月ノオト livret

月ノオト livret

見逃す舞台は数々あれど此の身はひとつ
観たこと一つのめぐり逢いにめぐり遇う
その縁確かに琴線震わし心の襞に永らい
今日と明日の我糧と成し腑に落ちにけり
再び襞より紐解いて反芻する時の喜びは
何ものにも代え難き心の息ざま生き様よ

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=薮原検校観劇予定からの考察=

もう少し先ですが、井上ひさし作蜷川幸雄演出古田新太主演・薮原検校を観る予定である。
薮原検校-新橋演舞場で中村勘九郎丈(現・勘三郎丈)、こまつ座木村光一演出・高橋長英さん(再演・再々演)と観ている。数ある井上作品の中で一番観ているかもしれない。
私にとって井上ひさし作品は感慨一入なのである。
最初に戯曲というものを読んだのは、井上ひさし作品だ。
観劇する手段を知らない女子高校生は、放課後の本屋で燃えていた。
そして17歳、市村正親さんが出演した劇団四季子供ミュージカルをNHKで見て、その思いは切望へと変わり、京都公演に奔るのである。




幼児の頃から親しんだ「ひょっこりひょうたん島」から始まり、作家としての作品もほとんどを読んでいる。特に戯曲は、乙女の胸でイメージを膨らませ高揚していた。その証拠に無謀にも「天保十二年のシェークスピア」を高校の学園祭のクラス演劇で舞台に挙げようとして挫折したおんなである。(「爆笑」するところです)
成人して芸能座(小沢昭一さん主宰)、こまつ座(井上さんが座付作家)と観てきたが、新作公演の延期や中止が続き、日程がたたなくなったりして、いつの頃からか観なくなってしまった。
しかし変わらないのは、井上さんの本・舞台は面白く楽しく笑い、いつの間にか私の目の前にある問題を意識させられることである。井上作品が舞台になる時、私の血が騒ぎ観劇欲を渇望する。
三つ子の魂百までか。

数年前、俳優協会主催(いのうえひでのり演出)の「天保十二年~」の公演を知り、本箱から古い本(昭和48年発行)を取り出し再読する。そして、久しぶりに というか憧れの「天保十二年~」を初めて目にした。読んでもイメージしきれない「きわどいシーン」は以外にあっさりしたものだったが、主人公よりも古田新太さん演じる幕兵衛役に魅力を感じた私だった。
一昨年の蜷川演出は、演者はともかくドギマギ写実的であった。演出でこんなにも変わるものなのか。17歳の薄っぺらなイメージはハラハラと散り、熟々の女の想いが立体化したのである。

戯曲を読み、舞台をイメージ出来るホンと出来ないホンがある。
勿論出来ない戯曲の筆頭は野田秀樹戯曲である。何度も舞台を観ているが、未観作品や書き下ろし作品は、読んでも読んでも舞台にアカリが灯らない。
「パンドラの鐘」野田さんと同時に演出した蜷川さんの舞台は、主演大竹しのぶさんと共に非常に野田作品を解り易くリアルに噛み砕いてくれた。
いつもの「掴みはOK」な演出、しのぶさんの一瞬にして惹きこまれる演技、荒涼とした世界へと没入した。記録としてのDVDと戯曲を見比べると、一字一句ト書きにいたるまで変わらず且イメージを膨らませて演出力を感じた。
最近読んだオレステスのプログラムで「すべての答えは戯曲に中にあるのだ」と蜷川さんは言っている。納得!
それに触発されて、鈴木裕美さんの言葉「演出家は本を書かない」を思い出す。
「演出家とは、戯曲を読み解き発想し立体表現する人であり、決して劇作をする人であってはならない」と理解する。
……その真逆の筆頭が野田さんかぁ?(決して裕美さんが野田批判をしているわけではありません。「演出家とは~」を読み、私が意識的に結び付けているだけです。)
こうして考えると、蜷川、野田両氏は両極端な演出家と言えなくもない。


演出家は、言葉が巧みでなければ成り立たない。己の想いをスタッフ、役者に伝えなければならないからだ。装置、照明、衣装、そして役者は形や姿で表現できるが、演出は他者に発する言葉以外に方策はない。いかに的確に伝えられるかという手腕にかかってくる。
他の戯曲を読み込みイメージして行っても良い意味で必ず裏切られる蜷川さんに対して、野田さんの場合イメージし難い分、受入れ易い作品とそうでない作品に分かれる。時間が掛かる。
必ずしも、全てを理解しているなどと傲慢な考えは持っていない、ここ最近理解しやすい作品にしてくれているのは、彼自身が大衆の理解しやすい場所(演出)へ降りて来てくれてのだと考えている。
イメージしにくい舞台が目の前で具体化して、先に読み込んだ戯曲が立ち上がる悦びは観客のものであり、決して舞台関係者のものではない。
もし、誤解を承知で二人の演出家を比較するならば、
蜷川の心地良い視覚としての裏切りと野田の奇想天外な具体化であろう。

あっさりとした いのうえ演出の「天保十二年~」ですら色気を感じた古田さんが、蜷川さんに今回如何演出されるのか。昨年の「タンゴ~」は何物にも況して駆けつけるべき公演であったが、今年の目玉は、杉の市役 古田新太である。
実存蜷川vs色悪古田  
何よりeプラスのインタビューで、2月から台本を読んでいるとの本人コメント、そしてあのポスター、私の持論からすれば期待する以外何があるのか である。

私が10、20代前半より蜷川さん、つかさん、野田さんが存在した。琴線を震わせ心酔し、怒り、どのベクトルであっても心が波立つ。その後、数多の演出家が出現しどれだけ消えていったか。消費されつつあるか。
誰か出てくれ、永久保存版演出家。俳優は観客は不世出な演出家が出現しなければ皆腐ってゆく
腐る?堤さんは腐りません!と思った貴女、「刹那と永遠」の お仕事大賞は連続蜷川作品
つまり蜷川さんが現役をおりた時、心振るわせる舞台見られなくなることを危惧しませんか?彼の持ち味が半減するのは至極残念。
誰か出てくれ~~~。
俳優も観客も伝説となる情熱に燃える演出家を待ち望んでいる。
彼らが戯曲から意識して読み取った何かを、無意識に表現した何かを、私は掻き分け掻き分け、
自身の腑に落せる解釈を無常の悦びとしている。

2007/5/8 初日 薮原検校 シアターコクーン

=To be,or not to be がすべて=


藤原竜也は、あの美形からは想像できぬほどの並ではない根性の持ち主だ。(いきなり呼び捨ゴメンなさい。)
マイルスの泣きのペットが会場に充分響き渡ったあと、
やがて登場したコクーンのハムレット王子は、ただ者ではなかった。

十数回この演目を観たが、今回ほど内容を腑に落とすことが出来た舞台はない。
愛憎家庭劇と初めて感じ、フォーティンブラスが登場するまでは、現代でも起こり得る話である。
あんなにも張り詰めた濃厚な芝居が展開するなど思いも寄らなかった。
私のバーチャルは、見事にデンマークの荒涼たる城壁を俯瞰していた。
気鬱な若者の理由、尼寺へ行けと言った意味、そして娘は何故狂ったか etc. 新たな世界が開けた。

これは、藤原ハムレットだからか?蜷川演出だからか?
そこにもう一つ加えたい……観客の想像力を掻き立てる劇的言語がこの舞台にはあった。
後から発行本を書店で偶然見つけた。
河合祥一郎氏の新訳英文学として「目で読む戯曲」でなく、言葉の意味の浸透率をアップする目的で訳された「耳から聴く戯曲」。
あとがきと後口上(この翻訳は野村万斎氏の委託から始まっていますが、その説明は此処では省略。)を読み、この舞台がすんなり入ってきたことに至極納得した。三位一体の成せる技であった。

To be,or not to be がすべて。

表と裏 表裏一体が「ハムレット」の登場人物の姿、この演目の主である。
貞淑な妻は夫殺しに似た行為をする。
策略で得た王冠を身に着けたまま神に祈る新王、
恋をして全てを失う処女、
憎む母を突き放せない息子、
復讐を口にするも手を下すことに躊躇する王子、
ハムレットを含め、其々の役柄の解釈で
訳者の「To be,or not to be」が変わる。モチーフが変わる。

話は変わるが、東宝ミュージカル「ミス・サイゴン」で経験した岩谷時子氏の訳詞は、音符と言葉数とイントネーションが上手く合った訳詞で耳心地も良く、意味も演者の心もすんなり身体に入ってきた。が、その後困ったことに外国産ミュージカルの日本語版の訳詞は、字あまり、三連符まがいな歌と とても気持ちが悪く、耳障りで楽しめなくなった。
やはり観客の想像力を掻き立てる、すんなり入る劇的言語は肝要である。
舞台上の世界に入り込めるか、役柄が本当に生きていることを信じさせてくれるかどうか、
芝居に対しての評価はこれで大半が決まる。
それは幕が開いた一瞬だけではない、時間と共に科白がじわりじわりと染入ることもある。
それは己の今をも映し出す。

私は、(高橋惠子、西岡徳馬両氏演ずる)母と叔父の醸し出す視線で、二人の官能に満ちた営みの空気を感じた。
「双頭の鷲」で気高い王女の話をしたが、
この物語の王妃は奸婦ではないが、貞淑な寡婦とはとても呼べない、
デンマーク国王兄弟そして王子の人生を狂わせた一見「か弱きおんな」なのである。

