古代ギリシャホメーロス(紀元前8世紀 ローマ建国の時代)によるイーリアス、オデュセイアで描かれるトロイ戦争(紀元前 1194年から1184年頃 青銅器時代)トロイの場所は現在のトルコ北西部 チヤナッカレ県ヒサルルクである。(レスボス島の向かいにあり、パリスの審判が行われたとされるイダ山も近くにあり)

そのおよそ700年後、古代ローマの詩人ウェルギリウス(共和政ローマ末期)の叙情詩アエネーアスはローマ建国神話へと書き換え、再構成した。
ホメーロスのギリシャ英雄譚を語ったことに対し、ウェルギリウスは「ローマの正統な起源」として再解釈した。
その主人公アエネーイス(父 トロイ王家の血をひくAnchises、母 愛の美の女神ビーナス)が、トロイ陥落の際、父と息子(アスカニウス)を連れて逃げる。カルタゴを通り、現在のローマ(Latium)に到着。
母のビーナスはパリスの審判で、ユノーの恨みを買っていたので、アエネーイスの逃避の旅は簡単ではなかった。(オデュッセイアみたい)
このアエネーイスの息子Ascaniusが、地元の王Latinusの娘と結婚(ラテン人の起源)し、ユリウス家(ユリウス・カエサル)の祖となる。
※よってローマ人は愛と神のビーナスの血を引く民族とされた。

そのアスカニウスは、父の死後、Latiniumから、北に新都市Alba longaを建設し何代か王が続く。
その末裔にヌミトル(兄)とアムリウス(弟で王位を奪う)。
兄の娘を子を産めないようにヴェスタ神殿の巫女にする。
(王統を絶やすため)
ところが巫女(レア・シルウィア)は軍神マルスに愛され、双子を身籠り、
それが、ロムルスとレムルス。

テベレ川に流され牝狼に乳を与えられ育ち、後に叔父アムリウスをうち、新しいローマを建設したのが紀元前753年と言われている。
※よってローマ人はビーナスに加えて、軍神マルスの血を引く。

双子の兄弟、ロムルスとレムスは新しい都市をどこに建てるかで意見が分かれ、鳥占いで決着を試みる。(リウィウス Tito Livio ローマ建国史より)
ロムルスが良しとするパラティーナに飛ぶ鳥は12羽、
レムスが良しとするアベンティーノに飛ぶ鳥は6羽、
ロムルスの勝ちで、パラティーノにローマが建国される。(紀元前753年4月21日)

その後は、聖書は歴史の兄弟の争いのように、レムスは殺される。
そのレムスの息子?甥?が、密かにシエナに逃げたとされる。
その2人の兄弟がSenius、Aschiusが白い馬と黒い馬に乗ってたどり着いた、ということで、シエナの紋章は白と黒になっている。
白と黒は、光と夜、善と陰、清浄と逃亡というもので、ロムルスとレムスの和解も表している?(まるで天照と月詠のよう)

また、同じくトロイ戦争の生き残り、長老アンテノールはアドリア海を経て、北イタリアの平野へ到達。アンテノールはエウガネイ族の王と和平を結び、トロイの一族とともに都市を建設した。
それが 現在のパドヴァである。
(ウェルギリウス アエネーイス 第1巻 242行より、またリウィウスのローマ建国史の序文より)

そのトロイの生き残りが建国したパドバから逃れた人々がラグーナに逃げて、築いたのがヴェネツィアとなる。
歴史的事実としては、西ローマ帝国滅亡の頃、北イタリアがゲルマン民族(フン族、ロンゴバルド族など)に侵略され、アクイレイア、パドヴァ、アルティーノ、コンコルディアなど)は破壊され、多くの住民が避難。
逃げ場を求めてラグーナへ、それがベネチアの原点となる。

11世紀ごろに書かれたアルティーノ年代記 Chronicon Altinate(ヴェネツィア国立マルチャーナ図書館)には以下のとおり書かれている。
「アンテノールの民の子孫であるパドヴァ人は敵軍から逃れて海の入江へ避難し、そこに家々と港を築いた」

