デジカメを持って行かなかったので写真がないのですが、その日はものすごく探検めいた 1日でした。

色々行ったのですが、とにかく源頼朝の墓を訪れました。(すみません、強引で ・・・。)
そこで、土階段を見つけました。高さにして 5m ほどだと思います。
何となく階段状にはなっているものの、土です。直立した山肌を上るようなものです。
彼はスニーカー、私はバレーシューズ。しかし、この階段状の崖を上った先に何があるのか、好奇心の塊のような私がそれを見ずに行き過ぎることなどできるはずもありません。
日も十分に差さないような場所です。いつ降ったのかわかりませんが、ところどころに水溜りが残るようなそんな日です。
私たちはその山道を上がりました。

とても自力では上れないので(足が滑ってまるで踏ん張れない・・・)彼の後ろに付いてその手に掴まりつつ何とか・・・だったのですが、あまりの足元の悪さとほとんど壁のような急な勾配に 「あんまり引っ張ると危ないかも、こっちもそう余裕なくなってきた」と彼。
えーーー・・・、いまさらー・・・orz


もはや降りることはできない状態です。
というか、上がりきったとしてもここを降りて来ることはできないだろうということは何となくわかっていました。
もし他にルートがないならば、この水を含んだ山肌にお尻を付きながら(リフトで上まで上がったきたものの、急なコブ斜面にくじけたスノーボーダーが、ボードを履いたままお尻を付いた状態で両足を使って漕ぐように少しずつにじり降りていく、あのイメージ。)ずりずりと半ば滑り降りるしかないんだろうなと・・・。
ま、ジーンズだし、生きて帰れるならそれでいいもん、と。

しかし、そうやって降りる為には体の向きを変えないといけません。今は彼の手と時々自分の手の使いながら辛うじて階段状になった山道にへばりついている状態。このままずりずり降りるなんて・・・できません。そんなことしたら腕にかけたボッテガのハンドバッグが泥にまみれてしまう・・・。(←大事。)

と、そこで目の前の山肌をよく見るとそこに細い縄が。見上げると、縄はこれから上ろうとする先のほうから垂れているようでした。
「こ、この縄、何?」 と見上げて彼に声をかけると 「それ用じゃない?」 との返事。
「これ、大丈夫なのかな?? ちゃんとどっかに固定されてるわけ?? 体重かけた途端にこの縄もろとも落ちたりしないよね?? 」「えー? それは大丈夫でしょ~」と彼。
「この縄と**ちゃんとどっちが手堅い? 」彼が何度か縄を引っ張ったようで、私の目の前にあった縄が揺れました。そして 「縄だね・・・。」と彼。よし来た。
いざ、彼の手を離して縄に持ち替える私。このゴワゴワチクチクザラザラするような縄の感触。子供の頃のアスレチック以来だわ・・・。
私は縄に体重をかけ、手繰(たぐ)るように上り切りました。

上りきると、そこから左に細い山道が続いていました。
山にへばり付くようなイメージでトゥルトゥル滑るような細い道を進みます。右側は鬱蒼とした崖。心臓が縮みます。
しかもバーレシューズ・・・(←おバカ。 )、大真面目に怖いです。

「何かある?? まさか何もないとか・・・」「いや、何かある・・」、と目の前に立派な墓が現れました。
よく状況がわからなかったのですが、墓の正面には長い石段があって、私たちはその石段の最後の数段を残した辺りに横から合流した感じでした。滑り易い山道から石段に出て、ほっと一息。ふと右側を見下ろすと石段は急斜面を下るようにずっと先まで続いていました。
下りるのを想像するだけで足がすくみました。

気を取り直して左に向き直り、山側を見上げるように墓を仰ぎ見ました。
案内表示もなく、玉垣というんでしょうか・・・その一部は石が崩れたりもしていましたが、なかなかに立派な造りです。手前には立派な墓碑がいくつかあるのですが、どれも読めません・・・。
古墳の横穴のような暗く奥まったなかにどうやら石塔がありそうですが、暗くてよく見えません ・・・。
横穴の墓は三つで、並ぶようにありました。


そのいずれも、きちんと花やお酒が供えられていました。
墓はそのうち左の二つが同じ玉垣のなかにあり、右の一つは単独で別の玉垣に囲まれています。そのため、左右の墓の間を行き来することはできません。ぞれぞれの玉垣の正面入り口から、真っ直ぐ 2本の石段が平行して下まで続いるように見えます。

縄を伝って上がってきた先ほどのルートを下りるよりは、この石段を下りるほうがずっと安全だろうということで、私たちは墓を背に、石段を下りることにしました。この階段もかなりの危うさを感じます。そう長くはこのままでいないだろうという気配。
慎重に慎重に一段ずつ階段を下りながら、こんなにも鬱蒼とした場所にこれだけの階段が、しかもわざわざ 2本も(実際には途中で分岐してあり、下まで完全に独立した石段が 2本作られているわけではありませんでしたが)作ったことを考えると、かなりの実力者の墓なのではないかと言う気がしました。