兄は、策に落ち夫として裏切られているにも拘らず、亡霊となった今も「このおんな」を息子から庇う。
弟は、人類最初の殺人者カインと己を重ね、懺悔をも躊躇してしまうほど、兄殺しを悔いても悔やみきれないことと自覚している。
が、殺人へと突き動かしたものは、王冠と言うよりも並々ならぬ「この女」への執着と私は強く感じ取る。

この物語の男どもを殺戮へと導いたのは、そのおんな ガートルードだ。
私がおんなだから非難するのか、否、全ては「弱き者、汝の名はおんな」である。


また話が逸れるが、
ガートルード役 高橋惠子さんと藤原竜也さんは、2005年秋「天保十二年のシェイクスピア」で再び母子を演じた。キャラクターは違えど、「目」が似ていると感じた瞬間から二人の姿がハムレットに遡り、デンマークの城壁に引き戻された。

同様の美しさを生れ持ち、同様の滾る血が流れていると信じさせてくれる息子・藤原ハムレットは、青年らしく悩み怒り踠いている。
淫売と罵る言葉の奥に母への思慕が感じられる。
青年の僅かに残っている乳離れ出来ない心が「おんなである母」へ許しがたい嘆きを発語する。

逆に、オフェーリアという菫の蕾を結果的に手折ったことは、父・叔父と同じ身分高き身であるからか、それとも母の腹から持ち出した業のしわざか。
性的魅力が充満している母を持つ身であればこそ、心から愛している対極の少女に「尼寺へ行け」と激しく別れ言葉を放つ若さが理解できる。
父兄から蝶よ花よと愛しまれきた娘が、初めて恋しく想う其の人に、理由不明なまま純潔故に汚らわしいと激しく存在否定され、父をも手にかけられ奈落の底に突き落とされれば、私も狂わんばかりになろう。

恋しい男性に素直に応えようとする少女への理不尽な裏切り。
そこには何らかの理由が存在するのであろうが、全てを失う少女には当然理解できない男の理由であり、到底まみえることのない男女の世界へ足を踏み入れる一歩である。
その第一歩でオフェーリアは傷つき躓き、ガートルードや われらは逞しく生き抜いていく。
やがて男どもを狂わす弱き者へとヘンゲする。
けれど、いまも純な心は体の深部に残っており、こうした舞台を目にしたとき疼くのだ。
どのおんなにもオフェーリアとガートルードは存在する、紗翁は全てのおんなを攻めてくるのです。

この若者は、愛する女性陣に手厳しいのに何故血縁の男達に弱いのか。
あんなにも残酷な言葉を母や恋人には向けるのに、父や叔父の執念に比べて、千載一遇の叔父への復讐のチャンスも宗教心を言い訳に手を下さない淡白さや、父の死後の落ち込み様が、成人男性にしては粘質である。
それとも、この息子は父が望む「為すべき事を為す者」ではなかったと解釈すればよいのだろうか。それとも強かに生きる女に比べ、男どもは殺戮を繰り返す愚か者と言っているのだろうか。紗翁に確かめてみたい。


それにしても、コクーンの藤原ハムレットは、並々ならぬ演出家の要求に全力で立ち向かっている。男子として根性で要求に応えている。
タイトルロールの男子は、復讐は時間だけが前へ進み、陽に背を向けたままの行為とし、父の要求に応えられずにいるのに…

狂気と正気の狭間の復讐で自らも破滅したハムレットを演じた王子は今秋、
狂気と正気の狭間で復讐の是非を問われるオレステスを演じる王子となる。

赤子の時から復讐が宿命の王子は、陽の光に背を向けたまま成長してきたのか、
この秋(2006年秋)、蜷川さんは彼に何処を目指して突き進ませるのだろうか。




ハムレット 2003/12 処・シアターコクーン
作・ウィルアム・シェークスピア 翻訳:河合祥一郎 演出・蜷川幸雄

主演・藤原竜也 西岡徳馬 高橋恵子 たかお鷹 井上芳雄 鈴木杏

高橋洋 小栗旬 新川將人中山幸二反田雅澄 田村真 小豆畑雅一

下崎篤 栗原直樹 金子岳憲 冨岡弘 川端征規 野辺富三 宮田幸輝

沢竜二 井手らっきょ グレート義太夫 月川勇気 衣川城二 杉浦大介

(2007/4/18 配信)



=風間・古田論=

まず、風間杜夫さんの久々の「恐ろしさ」-私が20代の頃の「つか芝居」のヒーローです。
よく蜷川幸雄さんが「切れた演技の出来る役者」として堤さんの名を挙げられますが、
風間さんは昔つかこうへいさんから「鬱血した芝居」と評されていました。
その演技が久々に観られる。(確信!)
次に、古田新太さんの手を抜いていない、
否、
マジ芝居が久々に観られるかも。(予測?)
『覚悟 ! 』って感じが一番適切に表現していると思いますが、この2つが決め手になってチケットを手に入れました。



唐突ですが、私の「役者・古田」考は、舞台を観に行くなら、
演出家との初タッグ、遅くとも2演までを観たいと言うこと尽きると考えます。何故に?
そこに古田さんが役者で居るからです。
彼は、演出家の才能を見切る才能に長けていると思います。
この演出家は、このくらいで満足すると感じたら、この程度の演技で済ますのではと幾つかの舞台を観て私は感じています。しかし、初めて組む人や才能が溢れ出ている人には、自らの技術を屈指して挑み、其れが演技として舞台に表われるのではないか-古田の本気モード、
マジ芝居が観られると考えます。正直といえば正直な人です。
同じ演出家と回を重ねると彼の別の才能‐観察眼の鋭さが発揮され、演出家の思惑の上を行く領域に入り、その場を楽しく演じたい自我が発芽するのではないかと想像しています。
辛い演技で一ヶ月舞台に立つより、題材は暗くともリラックスした気分で演じたい。
つまり役者が演出家を試す行動を取るが、そこで何も感じない凡庸な演出家や確固たる主張を持たない演出家や、まぁイイかぁと思う演出家が、その行為を流して「ダメだし」をしないと、観客としては燃えていない、集中していない古田さんを観ることに繋がる危険を孕みます。
どんな状態であろうと役者は、自身のコントロールが必要ではありますが、メインが頑張っているとき端の方で観客の意識が外れたところで、脱力感漂わせて立っていると巷で指摘される彼の姿を目にすることになるのです。
私は常に出し惜しみしていない役者古田の姿を観たい!

今(2007)年5月蜷川演出「薮原検校」、私の好きな演目。
本当は堤さんで観たかったんだけど…演じてほしい役柄のひとつだったのですが、古田さんが演じる。
本人曰く久々のパシリだそうです。20年近くの芸歴の彼が一番短いとの事。
演出は蜷川さん相手役は田中裕子さん、ホンキ古田を観られる舞台と確信。
蜷川さんに鷲掴みされそう!ちょっと悔しいです(苦笑)

「4月・suzukatz.・堤・写楽考」対「5月・ni~na・古田・薮原検校」
私にとって二つとも血沸き肉踊る演目、口にする科白が己の言葉になる…将門公も盛坊もチャンと聞こえてきたのに…ならぁない伊之さん。
キムラ緑子さんや長塚圭史さんの声は聞こえてくるのに、今なお読んでも読んでも堤さんの声が聞こえてこない私は焦り気味、
……負けちゃうんだろうなぁ と予測するのは、堤ファンとして有るまじき姿?
メタルマクベスの帰路の友人の言葉を思い出す。


話は舞台に戻します。
「ラストショウ」の古田さんは私の予想通り、(あえて「あの」と表現します)あのシーンを軽く滑稽かつアリだと信じさせてくれる力に「凄い」としか言いようがないのです。
それもこれも風間さんの「カリスマ芝居」に負けじと演じた様に見えて…
他でも演ってよぉ~と言わずにはいられない「古田衝撃」がありました。
「吉原…」「…罪と罰」「LAST SHOW」かなり触れ幅が違う…もうちょっと痩せてればなぁ…見た目がなぁ…いえいえ痩せていたらこの芝居は出来ません。やはりあの体型でないと……………私は何を言っているんだか…


風間杜夫さんを初めて知ったは、遥か昔1979年です。
NHK「若者の広場」(YOUの前番組・トップランナーの前々番組)で、三浦洋一、加藤健一、平田満 各氏と共に出演したスタジオ演劇「戦争で死ねなかったお父さんのために」を見て衝撃を受けました。
その後、近所に貼ってあった公演ポスターを見つけ、滋賀県大津の西武へやって来た つかこうへい事務所公演「いつも心に太陽を」を観に行きました。
風間杜夫、平田満、石丸謙二郎、萩原流行 各氏の出演は、今思えば濃いキャストです。裸と裸、汗が迸る舞台でした。
其れから つかさんが作家専業宣言されて、事実上公演が無くなるまで(私が観劇の道に引きずり込んだ)友人と熱に浮かされたように「つか芝居」を観ました。
風間さんの演技は、いつ観てもどんな非現実的な内容であろうと あざとくない芝居です。
それは、リアルな演技というより、ちょっとやりすぎ?の ほんのちょっと手前(紙一重)のポジションに着地(表現)するからと私は思っています。
簡単に言うと(苦笑-初めに言えよ!)どんな非現実的な設定であっても、嘘に見えない表現と云えば的確かもしれません。
優れた作品でも板の上の出来事は、創り物ではあるという感覚が頭の何処かに必ず存在します。彼は、その虚構を嘘に見えない事に出来る稀にみる役者なのです。
子役からスタートして、つかさんの言葉(口立て芝居)を演じ続け、その後も精進なさってきた結果、当然のことと思いますが、あらためてモッチャン(私の演劇仲間での呼び方)の凄さを感じた舞台でした。だから古田さんも…と続くのです。
何にせよ、若い演出家と役者さんが風間さんに触発され、役が粒だった演劇たらんとする舞台になったと言ってよいのではないでしょうか。


