気持ちによってイベントやツアーが開催され、当時の痕跡が紹介されていく様子を見て、失われた山間の鉄道の記憶がまだまだ未来に向かって語り継がれていけそうな気持になります。


田口線50の会のイベント (愛知県東三河広域観光協議会HP)
豊鉄HP 田口線廃止50年 秋の廃線跡探訪バスツアーの実施について」
停留場 (ウィキ)