つまりトロイの賢者アンテノールの血を引くパドヴァの民がヴェネツィアを建設したとされるのである。
この説はヴェネツィア人が自らをローマやトロイと並ぶ古い血統を持つ民、と位置付ける神話的、政治的なルーツ宣言であった。
この理念が後のヴェネツィア共和国の神に選ばれた都市意識を支えた。
アンテノールはトロイの中で唯一平和を求めた賢者として描かれている。
それ故、ヴェネツィア共和国の掲げた理念の平和はここに由来するのである。

 

共和国が実質的に衰退しつつあった1718世紀、特に1797年にナポレオンによって崩壊する直前の時代、この時期、共和国の名目上の独立を保ちながらも、経済と金融の面ではすでに外国資本に深く依存していました。

 

🕰 背景:衰退期のヴェネツィア経済

16世紀末~17世紀にかけて、ベネチアは以下の理由で経済的基盤を失っていきます:

  • **オスマン帝国との戦争(特にカンディア戦争 1645–1669)**による莫大な戦費
  • 新航路(喜望峰航路)発見後の貿易中心地の移動(大西洋側へ:アントワープ、ロンドン、アムステルダム)
  • 海軍力の衰退
  • 貴族層の金融・土地投資への転換(商業よりも貸付・債券収入で生活)

これにより、共和国は国家としての収入源を失い、外部資本に依存する構造が形成されました。

 

💰 外国資本の流入と支配構造

① スイス・南ドイツ系銀行資本

  • 16~18世紀、ヴェネツィアにはアウグスブルク(フッガー家、ヴェルザー家)ルツェルンやチューリヒの金融家など、ドイツ語圏の商人・両替商が拠点を構えていました。
  • 彼らは国家や貴族への融資、戦費調達、国債の引受を通じてヴェネツィアの財政に深く関与。
  • “cambio di piazza”(外国為替市場)を通して、ローマ教皇庁・ハプスブルク・フランスなどの資金も往来。

② オランダ・イギリスの海上資本

  • 17世紀以降、ヴェネツィア商人はオランダ・イギリスの商船を利用して地中海貿易を維持。
  • オランダ東インド会社・イギリス東インド会社が登場すると、香辛料・絹・綿織物の流通は完全に北欧主導となり、ヴェネツィアは再輸出港としての中継点に転落。
  • ベネチアの港湾・倉庫・保険にオランダ人商人が資本参加するようになる。

③ フランス資本(特に18世紀後半)

  • ルイ15世(1715-1774)以降、ヴェネツィアはフランスの政治的・文化的影響下に入り、金融・貿易でもパリ系銀行やフランス商社の影響が強まる。
  • フランス外交官や資本家が、ヴェネツィアの貴族社会に投資し、サロン文化を通じて支配層と融合。
  • ナポレオン以前から、フランス資本は共和国の債務を担保に進出していた。

④ オーストリア資本(ハプスブルク家)

  • カンディア戦争後、ヴェネツィアはオーストリアとの関係を強化し、ロンバルディア=ヴェネトの経済圏を形成。
  • オーストリアの金融業者がヴェネツィア貴族の土地抵当債務を買い取り、実質的に領地を支配。
  • 18世紀後半には、ハプスブルク帝国による経済的従属状態が完成。

 

かつての「世界の商業中心地」から、「再輸出港(porto di riesportazione)」=中継貿易港へ

 

🏛️ 1. 栄光期:直接貿易国家としてのヴェネツィア(~16世紀前半)

中世から16世紀初頭までは、ヴェネツィアは**東西交易の“終点かつ起点”**でした。

  • 東方(アレッポ、アレクサンドリア、カンディアなど)から香辛料・絹・宝石を輸入
  • 西ヨーロッパへ再販(特にアントワープ、フランス、ドイツ)
  • 船団(muda)制度で国家が直接貿易を管理
  • 「国家=商社」という構造で、利潤が共和国全体を潤す

この時代は、東方への直接ルートを掌握していたため、外国商人を介さずに富を吸収できていました。

⚓️ 2. 転換期:大航海時代の衝撃(16世紀後半~)

1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開き、
香辛料などのアジア産品がポルトガル・オランダ・イギリス経由で直接西欧へ流通するようになります。

この時点でヴェネツィアは致命的な地理的不利に立たされました。
東方貿易の独占を失い、以後は次のような構造へと変化します:

時期

経済構造

~16世紀中葉

東方交易の中心(直接貿易)