このお話自体は、純愛物と呼べると思います。そう、家族と呼ぶものへの過剰な愛がテーマです。
流行のハートウォーミングな世界からは程遠い、目を覆いたくなるシーンの連続。
客席から「きゃ!」と思わずの悲鳴が聞こえた芝居を観たのは初めてでした。あの時、凍りついた劇場内の空気は、観客が長塚圭史の世界に入り込めた、これから始まる全ての衝撃が本当の事として目の前に存在していると思ってしまう瞬間でもありました。
上手く入り込めなかった人には、唯のエロいグロいマニアックな芝居にしか観得なかったと思いますが、私には怒涛のごとく、これが最後ではない衝撃が幾度も眼に飛び込み、やがて麻痺し、滑稽に見え始め、やがて感動、涙が流れました。
感動の源、役名「ワタシ」があっという間に飛び込んだ先は……。感動は、一瞬にして私を突き放し、「ワタシ」と共に去ってゆきます。
あの去り際の鮮やかさは、女性ならば必ず言葉を失うはずです。私が息を呑んだと同時に客席では拍手と笑いが起こりました。置いてきぼりにされた私は複雑な感情が湧きあがりました。

以前にhakapyonさんのブログへ「ロベルト・ズッコ」の感想で
『男とは、胡散臭くて危うくて、身体が強い分脆く何時も牢獄の壁に頭をぶつけている。
非難を承知であえて言うと、生きることと物損暴力犯罪が紙一重の動物だ。』と私は主張し、
「紙一重の局面を絶えず突きつけられているが、その一線を越える越えないが男には重要なことなのだ」と我が夫の反論までもを書き込みましたが、ここに登場するのは、最初から最後までその一線を越えてしまう男たちと、迎え撃つ、おんな・永作博美ただ一人。
永作さんの折れそうな細く健気な若妻美弥子は、やがて男たちが乞うものを一身に受け、恐怖をあじわう。そしてある時から毅然とした女性へ変貌してゆく。

社会で何かが起こっていると同時に隔離された狭小な場所でとんでもない事が起こる現実。
隔離された狭小な場所で何かが起こっていると同時に社会でとんでもない事が起こる現実。

舞台上の彼らも客席の我等も予測だにしていない次の瞬間の現実が暗示され、ビデオカメラだけが知る終演となるのですが…。
いまとあしたの世界に日本に家庭に身体に必要なものとはいったい何でしょう。
それは永作さんが演じきった「母性・愛」と思いたい私です。




2005/7 処・大阪シアタードラマシティ 作演出・長塚圭史
(2007/3/26 配信)



=愛とは何か?=

久しぶりにミュージカルで泣いちゃった。胸にグッときました。
ソンドハイムの曲は、不安定で難しいといわれるものを皆よく歌い演じていらっしゃると思います。
まるで初心者の感想のようなことを書きますが、本当に感心しています。



遥か昔1981年25年前、
大竹しのぶさんの初舞台 民芸公演 武者小路実篤作 宇野重吉演出「息子の結婚」。
山本有三作「嬰児ごろし」と連演を観た。
貧しさゆえに、産まれて直ぐに産んだ母親の手で始末される児 そんな事が日常茶飯事な村の話と、都心の裕福な家庭の婚期を逃しつつある息子が可憐な娘を偏屈な父親に会わせる話。つい数十年前の日本の貧富の姿を描いた舞台である。
映像の世界で、若手ナンバーワンと嘱望されていた女優に、共演した宇野さんが惚れて舞台へ引っ張り出したと記憶している。
共演者は、宇野重吉、奈良岡朋子、大滝秀治、米倉斉加年 各氏であった。
しのぶさんが演じたのは、誠実な青年にプロポーズされた幸せいっぱいの女性役である。
米倉さんが青年役であったのだから時代を感じる。
結婚の許可を得る為、二人の初々しさと心根の優しさで、宇野重吉さん演じる青年の父親 物言わぬ偏屈な作家を懐柔させていく、観ている者もふんわりと幸せな気分にさせる物語である。
舞台での初々しい女優は、役柄と重なってはいたが、その前編として「嬰児ごろし」を(同時代に起こっていた悲惨な話として比較することを狙って)連演された事で、民芸のベテラン俳優さんと比較する事と重なり、発声等キャリアの差が出て、映画育ちを感じざる得なかった。
しかししかしである、時を経て舞台になくてはならない女優さんに成っていかれた。
いつだったか初演の「ミスサイゴン」の最終オーディションに落ちた話を耳にしたことがある。
主役のキム役は処女から急転直下、戦火の中、愛する夫と別れ妊娠出産する役。
もう最初の夫との死別や離婚も経験し、子育て真っ最中のしのぶさんよりも若い女優さん(本田美奈子さん)が選ばれた。
プロデューサーのマッキントッシュもえらく残念がっていたと聞いたとき、しのぶさんは歌えるの?と私は一番に思った がである。
今「スウィニー・トッド」でイチと一緒に演じ、歌っている。

もうここ十何年、彼女の舞台を観る時、堤さんを含め共演者の敗北を感じた。
正直、彼女は ひとり舞台しか活きる道はないと私は思っていた。
今年「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない?」で共演した段田安則さんが読売演劇大賞を受賞されたのは、この怪演女優と渡り合うことが出来た稀なる俳優さんだからだと本気で思っている。
そして市村正親さんとの共演である。彼もまた怨念に支配された男を演じきった。何も見えていない、ただ復讐に取り付かれただけの男に見えた。
私の想いを超え、彼女は相手(男優)が触発される女優に脱皮したのか。
空恐ろしいぃ~~。何処までヘンゲする しのぶさぁ~ん。
で、
久しぶりにイチ(長年のファンであるが故にいつも市村さんをそう呼ぶ)のミュージカルで泣く。
胸にグッときた。
美しい妻を持つ男スウィニー・トッド(市村正親さん)は、街の権力者・検事に横恋慕され、無実の罪で遠島、15年後にロンドンに戻る。
我家に住んでいたのは、昔から知っている女ラヴィット夫人(大竹しのぶさん)であった。
夫人(女)は、男が捕らわれた後の経緯を語る。
権力者に汚された妻(キムラ緑子さん)は薬を煽ったと。

男は名を変え、復讐の機を狙っている矢先、昔を知っている男から恐喝されるに至り、とうとう最初の殺人を犯してしまう。堰を切って、復讐を遂げるため練習と称して第2、第3と無差別殺人を繰り返す男と、その死体処理のため人肉パイの店を営業する女。
過去に囚われたままの男と、共に一線を踏み越え今を生きる女。
そして、クリスチャンでありながら横恋慕した判事もまた、制御できない欲望に対し、神に救いを求める。しかし神から答えが返ろう筈もなく、愛への欲望が人一倍強い迷える子羊であった。
やがて、
トッドと妻の間にもうけた娘もまた判事に結婚を迫られる展開となり、報われない愛に支配される者達は、よりいっそう狂気の世界へと突き進んでゆく。
男女の満たされない心の叫びが、猟奇的な物語を創りやがて破綻する。

共犯となっても、女は男にひとつだけ言わなかったことがあった。
それは妻が生きていること。
男は、男の店に今まさに権力者がやって来ると判り、殺人鬼としての最高潮に気が高まった時に、迷い込んできた狂女に変わり果てた妻を認識することも出来ず、邪魔者扱いして慌しく呆気なく殺してしまう。(ここでは、ヒントらしき動きはあるが、観客も狂女=妻とは明らかにされていない。)そして、連続して現れた権力者も手にかけ、男は思いを遂げたかに見える。

私の中でいろいろな想いが交錯する。
愛とは何か?
誰に向かって発するものなのか。己の心を満たす手段なのか。
誰にも止められない愛は、何処までが受け入れられて、何処から受け入れられないのか。
ねじれていても、真っ直ぐでも、それは客観的な視点であり、本人の心の底からの想いなら純に違いない。しかし、相手が存在してこそであり……、拒絶されたとき純な心は如何なるのか?……
やはり、相手を慮る気持ちが存在しなければ愛とは呼べないのではないか。自己中心的な愛は愛ではない。慮ることが愛なのだ。
トッドも判事も愛しい気持ちは存在しても、相手を慮る気持ちが存在しない。どちらも己の心には忠実ではあるが、手段が間違っている。
共犯のラヴィット夫人は如何か?
妻の生死を明らかにしなかった罪は、トッドの気持ちを慮ってのことか、それともトッドへの愛ゆえか?しのぶさんは、その肝心なところを巧みに確信的に曖昧に演じている。
庶民が生き辛い時代、逞しく前へ進み続ける女は、女の優しさと業が玉虫色にヘンゲする。

彼女が妻の立場であれば、権力者をも味方につけて生きぬいていたであろう。
過去から逃れられない男は、迷い込んできた狂女を妻と認識できたとしても、生涯こころは病み続けるだろう。正気であったしても妻を責め苛むであろう。夫婦は互いに癒されることはない。
……致し方ないが、妻は狂ってよかったと私は思う。
報われぬ心は、復讐という手法で癒されることはない。妻を求めロンドンへ戻った男は、生き地獄である。