梅雨の中休みで、陽射しの非常に強い日だったにも関わらず、一体は薄暗く湿っていて、サングラスを外さないととてもとても怖くて歩けませんでした。
下りてくる途中にもやぐらがありました。奥に五輪塔があり、そこにもまた花が供えられていました。
何とも異様な雰囲気というのか、想像力をかき立てるというのか、とにかく古いもの、歴史を経たものが好きな私には一体の景色と相まって非常に魅力的に感じられ、去りがたいものがありました。


帰宅後、調べてみたところ、三つの墓はそれぞれ、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓(それぞれ、そうであるとされているもの)でした。
そ、そうだったのか~。

大江広元は頼朝の側近で、義経から腰越状を託された人物ですね。頼朝公墓の側に墓があるのも頷けます。
が、実際には、これらの三つの墓は江戸時代になって、 5,6世紀の横穴式古墳をそのまま流用する形で毛利藩によって整えられたものらしく・・・。
どうりで年代の割りにきれいだったわけです。これらの三つの墓が頼朝公墓より立派である(・・・。)というのも、その辺りの都合でしょうか。
それから、下りてくる途中にあったやぐらは、三浦一族が葬られたとされているものでした。
これも、もともと墓としてそこにあったものを拝借したもののよう。

更に、私が縄を伝って上った場所が、元は石段であったことがわかりました。そして、以前はそこに、ちゃんと案内標識が出ていたらしいこともわかりました。
何となく階段状になっていたのは、人が踏み締めた後ではなく、石が無くなり、土台の角も落ちてしまった "石段の名残り" だったのか・・・。


一体それらの石はいつどこで失われてしまったのでしょうか。
片やあの状態・・・となると、今ある石段のほうもいつまでそこにあるのかわからないという気持ちがますます強まります。
標識は失われたまま、ごく短い "元" 石段すら修復されないまま。であれば、さらに何倍もの長さに渡って築かれたあの石段が崩れたとして、果たして修復されるのだろうか。そのまま朽ちていくだけとなってしまうのだろうか。
などなど、夜が更けてもいつまでも彼と二人話していました。
さすがにあの距離を縄でというわけにも行かないでしょうし・・・。
やがては誰も上がることのできない場所になってしまうのでしょうか。

この日は、単なる思い付きのように出かけただけなので、彼も私もどこか消化不良を起こしているような感覚があります。
もっと事前に勉強(?)して知識を備えていれば、受ける印象もまた違ったと思います。
そもそも私の歴史の知識というのがこれまた非常にお粗末なのです。
歴史と言えば、中学生の時に私が指導を受けた日本史の担当教諭は、1年間で縄文時代までしか進みませんでした。まだ教科書こんなに残ってますけど?? という声にもめげず、2年目でも弥生時代でした。一貫校の暢気さもあったのかも知れませんが、さすがに保護者から問題視する声が上がり、3年時には平安時代を駆け抜けました。
高等科に上がると日本史の教師は変わり、お気に入りの時代だけをずーーーーーっと集中的に指導してくれました。授業は 1時間(時限?)が半分にも思えるほど面白くて、皆が心底から楽しんでいました。全員が前のめりになって一言でも聞き漏らさないように目を輝かせる特別な授業でした。
教諭の、( "その"時代についての)知識といったら、それこそ伊達じゃなかったと思います。
でもそれは鎌倉時代ではありませんでした。
・・・って。まったく何の言い訳にもなっていませんが・・・^^;

そんな私に、彼が書棚から山岡荘八の「源頼朝」を持って来て、「これ、読む? 」と。
読みますとも。私がワクワクしながら本を開きました。それと見て彼が 「俺ももう一回読んで見ようかな・・・ 」 。

というわけで、次回は背景についてちゃんと予習して、スニーカーを履いて、デジカメを持って、お花を持って行ってきます。 「俺は頼朝の墓に花を供えてこよっと。」 と言うので、私はそれ以外のお墓にお花かお酒でも・・・。


写真は上から、鶴岡八幡の宝物点の半券、杉本寺の案内、そして "教材" です。
杉本寺をはじめ、その他色々立ち寄った場所なども、書き留めておきたいことはあるのですが、既に十分長くなってますので割愛します^^;

P.S.ほんとうに長々と、特に盛り上がりのない話ですみませんです(^人^)    気が付いたら長くなってました ・・・。
   何かが私の心を掴んで離さず、静かな興奮がいつまでも続いている感じなのです。