16世紀末~17世紀

ヨーロッパ北部の資本を介した中継港

18世紀

北欧商人・外国資本の倉庫港(再輸出港)化

 

 

🚢 3. 再輸出港としてのヴェネツィアの姿(17~18世紀)

● 外国商人が主導する「倉庫経済」

  • オランダ、イギリス、ハンブルク、トリエステ、ジェノヴァなどの商人が
     ヴェネツィアの港・倉庫を一時保管拠点として利用。
  • 彼らは東地中海・バルカン方面の産物(ワイン、オリーブ油、木材、穀物)を仕入れ、
     北欧や大西洋方面に再輸出。
  • ヴェネツィア商人自身は「取次業者」「保険業者」「倉庫主」として手数料を得るのみ。

● 代表的な再輸出品

商品

仕入地

輸出先

香辛料(インド・レバント)

イスタンブール・アレッポ

ミラノ・フランス

絹織物・ガラス製品

ヴェネツィア製造

北欧諸国

穀物(ダルマチア・ギリシャ)

東地中海

北イタリア

コーヒー・砂糖

アムステルダム経由

中欧・地中海各地

つまり、**ヴェネツィアは物流の「中継センター」**として機能していたのです。

 

💼 4. 金融・保険都市としての生き残り

直接交易の利潤が失われると、ヴェネツィアは金融・保険・倉庫のノウハウで延命します。

  • **Banco Giro(国家銀行)**を中心とする為替・預金業務
  • 船舶保険・海上貸付の制度化
  • 外国商人を受け入れる自由港的政策
  • 倉庫・保管・再輸送のインフラ整備(Magazzini Generali)

これにより、「物品よりも金の流れを扱う港」としての性格が強まりました。

 

🕊️ 5. 結末:再輸出港=外国資本に支配された港

18世紀末、ヴェネツィアには多くの外国商館・代理店が進出します:

  • オランダ商館:北欧向けの再輸出を管理
  • フランス商館:ワイン・布地・香料などを独占
  • オーストリア商人:ロンバルディア・トリエステ経由で中欧市場へ
  • ギリシャ系商人(例:Papadopoli家):東地中海からの輸入と再輸出を担う

結果、港の主導権は完全に外国人資本の手に移り、
共和国は形だけの独立国で、実質的には外国商人の中継基地となっていました。

 

🌍 現代的に言えば…

ベネチアのこの構造は、今で言うところの
オフショア金融センター」や「自由貿易港(Free Port)」のような存在でした。

つまり、

「自国の産業で稼ぐのではなく、他国同士の取引を“媒介”して生き延びる国家」
というかたちです。

 

🧭 まとめ

観点

内容

経済モデル

再輸出港・中継貿易都市

主な担い手

外国商人

(オランダ、イギリス、フランス、ギリシャ、オーストリア)

ヴェネツィア人の役割

倉庫・金融・保険・通関・代理業務

結果

金融・商業の中心から、外国資本に依存する

「港湾都市国家」へ転落

 

 

🏦 外国資本とヴェネツィア貴族層の癒着

  • もともと「国家=貴族共同体」であった共和国では、貴族の財政危機が国家危機に直結。
  • ベネチア貴族は商業から撤退し、金融投資家(rentier)に転身。
  • その結果、外国銀行の融資・投資を受けて、共和国財政が国際金融の担保物件となっていった。

この構造はまさに近代国家の債務依存体制の先駆けであり、後のヨーロッパの金融構造(イングランド銀行や国債制度)の雛形とも言えます。

 

⚖️ 結果:1797年崩壊時の構造

ナポレオン侵攻時、共和国はほぼ**「中立商業国家」から「金融依存国家」へと変質**していました。

  • 軍事費を外国銀行からの融資で賄う
  • 国債を外国人が保有
  • 貴族層は不動産を抵当にし、外国資本に支配される

つまり、崩壊前にはすでに経済主権を失っていたのです。

 

🕸️ ヴェネツィア再輸出経済を動かした外国商人ネットワーク

 

🏛️ 中心軸:ヴェネツィア共和国(名目上の独立国)