人の倫理観は、時代により変わる。今の観客は、どんな顔で観ればよいのだろう。
冷静さを取り戻し、さっき頚動脈を切り裂いた女が、妻であると判った時の男の嘆きを目にした私は、己の顔が歪んでいる事を自覚した。感情の中に、涙では清められない胆汁のような苦汁が覆いつくした。
実際にあったロンドンの話。暗く灰色の空の下、不気味に響く不協音は、時代を気候を表現する。
このミュージカルのカーテンコールは難しい。
舞台の上で役者は、打って変わって明るく愉しげに振舞っているものの、観客はどのような態度をとればBestなのか 迷う。
良かった! 良かっただけに、心が痛み苦い表情の私は、急に笑みを湛え、役者を讃えることは出来なかった。何度も何度も繰り返されるカーテンコールで心のうちが融けるように、やがて純粋に芝居として拍手が贈れるようになりスタンディングオベーションした。

※キムラ緑子さんのブログに載っている写真、市村正親さんのボテバコの上に愛妻の写真が飾ってある理由が今日理解できました。

2007/2 17,18 処・大阪ドラマシティー
作・ヒュー・ホィーラー作詞作曲・スティーヴン・ソンドハイム 演出・宮本亜門
主演・市村正親 大竹しのぶ キムラ緑子 ソニン 城田優 立川三貴 斉藤暁 武田真治
(2007/3/5,3/18 配信)

大阪の板の上は、東京で活躍する関西出身役者の力技発揮公演であった。
特に橋本じゅんさんの上手さが際立つ。こんなにも上手い役者さんだったのかと認識を新たにした。
大衆が笑っている舞台の向こう側で何が起こっているのか。
芸人の「売れること」と「理想の笑い」とのギャップ、才能への真偽、不安、嫉妬、焦燥、残忍さを目の当たりにする。
観客に問えば、いろいろと感想が出てくるだろうが、私には 作者の問題定義と観客の関係が気になった。

観客は、今回ケラさんの企みに試されていると思った。
笑いの中に芸人の性(さが)を感じる舞台は、2度のカーテンコールをした後のスタンディング・オベーションが起った。
その最中、万来の拍手の中、私は劇場を先に出た。
帰る電車の中で、「木を見て森を知らず」と言う言葉が浮かんだ。
一抹の笑いに喜び、全体の重きを知って観客はスタンディングしていたのか。
疑問に残る思い。

面白ければ許される行為、売れていれば許される芸人の世界。
売れている芸人は、鳴かず飛ばずの芸人の嫁をも性の対象に出来る世界を、冒頭から観客に観せつける。
けれど、ヒール役 山内圭壱さん演じる売れっ子芸人・ボンちゃんの其の行為は、最終的には印象が薄くなり、まだ人間の許される行為に思えなくもない錯覚をおこす。
突き詰めれば、芝居が上手ければ、人気があれば少々の行為も許される役者の世界にも通ずる。
少々の行為とは、どの程度のことか?悲惨な飲酒運転事故のニュースが報道されているにも拘らず、隣に誰が乗っていたかがクローズアップされ、飲酒運転をした事実が希薄となり、早期舞台復帰を果たした人気役者のことと言えば、具体的になるのであろうか。
もっと落とし込めば、じゅんさん演じる天然芸人・モッシャンの最後の科白、
『狂っていればたとえ人殺しでも許される』社会(世界)が見えてはこないか。

「労働者M」の冒頭、スライドに映し出された脚本の中身を思い出して欲しい。
観客の反応として書かれていたト書きが、その場にいた観客の反応と寸分違わなかった作者の鋭さを、カーテンコールを望まなかった演出家の気概を知っている今、ブラックユーモアでオブラートして、常軌を逸した日本社会を表す舞台に見えた。
そして、その半透明なオブラートの中身を判断する力を観客に問うている舞台に見えた。
今回、自然体で構えているケラさんは、観客がどういう反応を示すか楽しんでいるように私には感じる。

ロビーから出口に向かう私の背に、舞台から聞こえるじゅんさんの挨拶。
「3公演目にして、初めての大阪スタンディング・オベーションです。ありがとうございます。」

芸人魂の宿る大阪の地だけに、森を感じしずかに演技に対しての賞賛のみで終る方が、似つかわしい舞台ではないかと思うのだが…、
事実存在したであろう才能もなく売れもせず無念に亡くなっていった芸人の悲哀に弔いをあげるように、拍手だけで終ってもよかったのではないか。
いや、大衆の残酷さはケラさんにとっては計算上のこと、想定内だ。
今の日本の大衆は、残酷な笑いを社会へも持ち出し自ら首を絞めている。
大阪の他にも福岡・名古屋公演がある。一度もスタンディングオベーションが起こらなかった地に、ケラさんはきっと注目するはずだと帰宅電車の中で想いに耽る。



2006/9/8 処・大阪シアタードラマシティ
作・福島三郎 潤色&演出・ケラリーノ・サンドロヴィッチ 
出演・堺雅人,橋本じゅん,八嶋智人,山内圭哉,橋本さとし,猪岐英人,水野顕子
(2007/2/24 配信)




=MyBest2006=

NoBody Kills Me ☆ いやぁ凄かった。
わたし………舞台としては「吉原御免状」より好き、TPTルヴォー演出の「マクベス」より好き。
クドカンワールドがきっちりマクベスしていた。クドカンが大人計画の笑いが新感線していた。
立てのりしている自分がいて、大爆笑している私がいて、涙を流す吾がいて、背筋がぞぞっと寒くなる己がいた。実は、観劇した日に謎解き「メタルマクベス」についての興奮のまま「ネタばれ-隠れアイテム」(仔細)を書いた。(苦笑)



=概要=
宮藤官九郎さんの本に対しての解読力・モノに対しての洞察力が当代随一である。
劇作家として秀でたところは、世間で言われるように多々ある事を知っていながら、あえて書く。
彼は「記者会見でマクベスは読んだことが無い、これから読む」と言っていたが、それがジョークではなく真実なら、紗翁四大悲劇の一つを現代にも通じる素晴らしい作品とした。
もう1幕の前半で「ロンドンで演ったらイイのに」って思ったら、プログラムで松岡和子さん(翻訳家)が書いていた。(てへっ)
「どのシーンの科白」も別に含む意味に気づけば劇作の比喩の上手さに感心し、気づかなくても大いに笑える。多重の魅力。紗翁を熟知している人も、紗翁が誰を指すのか知らない人も楽しめる作品。

蜷川幸雄演出は、老婆に仏壇の扉を開かせて過去の話とした。デヴィット・ルヴォー演出は病院を舞台にして夢想に扱った。
本公演は、本来の科白が意味することを歌詞や笑いの中に潜ませ、笑いながら背筋が寒くなる科白を感じる。それは現代であり、未来をも示唆する。そして、主題、根底に流れるものは変わらずに残すことで、世界中で持て囃される根源を明かしている。

蜷川さんは、海外を知り日本を闘争を意識し創りあげてゆく。イギリスの王侯の覇業を日本民族の逸話としながら、幾重にも其々観客が感じる時代の争いの空しさとして描いている。仏壇の脇に座る老婆は、中でどんな殺戮が行われようと、懐から出した握り飯(饅頭だったかもしれない)を食している。

ルヴォーさんは、上手に暗い城内を配し、下手に白タイルを張りめぐらした古い手術室を思わせる部屋と、下手袖に病室が在るように思わせる美術で精神病院での患者の頭の中を具現化しているように感じた。照明を極力控えた暗い城内で交わされる会話は、現実・表面的な部分ばかりで、やがて闇で全て覆い隠そうとする意図が示唆されている。
マクベスや夫人が、己の罪を思い悩むとき、病院の白いタイルが活きてくる。群雄が其々の仇を取るとき、その惨たらしさよりも白場は正当性をアピールする。

どちらも現実の世界とは言い難い話に仕立てている。だが、イギリスも日本も400年前には現実に起こりうる世界。いや、この二人も当然それを理解し、己の作風として上記の世界で展開した。
他の作品も、女優であったり仮面をつけたり手を掛けている作品が増えていく中、宮藤さんの脚本は、まっさらな状態で今の日本の行きつつある方向にピタリとはめ込んだことで、この人らしい笑いも含め、上手い!と唸るしかなかった。

「鈍獣」(これで宮藤さんは岸田戯曲賞を獲得)の時、嫌な空気を背負ったまま帰宅した数日後、芝居とよく似た内容のニュースがTVで流れた。今回も楽の翌朝、オーバーラップするニュースが流れた。野田秀樹さんは公演前に事件が起こるが、宮藤さんは公演後に事件が起こる。今も世界中に魔女がマクベス男がいて、黴臭い学問ではなくなり、劇団☆新感線の舞台にきっちりなっているのである。

2つの世界を行き来するお話(この表現 書いた覚えが…流行なのね)、急に違う世界が交錯するのに、セットも変わらず科白で理解できる。
魔女の囁き1981年(225年前)のCDを2206年の脳内チップにダウンロード、聞き過ぎて洗脳され(バーチャルゲームをやり過ぎて)、その気になって殺人を犯すこともマクベスのお話に沿っていながら2006年の今にアレンジする着眼点。
究極は、魔女が冒頭に言った悪の申し子の意味が、最後に幾重にもなっていることに気づいたとき、今更ながらあなた(クドカン)は凄いと思った。ベタ褒めである。
きっと私の知らない剥がせなかった層を感じたひともいるはずだ。早く書物化されないだろうか、私の気がつかない部分も読み解きたい。

=仔細=
1回しか観ていないので(普通はそうだよ)、ヘビメタっていたので、今となっては細かいことまでは覚えていないが…
歌詞もスクリーンに出してくれてTVのよう、しかも本来の訳本の科白も甦ってくる。映像は、書割の新劇を観てきた者としては、凄いとしか言いようがないが、コンサートへよく行く人にはどう映ったのだろうか?

