今年の上旬までは、自分もこの2職種を同じクリエイティブ職という括りで捉えていた。
けれど、厳密には住み分けがあるように感じている。
自分がいま経験しているエンジニアという観点で考えると言葉にしやすい。
コードを書くことの醍醐味は、いかに簡潔化させるか、その仕組みや土台を作ることにあるのではないか思うようになった。
大前提として、目に見える形で成果物をつくり、クライアントの課題解決をすることで貢献することにも言葉にできない達成感や喜びを見出せることは言うまでもない。
しかし、少しずつながらデスクに向かいコードを書く時間数が積み重なるに連れ、ディレクトリの配置に始まり、パス設定やclassの当て方、モジュールを作成する作業がいかに重要かということに気づいた。
これらを実践するデメリットは何一つ思い浮かばない。
文章構造の正確な把握と拡張性・保守性の高いコーディングをするか否かでは歴然の差が生じる。
作業が短縮すれば、浮いた時間を新しい知識・技術の習得、他の案件の着手、余暇などに費やすことができる。
自身のスキルとして確立した と言うにはまだ憚られるレベルだが、こと自分においては情報処理能力を意識するようになる好機となった。
余剰なものをろ過し、その中からさらに取捨選択をするプロセスの連続は、僅かながら自身の思考力向上をもたらしたような気がしている。
最近の風潮では、商業クリエイターか否かの住み分けもあやふやになっているような気がするが、生粋の商業クリエイターにはクライアントが存在するというのかアーティストとの大きな違いの一つであろう。
クライアントという存在がいてこそクリエイターは成立し、彼らの抱える課題や求めるニーズに働きかけることになる。
そういう意味では、クリエイターの仕事はゴールへの最短距離=最適解を導くことと言えるのではないだろうか。
一方のアーティストの仕事について。
多分に"こうであってほしい"という期待と希望が入り混じっているはずだが、誤解を恐れず端的に表現するなら、それは 明確な答えを有さないことを善しとできるということではないかと考えている。
自分の中では、アーティストの役割は選択肢を増やす と言い換えられるように感じる。
一切として誰を否定することもなく、時には今までの常識を覆し、人の心に様々な価値観や感受性を与える。
だがこれはある意味、クリエイターよりも広大で難度の高いテーマだ。
ただ形にするのではなく、人に衝撃を残し何かしらのきっかけを与えられるほどのものを創り出すことは決して容易ではない。
人の心に根付くものを生み出すには、それ相応の努力と忍耐、挫折を伴うはずだ。
そして同時に、斬新で異端な存在を享受し認めるのにも時間を要すであろう。
故に、ベートーベンなどのように死後評価されるケースも少なくない。
彼らアーティストという存在がいなくなれば、世界はどうなるだろうか。
恐らく平坦で著しく偏ったものになるだろう。
自分の中で様々な価値観や感受性を養うことができれば、それだけ多くの人を受け入れ認めることができるはずだ。
人と人が手を繋ぎ合えるような円滑な社会は、各々の豊かさとゆとりなくして成立しない。
非力で自己中心的な人間が、間口を広げ自分の周りに広がる世界を際限なく見渡せるようにする。
それが彼らアーティストの役割としたら、まさにクリエイティブという言葉を使わずにはいられない。
答えにたどり着くには、手段やゴールまでの道しるべが必要だ。
けれど、そもそも答えを見出せないこともある。
人が揺るぎない展望台を目指し歩み続けるためには、クリエイターとアーティストのどちらもなくてはならないのである。