  • 政治的には中立を保ちつつも、経済的には
     **「外国資本と外国商人による国際金融都市」**となっていました。
  • 共和国政府(Senato)は、商人登録や税収のために彼らを歓迎。
  • 外国商人たちは市民権(cittadinanza originaria)や特権を得て、
     ヴェネツィア貴族と通婚し、地元化していきます。

 

🌍 1️⃣ オランダ・英商人グループ

拠点:Zattere、Rialto、San Marco周辺

役割

  • 北海経由でアジア・アフリカから輸入した香辛料、砂糖、コーヒーなどを
     ヴェネツィアを経由して南欧・東欧へ再輸出。
  • 銀行信用・海上保険・為替ネットワークを提供。
  • 彼らがもたらした「為替手形」制度が、Banco Giro発展の原動力に。

主要人物・家系

  • アムステルダム商館のVan der Velde家、De Witt家などがヴェネツィア代理店を持つ。
  • 英国商人もリヴォルノ(自由港)とヴェネツィアを結び、地中海支店を展開。

 

🇫🇷 2️⃣ フランス商人・金融グループ

拠点:San Moisè、Riva degli Schiavoni、Palazzo Vendramin周辺

役割

  • ルイ15~16世紀期にヴェネツィアへ大量進出。
  • 香料・織物・美術・贅沢品を扱い、貴族社会に文化的影響。
  • 多くのヴェネツィア貴族がフランスの銀行から融資を受ける。
  • 実質的に共和国の対外債務の多くを握っていた。

象徴

  • Compagnia Francese di Venezia(ヴェネツィア・フランス商会)
     = 再輸出取引とサロン文化の中核。
  • 貴族の資産管理や、ワイン・織物・香料の再輸出を担う。

 

🇨🇭 3️⃣ スイス・南ドイツ資本(アウグスブルク系)

拠点:Rialtoの銀行街、San Giovanni Grisostomo付近

役割

  • 戦争債券・国債の引受け、貴族への貸付。
  • フッガー家・ヴェルザー家・スイス商人たちは、
     金・銀・銅などの貴金属取引を管理。
  • 国際決済の拠点としてヴェネツィアを利用。

特徴

  • 通貨と債券の都市ヴェネツィアを裏から支えた資本。
  • 共和国の「表の商業」はオランダやフランス、
     「裏の金融」はスイス・南ドイツが握っていた。

 

🇬🇷 4️⃣ ギリシャ商人・東地中海グループ(Papadopoli家を含む)

拠点:Riva degli Schiavoni、San Giorgio dei Greci周辺

役割

  • クレタ島・コルフ島・イオニア諸島など、旧ヴェネツィア領出身の商人。
  • ベネツィア共和国滅亡後も、オスマン領と西欧を結ぶ密輸・貿易網を維持。
  • 香辛料、綿花、オリーブ油、木材、ワインなどを供給。
  • 彼らはヴェネツィアに住み、外国商人と地元貴族を仲介する役割を果たした。

✴ Papadopoli家(Papadopulo→Papadopoli)

  • 出自:クレタ島(カンディア)出身のギリシャ正教徒商人。
  • 1669年カンディア陥落後、コルフ島に移住 → 18世紀にヴェネツィアへ。
  • 1792年に市民権を得る(cittadinanza originaria)。
  • 金融・穀物取引・再輸出を通じて巨額の富を蓄積。
  • ベネツィア共和国崩壊後、オーストリア体制下で**正式な貴族(1821年)**となる。

構図

Papadopoli家は「東の資本を西欧金融に変換する仲介者」であり、
「旧ビザンツ圏の復讐」=東方資本によるヴェネツィア支配の象徴とも言われます。

 

🇦🇹 5️⃣ オーストリア=ロンバルディア系商人

拠点:Riva degli Schiavoni東部、Cannaregio北部

役割

  • ベネト領・ロンバルディア領を通じた陸上交易。
  • ヴェネツィアを「ハプスブルク帝国の外港」として利用。
  • 穀物・鉄・木材・織物を中欧へ再輸出。
  • 貴族の土地抵当を買い取り、経済支配を進める。

結果

  • 1797年以降、ナポレオン→ハプスブルク統治の流れの中で
     オーストリア資本がヴェネツィア経済を完全に掌握する。
  •  

バーカロと呼ばれる立ち飲みのお店がひしめくリアルトのサンジャコメット広場。

ここはベネチア=ヨーロッパ銀行制度の聖地であった。

現代の中央銀行は通貨発行の発想は、この小さな教会前の広場から始まったと言っても過言ではない。

 