激戦ののち暗夜帰路に現れ出たる荒野の魔女3人を「尋常じゃない精神状態の武将の夢」、「草木も眠る丑三つ時の誑かし」、「八百比丘尼のような時間を超越した人の予言」、男、女、老若、仮面、人形 etc. どう仕立てるかでマクベスの世界観が決まる。

Devil林を登場させ、魔女はマクベスは現代にも、そして未来にもいるとした。
右近健一さん演じる林さんは、冒頭の科白で「昔マネージャーをやっていた」と言い、話の流れでコラーゲンの泉から戻ったら松たか子さんに代わった。何より終盤には、しっぽが生えたローズ(松)が鍋の周りでいつの間にか林さん(右近)に代わっている。
『マクベス夫人=ランダムスター夫人=松たか子=ローズ(ロッカー・マクベス内野のマネージャー)=鍋の周りで摩り替った右近健一=カレーに何かを入れる近所のおばちゃん=Devil林=ランダムスター将軍(内野聖陽さん)に予言する女=マクベスの魔女』なのだ。
1606(原作年)-1981(ロッカー・マクベスの話)-2006(観客の時代)-2206(ランダムスター将軍のいる時代)の間を魔女、ローズ、Devil林は、名を変え姿を変え生きている。
「魔女=現代にも存在≒市井の女たち(の中に居る)」と上記と繋がる図式が構築されている。
昨今の事件に加害者が、避けられなかった逢魔ヶ時を感じるのは私だけだろうか。
魔女たちはいつでも何処にでもいる。ある時は微笑み、ある時は高笑いをしながら人々のプライドを切り裂き、狂おしい破滅の道へといざなう。
冒頭の笑いは、右近さんのコミック本のような役柄のキャラクターと合わさって、ギャグとして笑えるが、こうした暗号・パズルと意識すれば意味深である。
私が観劇中に上述以外にイメージが膨らんだ部分、これを深読みと云えなくもないが、至極当然なことで、隠しアイテムにならないかもしれない。

ランダムスター(マクベス)夫人が常持するキャラメルの小道具使いは、ばかップルが「あ~ん」と口を開き互いに与えあったり、狂い始めた夫人が自らの口に入れ「あま~い」と喜ぶことで、考えの幼い大甘夫婦が表現されている。(誰かのギャグでもある。)
ランダムスター将軍(愛称ランディ)が「俺は愛妻家♪」と歌うは(一路さんとの結婚のこと)勿論笑えるけれど、世間に対して照れずに公言すること、夫人が城のインテリアや王や将軍のイメージを口にすること、外見を気にしているところからディンクスっぽい。
やがて刹那主義でプライドばかりが高い精神的に脆い若夫婦が、周りの人々を震撼させた事件を起こしたと見えてくる。
夫を唆して、事を起こした後悔の夫人の科白「小さい方にしとけばよかった」は、心に響き私は涙した。その放心した松たか子さんの表情が今も脳裏に残っている。
小さい方=小さなツヅラ=舌切り雀のお婆さんを連想した。
その後の夫婦のデュエット曲
殺意のタマネギと歌う夫人
=剥いても剥いても殺意・殺意=足るを知らない女=物欲の強い女
失意のタマネギと歌う夫
=剥いても剥いても魂はない=虚しさを知った男=精神の柔な男 
まさしく舌きり雀の老夫婦だ、思いは逆送する。
強欲な婆さんは、最初から雀の舌を切る娘ではなかったはずだ、結婚後の環境が為せる仕業だ。男を責めるのはフェアーではないが、どちらか先に飲み潰れたら、残されたひとりは、担いで帰らねばならぬ、力を温存せねばならない。
「唆す女、後悔する男」・「松は右近、右近は松」・「マクベスは魔女、魔女はマクベス」「キレイは汚い、汚いはキレイ」全て表裏一体だ。

ランダムスターでネットサーフしていたら「ランディ・ローズ」って言葉を見つけた。
「ガンズ命(ヘビメタロックグループ)」の知人に聞いたらランディ・ローズはロッカー名だと教えてくれた。「知っている者だけが解ればいい」か。ランディと云えばローズなのだ。みんな役名が楽器のメーカー名なのに一人ローズって疑問は一応の解決を得た。


ラストへひた走る、バーナムの森が動いた(鯨が陸を走るだったかなぁ)と聞いて、林さんから奪ったmikimouseのトレーナーを鎧として着るランダムスター将軍。
miki ●ouse=女性が着る=林●須●は一目瞭然
mi●ke● mouse=東京●ィズ●ーラン●=金●男=核弾頭が何処かに装備=将軍が自暴自棄になれば起こるであろうこと事。

ジグソウパズルのピースが次第に納まる処に納まってゆく。右近さんが冒頭に言った悪の申し子の意味が最後に幾重にもなってくる。チラチラと見え隠れはしていたが気がつかなかったことが、最後のピースが脳内でパチリと納まり、唸ることしきり。

もし、そんな数々の隠しアイテム?に気がつかなくても、内野、松の「ばかップル」の熱演ぶりや、ウッチーが赤いトレイナーを着て、新感線の舞台で文学座してる台詞回しに充分笑えるようになっている。
難を言うとしたら(満足なわりには言ってしまう)
1つは、マクベスに殺される王-上條恒彦さんにもっと歌って欲しかった。あのメンバーでは一番上手い。
2つめは、殺陣。初日はともかく同じ楽前の質はやはり「吉原御免状」に軍配があがる。新感線組は流石だけれど、新規参入の方々はちょっと懐に入っていないのが見えて興ざめか。

けれど、そんなことに拘らない気持ちに至る それ程に「おもしろかった」に尽きる。
entertainmentだ。
最近の「キモカワ」や「カワブス」のように表現するなら「オモクラ」である。
やられたぁ~~である。


最後に、
長年の内野ファン30代女性と今回一緒に観た。世間で非難されている体型も、この芝居には必然であったと考えるし、充分シャウトしていると私は思うのだけれど、彼女は帰りの電車の中で役者として役への厳しい不満を語る。
これって…今、感想を書きながら気付く、私の堤舞台と同じ?ファンってだんだん厳しい眼で観てしまいがちなのかしら?満足できなくなるのかしら?ちょっと反省した。



2006/6 劇団☆新感線公演 処・大阪厚生年金会館大ホール
作・ウィリアム・シェイクスピア 翻訳・松岡和子
潤色・宮藤官九郎 演出・いのうえひでのり 主演・内野聖陽
(2007/2/2 配信)


=超リアル日本語劇を観て私の演劇とは何かを問い直す=

舞台の「演劇」とはなにか、映像ではないものとは何か。全ては「気」であることには違いない。
ただ、発する側と受け側の波長が合わないと最悪極まりないものである。波長があってもおなじ物が二度とは見られない。役者から発せられる音声だけで得られるものは少なすぎる。
現実に起っているもの、荒唐無稽なもの、目の前で繰り広げられる舞台の上に別の何かが見え感じる。それに尽きる。

ジブリ宮崎作品「もののけ姫」を見たとき、映像はアニメに負けたと感じた。実写で出来ぬことがこの世界では出来ると感じた。「マトリックス」を見たとき、ああアニメにVFXが追い着いたと感じた。アニメとVFXが仲良く手を結ぶように、いつか実写の空気感と無機質なCGは相容れるのかもしれない。
実演はどうか。舞台はどうか。未だ其々の耳目肌感が頼りである。

視覚として、「くそリアル」は演劇に必要なのか。
あえて美しい表現、あえて汚れた表現に演劇的価値があるのか。
今回観た「超リアル日本語劇」は、科白と表現に相反するものを感じた。




新劇と呼ばれた思想劇の書割を嘲笑してきた私が、今リアルな背景・道具に批判的なのは、私もまた古き良き時代を懐かしむ感覚か。
歌舞伎の様式や遠見に昔の観客は、知的センスで脳中に世界を広げてゆく。
具体的な視覚は、どれだけ観者を過保護な状態にするのか。
バーチャルとして目に映る表現は、目にも惨たらしいリアルでなくとも現代人の脳でエッセンスとして具体化されないのか。
なにか行き着いた感を持ち、様式に囚われることなく想像力を刺激する表現を求める私がいる。

追い討ちをかけるように、「タンゴ・冬の終わりに」のパンフレットの中の蜷川さんのインタビューで、イギリス版に主演した俳優の言葉に触発された観念についての記述にかたまる。
『ブランコが出てくるシーン
アランリックマンは「どうしても前を向けというなら向くけど、後ろに人がいるんなら後ろに行きたい」と-(中略)-様式の占める割合が大きいんだろうね、日本の演劇は。そのことになんの疑問もないわけだ。そうすると、我々が思っているリアルってこと自体も様式の範疇なのかということを、したたかに知らされました。』
日本人が思うリアルは、日本の様式。
私が頭でイメージ出来るリアル感は、日本人固有のものであるというのか。
では、惨たらしい具現化した表現は、クローバルな表現なのか。私は己の目を疑いだす。

