小さい頃の経験は一生付きまとうというけれど、ごもっともだと思う部分が結構ある。

例えば、人に対して謝らなければならない時。

初めての子供だから仕方ないと思うのだけれど、小さい頃、悪い事をした際に、謝る、殴られる、だけでは済まされない事が多かった。
正座して何回謝っても許されず、よく夜に外に出されて、鍵を閉められてわんわん泣いた。そこでも謝っていたが、許される事は無かった。
そこに泣き声を聞いた祖母が中に入れてくれて、落ち着くのだが、たまにいない時や、祖母の入る隙がない時はひたすら外で時間が経つのを待った。ジャングルジムにたまに縛られて出される事もあった。
ある程度そんな日々が過ぎた後、何かがあったのか、外に出される事は無くなり、謝って、打たれるだけで済むようになったが、幼い頃の自分は、怒られる度にその恐怖をずっと持っていたと思う。
ちなみに、弟が外に出される事は一度も無かった。小さいながら理不尽だと思った覚えがある。
怒られる理由も、ちゃんと説明されず怒鳴られるか殴られるだけだったので、大体納得して謝る事は少なかったと思う。何故怒られるのか、という事をちゃんと教えてほしかったなぁ、と今では何となく思う。
自分の中で悪いとわかっている事もあれば、分からずに怒られていた事もあったから。だから、回数が増える度、怒られる=恐怖でしかなくなっていった様に思う。
今でも怒鳴り声を聞くと(誰か、誰に言っているかなど関わらず)その人が恐怖の対象になり、暫くまともに喋れなくなったり、小さい頃に戻った様な感じになる。

この時の事や、その後の事も含めて、だと思うが、私は謝る事がとても苦手になった。得意な人はいないだろうが、この部分だけ、どうしても、どこかで、謝ってもどうせ許してくれないだろう、と諦めている部分があったり、怖くて声が出ない様な感覚になったりしている。

もしかしたら、そういう躾を受けるべき性質の人間で、それがあったからここまでまだまともに生活出来る様な人間になったのかもしれないが、今、その事や、母との一件で、仲は戻ってはいるし、いてくれてとても有り難いとは思うが、心から信頼を置いてはいない。だから、たまに良い母子関係を築いている人の話を聞くと、羨ましく思う反面、なんとなく気持ちが悪くなる。
(母は昔、建前を物凄く押し付けるタイプで、普通の人になる様に、とよく言っていた。今でも普通の人とは何だろうと思ったり、普通の人、という言葉を使う事があまり好きではない。普通ってどの基準からみたものなのか、そもそも普通の人、と呼ばれる人にも多種多様いるわけだから、普通の人になれ、とはどうなれば良いのか、と思ったりする。昔も今もそれでよく悩んだ。私は普通ではないのか、と。母の望む様な普通の人ではないのに、生まれてきて良かったのかな、と。)

多分、割と小さい頃も、今でも、
何故そうなのか、と言う部分を理解出来ないと、凄く嫌で、特に理不尽な事が嫌いだ。ちゃんと仕組みや理由や、根源の部分を知りたい。
怒られる時も、理由が知りたい。理由がわかる時は良いのだが、分からないと何故怒られたのか悩み続けたり、ただ単に、ストレスの発散かな、としか思えず、心の底で冷ややかな目をしている自分もいたりして、それに罪悪感を感じたりする。

大人になった今は理不尽な事で謝る事や、怒られて謝る事は出来る様になってきてはいるけれど、他の人よりかは半分位、出来ていないと思う。何も言えなかったり、後回しにしてしまったり、凄く時間が掛かって言ったり。本当に、自分でもここは嫌だし直したい部分であるし、これで必要以上に悩んだり人間関係を悪化させたりするのも嫌なのだが、どうしても拭い去れない。
トラウマの様なものだと思う。

これもきっと一生付きまとうのかもしれないが、少しずつでも、引き剥がして捨ててしまいたいものだ。