11世紀から16世紀、ベネチア共和国の時代には為替商、両替商(Cambiatori Bancheri) が軒を並べるエリアで、当時の言葉でBanco(取引台)と呼ばれていた。

商人や両替商は木製のバンコの上で金銀貨の交換、貸付を行い、破産するとその台を壊される(Banco Rotto)という慣習から銀行という言葉が生まれた。

 

Banco di Rialto(1587)=初の公的銀行で、ベネチア共和国の法令で設立、本部がこのサンジャコメット広場近くに置かれた。

ここはベネチア商人が為替、輸入、保険、船舶取引を行う中心地でベネチア共和国の経済の心臓部であった。

 

Banco del Giro(1619年)ベネチア共和国はBanco di Rialtoを制度的に再編したものとして設立。本部はPalazzo dei Camerlenghi付近へ移される。

 

Banco del Giroは国家銀行ではなかったが、ベネチア共和国政府が直接監督した公的銀行だった。つまり、国営銀行に近い国家管理の清算銀行という位置付けである。

目的は、国庫・商業取引・為替決済を安全に行うための’’GIRO’’ (振替)専用の銀行であった。

当時のBanco Giroは預金を紙幣化するのではなく、口座間の記帳振替(GIRO)で支払いを完了させるシステムであった。

作られた背景は、1500年末から1600年初め、ベネチアでは民間の銀行(例: Banco di Piazza di Rialto)が乱立し,破綻する銀行も多かったため、商業の信頼を維持するために共和国が直接管理する銀行が必要であった。

国家が信用保証する銀行として、Bando del Giroを創設、近代的な中央銀行の原型の一つとされる。

1797年ナポレオンによるベネチア共和国征服で銀行も閉鎖される。(現在でも取引記録Libro del GiroはAechivio di stato di Veneziaに保管されている)

 

 

機能と運営

・国家会計の資金を扱う

・国内外の商人の決済口座を扱う

・利息の支払い、国債管理も一部担当

・口座振替で決済

・実際の金銀貨を動かさず、帳簿上で完結

 

この仕組みがBank Of Amsterdam(1609年)に影響を与えた。

アムステルダムはこの制度をより洗練されたものとする。

(金準備 100%保有を厳格に行い、ヨーロッパの商人で最も信頼される銀行に成長)

ただし国家銀行ではなかった(国庫の資金管理は行わなかった)

 

Bank Of Ingland(1694年)は王室の戦費調達を契機の創設。

民間株主による銀行でありながら、政府の借入を引き受け、国債の発行、利払を担い、近代中央銀行のモデルを確立。(紙幣発行権を持つ点が決定的に新しい)

 

通貨発行権の起源

 

古代から中世にかけて、貨幣を発行する権限(Monetatio)は君主の権利

鋳貨権 Diritto di zecca 

王、公国、都市国家(ベネチア共和国も含む)が独自の貨幣を鋳造

1200年代にDucato(Zecchino)を発行、純度と信頼性で国際通貨。

   

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1500年代から1600年 銀行貨幣の誕生 (ベネチア共和国)

Baco di RIalto、Banco del Giro

帳簿上で振替、現物を動かさない。実質的な通貨発行の始まり(抽象化)

 

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1609年 Bank of Amsterdam

銀行の帳簿貨幣(Bank money)を正式な決済手段

現金の裏付け100%保有していたため実質的な準備通過。

ヨーロッパ商業都市で金銀貨と同等の価値。

国家が保障する信用貨幣の原型。

 

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1694年 Bank of England 紙幣発行

イングランド銀行は政府に融資を行い、その証書で銀行券(Banconote)を発行

(政府の債務を担保に発行された紙の貨幣)

最初は民間銀行の約束手形だったが、王室の信用と結びついて国家の通貨として機能。

通貨発行権が、国家から銀行へ移行した瞬間!