聴覚として
整然とした科白は、漫然と一定のリズムで耳から脳に流れ込む。
独白か客観視を語るのか、逡巡する混濁した科白に耳は拒絶反応を示す。
役者の真の声が聞こえだした時、初めて潜む意味を抽出しようと脳は活性する。
演じ手も観客も神経が休まる時がない。
ただ、其処に座って音声化した科白を漫然と鑑賞するだけでは、観者は存在しないのも同じとなる。
緊迫した空気の中、演者・観者で取り込み発酵発散する其処に演劇が生じると考える。

整然とした科白と無駄を削ぎ落とした科白は、似て非なるものである。
無駄を削ぎ落とした歌舞伎の科白に昔の観客は、基礎知識を持って聞き入り、演者の複雑な心の襞を感じ取り琴線を揺らす。
混濁した科白は、互いに頭の中で必要なエッセンスのみ残り、精髄は先の身悶えする身体の動きと逢い見え、真の意味を身体の芯で感じるのである。
真逆であるはずの様式的な科白と、混濁する科白が同等となる瞬間である。
理路整然とした科白は、その意味リアリティから遥か彼方へ吹っ飛んでしまう。

演劇は娯楽である。
TVの電源ボタンを押すような、何でもアリの過保護な演劇がもて囃せる昨今、想像と混濁した科白を並び替えて、吸収発酵しなければ理解不能な世界が出現した。
ただそれさえも、日本固有の様式の範疇なのだろうかと想いに囚われる。



挑むと表現したい今回の舞台。
わぉ~~~って感じぃ?
今回は涙までは到らなかったけれど(BS放送の「目的地」で涙)、とても興奮した。
男女の心の内が時空を飛び越え、家族となった今も埋められないまま沈滞し、時折噴出する想いと言葉。
ひと言で言えば「話を聴かない男・地図を読めない女」の悪循環の終焉を描いているが、話の筋というよりも表現方法に感慨。

京都芸術センター全体の企画展「抽象」。京都書下ろし1時間の芝居。100人程で観た芝居。
靴袋を持って客席に入るなんて何年ぶり、膝を抱えながら観る舞台なんて本当に久しぶり。

テーマ「抽象」をモチーフにしたパフォーマンスというほうが適切かもしれない。
以前のインタビューで「何故このような科白を書くようになったか?」の質問に対して、「会社の会議や講演の口述筆記のアルバイトでカセットテープから繰り出される発言が、決して理路整然としているわけでなく、かなり例え話や無駄な話も言い直しもある事に気がついた。
演劇もリアリティを追求すれば、こうなるのではないかという考えの元、俳優と試行錯誤していくうちに、動きについても言葉に裏打ちされたとは到底考えられない動きで、重要な会話が進められている現実が見えてきて、現状のような表現方法となった。」と語っている。

明治から残る旧小学校のこじんまりした講堂内(京都芸術センター)の、テーマ「抽象」を題材とした平屋の一軒家の間取りだけが存在する高さ30センチ程の美術作品の上で、いま表に出てコンビニの前に屯する若者に話しかけたときと同様な抑揚少なくダラダラとした話振りと、手足が絶えず所在無く動く姿で、演じ進められる演劇を観た。


終演後、舞台となった美術作品の創作者との対談も聴いた。
作・演出の岡田利規さんの考える抽象とはイメージゲーム。
イメージの太いパイプが出来れば(身体の動き等で演者と観者間で伝わると感じたら)、耳と目と肌(気)の重複感をなくす作業を繰り返す。
具体的に言えば、稽古中に役者が発するエネルギーで伝えられると感じた部分の科白を省く、役柄が言いたい主旨を強調するため語句も順不同で表現したとのこと。

観客からため息が出た。『なら、我が理解不能であっても仕方ない』とでもいう空気が漂う。



道端ですれ違う男女。
顔見知りの二人は、道でバッタリと出くわし挨拶を交わす。
「…近くだったんだぁ……」(…互いに長い沈黙…)
女は驚きから うっすら恥じらいの表情へと移り
「この…近く…なの…………来・ない?…」女は男を自宅へ誘う。
前からこの妙齢が、若者を好きだったかは判別がつかない。
しかし、男にはこの言葉は意外だったことは、ぎこちない動きで読み取れる。
暫し互いに見つめあい、誘った女は舞台奥の部屋へ移動し、誘われた男は誘われたその場にしゃがみこむ。

奥の部屋へ行った女は、言葉少なめではあるが、小声から次第に激しく吐き捨てるように夫への不満を口する。

その部屋で、待機していた先ほどの男とは違う年配風のメイクをしたダサい風情の夫は、「物心共に何の不自由も掛けていない」と、妻の言葉が理解できない風情で、朴訥に嘆きながら居た堪らずか舞台前方の部屋へ微移動してくる。

その態度に、妻は奥の部屋から憎悪の気を浴びせる。

社会では一人前の男であっても、妻の言葉が理解できない、デリカシィーのない夫が焙り出される。夫の口からは、どこかで聞いたような理想だけ、何一つ妻への労わりのない言葉と行動に一方通行は否めない。
やがて、妻は途方もない絶望感を全身に漂わせ、舞台から離れた隅の階段に一人座り込み剥製と化す。

当初しゃがみこんでいた男が立ち上がり語りだす。自身が育った絵に描いたような家庭環境を語りだす。
ここで初めて、誘われたこの男が夫となった男であり、しゃがんだ時点で、この夫婦の子に転じたことを私は理解する。

女が最初に誘った時の容姿と不満を語った時の夫の容姿の変貌が、夫の妻に対しての気持ちの緩みと理解する。

中年夫婦の妻の不満は、大半の夫には抽象音だ。
耳に音声は入ってくるが何処を如何理解すればよいのか、皆目理解不能な旋律(言葉)に聞こえるであろう。
男と女の到底理解できない深層は、自ら生み育てた息子さえも無理なのか。それは彼もまた男であるからと言いたげである。
夫が世間に理解される正当化された言葉でアピールしても、長年鬱積した妻の絶望は取り除けないまま唐突に終演する。


多分「目的地」「三月の5日間」よりも、もっとバラバラとなった科白と、役者の動きと発する「気」を己に取り込み理解しようと集中しなければならない舞台であった。
過多な表現をする私にとって、想像力を屈しなければならない舞台であった。
これは、観劇して沁みていくというよりも産む苦しみの様に似ている。
与えられるだけでなく、自ら触発され生み出す力が必要である。
どちらを好むか選択となろうが、現代演劇を消耗する日本の観客には、この苦しみは必要ではないだろうか。

演劇だぁ 映像では無理だぁ 脚本だけでは無理だぁ。(嬉笑)

隣に座っていた男性が「如何感じられていますか?」と私に質問してきました。
私「テーマが抽象ということですが、科白の欠損(伝えなければ判りあえない事)、省略(伝えなくても互いに判りあえる事)を如何区別するのか、いま頭でバックアップ中です。
家族の会話ってかなりこの欠損省略が多いじゃないですか。言わなければ為らない言葉を言えなかったり、敢えて言わなかったり、言わなくていい言葉を言ってしまったり、敢えて言ったり、其れとこの芝居のテーマ抽象との差異を感じたら、問題点が浮き彫りになるのではないかと今思っています。」
聞き手は「なるほど」と言ったきりでした。
…私も返しに聞けば良かったのですが、そこまで気が廻りませんでした。

その後、何処を巡っても男性評の「???」しかなかった劇評…。
嗚呼、「男性に、この劇の深層部分を理解して欲しいけれど、判るかなぁ~」とでも言っておけばよかったか。
やはり現実も「話を聴かない男・地図を読めない女」である。



美術鑑賞から漠然と感じる抽象とは…文字にすると難しいが、
具象と異なるもの、
認識行為の差異、
形態と類似性の差異の象徴。
Level(水準)とlabel(評価)といえば、何か見えてこないか。





「Freeing the Mind、抽象再訪」演劇公演 「体と関係のない時間」 2006/9/24 マチネ
処・京都芸術センター 作演出・岡田利規  出演・演劇ユニット チェルフィッチュ
(2007/1/12 配信)

大阪でオレステス(作エウリピデス)を観た。
結論、彼は陽の光に背を向け、雨の中を突き進んでいた。
母クリュタイメストラは、夫でありエレクトラとオレステスの父であるアガメムノンが、母の妹(ヘレナ)の所為で勃発したトロイア戦争へ従軍中に出来た愛人と共に、帰還した夫を暗殺した。
時は経ち、成長した弟は神アポロンのお告げ(母親殺しの示唆)を聞き、姉に励まされ母を討つ。
不倫の果ての夫殺しは家庭の問題だが、その復讐として実の母に手をかける行為は死刑に値するとアテネの市民は判決を下し、実行犯のオレステスは死を待つばかり、エウリピデスの物語はそこから始まる。

まずは、賛否両論ある「雨」。
上演中舞台上に絶えず豪雨が降り観客も戦う。
劇場内に風が吹き、冷気が流れ、科白は時折雨音で途切れ、目と耳と皮膚の感覚を直接刺激する。
ここで休憩という節目があるにもかかわらず、ぶっ通しの2時間半は観客にも強いるものがある。
私は、スタッフ 役者 観客 全てが引き締まった、一体感のある演劇になったのではないかと満足した。


突き進んだ 藤原竜也さんの演技は最後に記するとして、
一番に取り上げたいのは中嶋朋子さん(オレステスの姉-エレクトラ役)。
いま彼女に かなりやられている。

始まって間もなくの弟との会話で、いきなり私は泣いてしまった。
母のように恋人のように愛する弟を抱きかかえ嘆く姉の姿は、「~将門」を越えていたのだ。
遥か昔、1996年tptルボー演出で観たソポクレス作「エレクトラ」は、激しい気性の姉とそれに引きずられる弟という印象が残った。
2時間、ずっと涙を流し続ける佐藤オリエさん演ずるエレクトラに女優の根性を感じた。
今回もそのイメージで臨んだが、見事に裏切られた。
激しく弟の尻を叩き、母殺しを遂行したというよりも、神アポロンのお告げ(母親殺しの示唆)を聞いた弟の背を押した姉は、世論の非難から死刑から逃れられず、一族から見放され館に入れてもらえず、狂人と化した弟と共に豪雨の中、絶望の淵に佇む。
オレステスを見る眼差しは、愛そのもの。
彼女が持つ深い愛が、「母の不倫」を「母の夫殺し」を許せなかったのだと納得できたのです。

次に、北村有起哉さん(オレステスの友人-ピュラデス役)の声にやられた。
私の席が通路側であったから感じられたことであるが、雨の所為で湿った空気で充満している客席内を、後ろ通路から舞台へ走りこんできた彼のメンソールの香りと共に乾いた風が吹き込み、劇場内が生き返える。
これはライブでしか味わえぬ空気。
コロスも含め、皆が雨音に負けまいと叫ぶ科白の中、北村さんの安定した豊かな声に安らぎを感じ、彼がカッコ良ければイイほど、藤原オレステスの惨めさが際立つ構図が鮮明に成り立つ。

藤原竜也さん(狂った弟-オレステス)は、上半身の裸体で狂い暴れ周り、肘を擦りむき流血し、雨と共にリアルな血の色で腕を染めていた。
助かりたい一心で人々に縋る痛々しかった姿は、権力に対してひ弱な一若者。

生きる望の策をピュラデス(北村)とエレクトラ(中嶋)から提案されてから彼の様子が変わる。
造反-凛々しく次第に変貌する若者の顔に私は瞠目する。

その策とは、孫の罪ばかりを責め立て、娘(姉弟の母親)の罪には目を向けようとしない祖父や、むかし父(母に殺された父-アガメムノン)から恩義をかけられたにも拘らず、救いの手を差し伸べない叔父への見せしめとして、民衆に評判の悪いヘレネ(トロイヤ戦争の原因を作った祖父の娘であり、叔父の妻であり、姉弟の叔母)を殺し、その娘(ヘルミオネ-姉弟にとってイトコ)を人質にとって立て籠もるというもの。

変貌した若者たちが実行に移そうと動き出し、何もかもが ひっちゃかめっちゃかとなった時、唐突に神アポロンが天よりの神託で「チャンチャン」とあっけなく終る。

ギリシャ劇のお決まりと何処を見ても説明が付いてまわるが、やはり神の声は唐突。

鶴の一声で、ヘレネは神となり天上へ、一族殺しの連鎖は止まり、姉弟は死刑を免れる。
ここに納得できない観客が大勢いたと思うが、善悪はともかく神の声を聞いたといって事件を起す輩も過去に大勢いたのだから、皆の心の中で聞こえる声と思いかえれば、私は腑に落すことが出来た。
考え直せば劇であるのだから観者に聞こえなければならない条件が必須。


ラスト蜷川さんは、アメリカ、イスラエル、パレスチナ、レバノンの国歌の日本語訳をビラとして2階から客席中に撒き散らした。
すべて歌詞は「我同胞の為に戦い、報復する」とある。

ギリシャの家庭内抗争も「連鎖と絆」の問題であり、
神の声では終止がつかない現実が今も綿々と続いていると、
刺激的に観客に実感させる意図らしいが、私にはこの部分は説明過多と考える。

観客がそれぞれ、神託で終演する矛盾を感じることのほうが、よりレベルの高い演劇になったのではないかと思う。
そこに観客が考えるという作業を残した方が、良かったのではないか。
パンフレットの蜷川さんの言葉どおり「すべての答えは戯曲に中にあるのだ」と私もおもうからである。



オレステス 2006/10 処・シアターBRAVA!
作・エウリピデス 演出・蜷川幸雄 主演・藤原竜也
(2007/1/3 配信)




2006 年7月TV「僕らの音楽」に松尾スズキさんが出演していた。
くるり(音楽グループ・京都出身)のリーダーとの対談。
少し驚いた。
登場からの立ち振る舞いが自然に大人だ普通だった。
普通ってなにさ?(苦笑)
私にとっては、存在自体が不思議と可笑しく、味のある人だと思っていた。
そりゃ脚本書いたり、演出したりしているのだから、大人であることは当たり前の当たり前で、あらためて言うと、松尾さんに大変失礼な物言いになってしまう。
あれは板の上の、映像の中の演技なんだと判る。(この反応コドモです)
対談の中で、「笑われるのではなく笑わす」ことが大事だと小学生の時に気がついたと話していた。堤真一さんが「笑い」に今拘っている何かのインタビューが浮んだ。




労働者M。
堤さんは観客に笑われるように一生懸命演じている。(特に牧田君)
松尾さんの自然に触発される笑いは、演技とは言い難いが演じているのである。
「笑わす」から相手(観客)が自然と「笑える」へ。
一歩も二歩も前を行っている。自覚が小学生からだもん。キャリアが違う。納得!

私はケラリーノ・サンドロヴィッチさんの芝居が苦手である。気になる役者さんを目当てに観劇をすると私にはかなりキテレツに見えて意気消沈する。
しかし、「せりふの時代」の連載を読んでかなり苦手度が和らいだ。

「笑いにおける演出の復権」
自身が笑いと感じる台本は一般的に可笑しいものなのかという「世間一般」とのズレへの疑い、演出「台詞の立て方」について、喜劇役者は理屈ではなく鍛えられた感覚で自己演出しているエピソードがいくらも存在すること。
笑いとは大爆笑だけが笑いではない、ニヤニヤもクックックもウッシッシも笑いであり、どんな笑い方であろうと笑いで満たされた劇場はアリだという。それが真に豊かな笑いの文化だという。
その為に観客からとる笑いは大きければ大きいほどよいと考える 笑いに慣れていない役者に「そうじゃないんだよ」とやさしく説得、納得し不安を払拭するコントロール能力のある演出家と、その演出家に不安を抱かせない台本を書く作家が必要であると書いている。
そして、時間はかかるであろうが…という但し書きをつけて「観客の育成」も必要事項としている。その為には理想的なモノを観客に見せ続けることだと締め括っている。
ここにケラさんの理想とする笑いは、脚本家、演出家、役者、観客の4者が創る総合芸術を目指していることを知る。観客は決して受動ではない、創作の一部を担っている。

そして私は2006年2月に彼 (彼とはどっちだ!) の喜劇を観に行った。


理由は後述しているが、いま私は労MのDVDを乍見をする、いや乍聞きをする。
否、ながら聞きが出来るDVDである。家事をしながら音を流している。

さて、タイトルロールの次の場面
「だから何て言うんだろう、一言に善意といってもさ、違うわけじゃない人それぞれさ」
「それそれそうなんだよさ」…「解り方が違うんだよ」「解り方?」「まあイイけど…」…
ウナギの骨でハタと手が止まる。
突然の「ハッハッハッ」
「なんだよ」「まだ取れないの?」「ウナギ」「えっ!」「昨夜から喉に刺さってんだって」
「ウナギがぁ~?」「ウナギは刺さんねぇよ、森さんよく考えろ」
「ウナギは刺さんねぇよ、柔らけいもの後でけいもの」「ああ骨だろウナギの」
「何してやったりみたいな、今解ったんでしょ!」「今じゃないよ」
日常生活で意に添わない人と言葉を省略しても会話が成立する場合がある。これも共通事項、日常の欠損のひとつと気がつく。

描かれる二つの世界で小泉今日子さんと犬山イヌコさんは、リーダーに心酔する女と其れを逆撫でする女を立場を替えて演じている。表裏一体、ダブル主演女優だったんだぁ。
じゃぁダブル主演男優の役柄の関係は?
どちらも他力で人を死に至らしめた陰湿な男と現状に疑問を感じながらも対応できず逃避する男。
ひとりは志を持って、もうひとりは己に勝てない精神の持ち主。
自身のコスモポリタンな思想と現状の落差に鬱積を抱える松尾さん演じるランプは、独立した役柄であるけれど、もう一方の世界の病的な黛さんに通じる何かを感じる。

しかし、ゼリグと牧田に同人物が演じる表裏の存在を感じるだろうか。
そこにいろいろな役を演じ分けられる役者堤真一の枷を感じる。

ゼリグも動物園襲撃で象に踏まれた小学生を死に至らしめているグループのリーダー。
見方によっては陰湿だ。ひとつの思想も他人に無理やり介入し始めたなら病的な精神状態だ。人々に支持されて初めて志と云える。
収容所で誰からもシンパシーを感じてもらえないゼリグ。
思考の行き違いで死んでいった父を持ちながら、異意思を持つ同胞を手に掛けたゼリグと別世界の牧田君に我等は何を感じるのか。
松尾さんに感じる2役の関係性を堤さんの2役に感じることが出来るだろうか。
ハダハダ感アリ。存在を消せる役者は別者を演じ分けた。