(設立者 William Patersonらスコットランドの投資家グループ)ウィリアム3世(オランダ出身の国王)が戦費調達が必要

 

※ロスチャイルドは100年後、1700年代末にドイツフランクフルトで金融を営んでいたユダヤ人一家。ナポレオン戦争期に頭角を表す。(ヨーロッパ各国の国債を仲介、引き受け、金融ディラー)

 

ナポレオン戦争(1796-1815)でヨーロッパ全体が戦場となり各国の通貨(金銀貨)は流通不能、国債暴落、中央銀行も混乱。

通常の取引ルートが絶たれ、裏ルートで金融、債券が動くようになる。

ナポレオン戦争時のヨーロッパの裏の金融動脈

 

  1. スイス=中立金融のハブ (バーゼル、ジュネーブ、チューリッヒ)

 ヨーロッパ唯一の政治的中立地、フランス、イギリス、オーストリアいづれとも取引可能

 ナポレオン時代はスイス経由でフランスの金、戦費、債券が送金される。

 スイスの銀行家たちは莫大な利益を受ける

 フランス政府や軍が支払う軍需金、占領税、傭兵報酬がここで清算される。  

 

②北イタリア=戦費、債券、銀の地上ルート

ナポレオンのイタリア遠征で、ミラノ、ベネチア、パドヴァ、ベローナ、トリエステがフランスの支配下。(ナポレオン直轄のチザルピーナ共和国、イタリア王国成立 1797)

金融・・・旧ヴェネチア銀行、ミラノ両替商、ユダヤ系銀行家が残存

物流・・・・スイス南部(ティチーノ)→ミラノ→ベネチア→トリエステの交易路

貿易・・・アドリア海からバルカン、オスマン帝国、地中海東部へ接続

 

ヨーロッパ大陸で一番安定して金銀が動かせる回廊=スイス高地(銀行)~ロンバルディア(商業)~ベネチア港(海外決済)

 

③金、銀、債券の実際の流れ

ナポレオンは膨大な戦費を公債として発行・・・スイスや北イタリアの銀行家は割引、転売

ベネチア商人、ユダヤ人金融家ロスチャイルドの初期ネットワークが取り扱う。(北イタリア)

 

金と銀の移動

軍事占領力の貢納金、略奪金(特に北イタリア、教会財産、金庫の金)がスイス経由でパリやウィーンへ。(スイス商人は護送、両替、融通を担当)

 

傭兵、貿易決済

スイス傭兵や北イタリア商人への支払いはスイス銀行を通して、行われた。

(Papadopoliのような商人層はここで信用、取引、為替決済を通じて、フランス、オーストリアどちらでも決済する柔軟性)

 

④ロスチャイルドとスイス=北イタリア回廊

ロスチャイルド家のフランクフルト本家もこの時期、金銀の輸送、両替、債券取引に参入。

ロスチャイルドはスイスの金をロンドンに輸送してイギリス政府に貸すビジネス開始

 

ルガーノ→ジュネーブ→パリ、ロンドン

 

ベネチアの富の流失

1797年のベネチア共和国崩壊はヨーロッパ金融市における富の大移動を引き起こした。

 

・Banco del Giroの金庫 → フランスへ移送

・国家会計簿、海軍設計図、債券証書→ ミラノ(ナポレオン新政府)へ移管

・サン・マルコの宝物、絵画、彫刻 → パリルーブル美術館へ

・商人の私有財産、口座 → Cassa di Commercioなどに統合され、のちにオーストリア国庫の管理下へ

 

ミラノ

ベネチアの金融資産の多くはミラノへ、新ベネチア、ナポレオン帝国の金融首都へ

1、ベネチアの公債、国庫証書・・・ミラノの財務局へ

2、商業登録、貿易保険・・・ミラノ商業会議所へ

3、ベネチア商人、ユダヤ人両替商、ギリシャ人貿易商・・・ミラノ、パドヴァ、ヴェローナへ

 

トリエステ

新たな海上貿易港

ベネチア聖人がトリエステへ移住

ベネチアの海上保険、、造船、金融業務がトリエステのLoyd、保険会社、港湾商館へ

(GENERALI保険)

オーストリア=ヴェネツィア連合商業圏の中核に

 

スイス、ウィーン

フランスとオーストリアの間で金、銀、再建を仲介したのがスイス

オーストリア帝国の金融本拠ウィーンはロスチャイルド家のウィーン支店が設立され、

ベネチア商人や新興貴族(Papadopoli家など)と連携