馴染むケラファミリーと小学生で笑いに目覚めたもう一人の主演者(松尾スズキ)の中で、浮遊するゼリグと牧田と堤。
耳だけの喜劇にすると、結構ゼリグくんは牧田君は堤クンは、ケラさんに攻められています。
ゼリグは、蜷川さんであり将門であり そこで息衝く堤を攻める。
牧田くんは、(「~将門」のメイキングDVDで俳優陣が評する)精神年齢小1の彼を攻める。
小1の西宮のボクちゃんを東京育ちのケラさんは攻める。
本人(堤)は同じ処で演じている(生きている)のかもしれないが、「タンゴ~」と「労M」を観ると「タンゴ~」を指してしまう私、役者としてキツイ役柄を支持してしまう私が居る。
タンゴ~を知った今、労Mに拘るワタシに私は納得する。

まだ半ドンだった土曜日、小学校から帰宅TV「よしもと新喜劇」を昼過ぎに見る習慣は、関西の児童の正統な姿だった。初めはTVの前に正座ではない。
「ほんわかほんわか・ほんわかほんわか・ほんわかほんわか・わかかか~♪」とトランペットの曲が流れれば今も血が騒ぐが、当時はおやつを食べながら、宿題をしながら、etc. 「ながら見」である。
その「ながら見」からTVに引き付けられるのである。
ナンセンスな芝居、脈絡のないギャグもこっけいな動きも絶妙な間も、微妙な笑いから腹が捩れんばかりの笑いまで我等ガキ共には娯楽そのものであった。
関西育ちの暗黙の共通事項、少年少女が「笑い」を求めるときの下地はすべて此処にある。幼児の頃からDNAに組み込まれていく。「よしもとへ行け!」は「お前はオモロイ」という讃辞だった。(今もかなぁ)

昨夏CALPIS FROZEN TYPE を見つけた。
うたい文句は「凍らせるおいしいカルピス」。
いろんな濃さが体験できる お気に入りの濃さで一気に飲めるタイプとみた。
日本人ならば暗黙の共通事項として日常の欠損に出来たことを、世代が違えば敢て口にしなければならないこの時代、「俺はこれだ!」より「お好きな味で楽しんでぇ」の芝居が増えてきた。

まさしくFROZEN TYPE。

タンゴ同様、「俺はコレだ!」という「真ちゃん喜劇」がいつか観られるのだろうか。映像という形で一歩先に、「堤はオモロイ」は生まれるのだろうか。
舞台は、防戦一方だが……。
関西の「コドモ大人」は目が肥えてるからなぁ、あんさんのアタフタ感 見抜kyueeee!!!
舞台はハードル高いよ 堤さん!





労働者M 2006/2/10ソワレ、2/11ソワレ、2/12マチネ 処 渋谷・シアターコクーン
フジテレビ僕らの音楽 #116 2006/7/21 放送 くるり×松尾スズキ
戯曲雑誌 せりふの時代 2005/vol.37 秋号 (小学館発行) 掲載
ケラリーノ・サンドロヴィッチ作 「労働者M」
ケラリーノ・サンドロヴィッチ著 第11回「センス・オブ・ナンセンス 笑いにおける“演出”の復権」より。
(2006/12/27 配信)

「捕まったから死ぬのではないわ。」

「わかっている!」

このチバテツ(千葉哲也)さんの強い言葉に
男がこの女にどれだけの愛情を抱いていたか心に響く。




緑川夫人(実は女賊・黒蜥蜴)の香水の匂い
湾曲した背と足を引きずるボイラーマン松吉(実は探偵・明智)が持つランタンの油の臭い
ここには耳目だけでない臭覚と皮膚を襲う演劇がある。
妙齢が登場すれば爽やかな果実の香りがする。
地を這う者が舞台に立てば黴臭ささが漂う。

想いは募り いっぱい書きたいことはあるのです。
けれど過去を振り返り語ったところで 懐かしむ芝居ばかりになってしまう。

改めてDAVID LEVEAUXと麻実れいの舞台を観て思ったこと
それは演劇を魅せられる私にとって
この時代に生まれて良かったことの一つにtptの存在があるということ。



無限の可能性を秘めた日本人形・(早苗)令嬢でさえも
垢抜けない見合相手を非難し
自由を求め眉目秀麗な青年(黒蜥蜴の忠実な奴隷-雨宮)に見惚れる。
けれどその男が自身にそぐわない男と判明すればスルリとかわし
親鳥の懐に戻り許婚たるものを受け入れる。

黒蜥蜴にゾッコンだった雨宮も
明智が用意した贋早苗と男女の剥製にされるために投檻され
一時のふれあいだけで贋物の恋人から本物の恋を始めてしまう始末。

そんな軽薄な若者たちに比べ
審美眼を持つ宿敵二人の本物の報われぬ愛が終焉する物語はセツナイ。
けれど湿った涙はない、代わりに悲しい美がそこにあるだけ。

御髪が夜会巻の緑川夫人
身体のラインに添うドレスも華奢な指にまとわりつく豪奢な指輪も
総てこだわりの美学であり蜥蜴の皮膚の一部と為す。
ベットにソファーに
床に置いたクッションにしな垂れる姿態は
冷徹(低温)な蜥蜴そのもの、熱き血流るるオンナそのもの。


黒蜥蜴自慢のコレクション生人形に仕立てるため
岩瀬家の珠玉の宝石(早苗-実は明智が仕立てた贋早苗)を誘拐したのち豪華持船で逃走。
その最中、
誘拐に利用した 人ひとりが入れるトリックした長椅子に明智を閉じ込め
紐を掛けながら、恋の告白をし、その長椅子に接吻を繰り返す黒蜥蜴。

「あなたがこれ以上生きていたら、私が私でなくなるのが怖いの。
そのためにあなたを殺すの。…好きだから殺すの。好きだから…。」

そして甲板から水葬禮と称し長椅子は海の中へ
苛立ちと悲しみ 大人の恋は複雑で厄介。

その後
名探偵明智小五郎は、ボイラーマンに変装し隠れ館に潜入、賊を捕らえ正体を明かすお馴染みのシーン。
毒を煽り、明智の腕の中に倒れこむ女賊。

事切れる最後の言葉。

「捕まったから死ぬのではないわ。」

「わかっている!」

「あなたに何もかも きかれたから…」

「真実を聴くのは一等辛かった。僕はそういうことになれていない。…しかし僕も…」

「言わないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。…でもうれしいわ。
…あなたが生きていて。」

れいさんの素直な声に、女がどれ程この男を恋焦がれていたか心に響く。


「好きよ、あなたが」王妃の声が身体の芯から甦る。12年前が甦る。
手をのばしても触れることも出来ずに逝ってしまった あの二人。……


屍体となった黒蜥蜴の手を握り想いを伝える明智は
また明日から
その時代の多少汚れた善い人(金持ち)の味方となって探偵という生業を続けてゆく。

「一家の幸福と繁栄は、みんな明智さん、あなたのおかげだ。この御恩は永く忘れません。」

「忘れて下さって結構です。
あなたのご一家はますます栄え、次から次へと、贋物の宝石を売り買いして、
この世の春を謳歌なさるでしょう。
それで結構です。そのために私は働いたのです。」

「えっ贋物の宝石だと?」

「ええ、本物の宝石は、もう死んでしまったからです。」

冒頭、生活感の漂う探偵 チバテツさんが 生身のいいオトコにみえる瞬間。


惚れた男の腕の中で

「真実を聴くのは一等辛かった。僕はそういうことになれていない。」

ああ言われてみたい! 男の卑怯さが見えても言われてみたい!

そして、

「言わないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。…でもうれしいわ。
…あなたが生きていて。」

嗚呼 この身は、あの狭小な空間に融けていた。


パンフレットを見開くと 絡まる手と手のアップと共に

「心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だったわ。あなたはとっくに盗んでいた。」

私の心は未だ森下の廃工場に潜んでいる。



#1. 追記
『明智@千葉哲さんが・・・少しイメージが違うんですが・・・』という意見がありました。
それで触発されたモノを追加で送信いたします。



さて、明智役ですが
私も「ああ堤さんが演じてくれれば…」と思いつつ着席したのですが、
終演後はチバテツで正解と思ってしまいました。
映像や美輪さんの舞台とは異なり猥雑な明智なのです。

堤さんではセンが細すぎる。

酸いも甘いも噛み分けた男
探偵という胡散臭い職業を
これまた当時の成り上がった胡散臭いお金持ちが高額で雇う。

そんな空気に耐えうる泥臭さと
警察では解決できない事件に挑む高潔な精神をあの至近距離で演じるには
堤さんでは まだ青さを感じてしまうことでしょう。

また、黒蜥蜴の審美眼で選ばれた男が
眉目秀麗な男子では何か当たり前すぎる感もあります。
「能書き垂れてやっぱりヴュジュアルで選ぶんかぁ」 みたいな…。

私の目から好みではないチバテツさんがちょっとイイ男に見えるのは
そこいらの成金への態度と黒蜥蜴に対して純に反応する違いに
オンナ心が疼くのかなぁと考えます。

もし堤さんなら黒蜥蜴は天海祐希さんならバランスが取れるかもしれませんが…
……それでは若いなぁ…もう麻実さんで観ちゃったからなぁ…
麻実さんの大人に負けるなぁ と納得してチバテツさんに軍配を挙げます。





tpt公演 2006/12/16ソワレ、12/17 マチネ、処 森下・ベニサン・ピット
(2006/12/22 配信)