天正五年(1577)十月、織田信長の代官として、羽柴秀吉が播磨に侵攻してきた。当時播磨では赤松則房をはじめ別所長治・小寺政職・小寺孝高らは信長に服従を約していた。

小寺孝高は黒田官兵衛の事です。

 

一方、赤松政範・赤松広英・宇野政頼・三木通秋らは毛利輝元と通じて信長への服従を拒否していた。

毛利輝元は三本の矢で有名な毛利元就の嫡男の子、つまり孫です。

 

赤松一族の中でも毛利派と織田派に分かれてしまったのです。

 

ご先祖様は後者の織田信長への服従を拒否した側でした。

 

 

 

 

天正8年(1580年)羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によって宇野氏の居城である長水城が攻め落とされた際にご先祖様は嫡子(長男)であった為、年老いた父(4代目)は三男の弟にご先祖様の身代わりとして篠の丸城・長水城を守るように嘆願し三男はそれを遂行する為に赴いた。

そして、三男は長水城の戦いで討死します。

 

4代目のご先祖様は宇野氏と好を通じ、度々勇名を顕わしていた。

また5代目の武士として最後になった ご先祖様も知勇を備え力量があり、若年から宇野氏に属して数々の戦功があった。

 

4代目は宇野氏と好を通じ、度々勇名を顕わしていた。

4代目の長男の5代目も知勇を備え力量があり、若年から宇野氏に属して数々の戦功があったと文献にも書かれています。

しかし、長水城の戦いの時には、4代目はすでに老境にあり、5代目を地元に留めると、4代目は三男を5代目のご先祖様の身代わりとして長水城に向かわせたのです。

 

三男は生真面目で親想いな方だったのですね。

 

 

何故、宇野氏にそれだけ尽くしたかについては次回説明します。

 

三男も数々の功績から「宇野四天王」と称せられた。

 

みんな知勇に優れ功績を上げ大活躍しています。

 

頭も良く武道の力もあったのも理由がありました。

 

それも別の文献で調べましたので次の機会に説明します。

 

 

 

話を戻しますが、特に軍功を挙げていたのが、5代目の弟の次男です。

 

次男は宮本武蔵の父と仲が良く、切磋琢磨して合戦のごとに両士の軍功が抜群の働きを納め名を挙げていた。

 

あの宮本武蔵の父ですから剣の腕も相当だったと思います。

 

その方と互角の力量となると相当なものです。

 

しかし、長水城の戦いでは次男は黒田官兵衛の配下に属したのですね。

 

そうです、攻めて来ている側の羽柴秀吉軍です。

次男と三男は敵味方に分かれてしまうのです。

 

そして、三男はその戦いで5代目のご先祖さまの身代わりとなり討死してしまいます。

 

直接次男の手に掛かった訳ではないですが、5代目としては自分の身代わりで弟が死んだ訳ですから心中は穏やかでは無かったと思います。

 

戦国時代ですから、武士ですから、覚悟は出来ていたと思いますけど、人間ですから心から凹みます。

 

次男が何故、黒田官兵衛の配下になった理由については、その後についても またの機会に書きます。

 

この長水城の戦いの敗北により、5代目のご先祖様は究極の選択で一大決心をし、命乞いをし武士を捨てたのでした。

 

生きる事を選択してくれたお陰で我々子孫は生存する事が出来たのですから、その決断は正しかった。

 

こんな凄い事が戦国時代には起きていました。

 

テレビの大河ドラマや映画の中でしか感じれなかった戦国時代が一気に身近に感じました。

 

織田信長、豊臣秀吉、黒田官兵衛、宮本武蔵、

毛利元就、毛利輝元など、誰でも知っている人物の名前がそこにありました。

 

しかし、やっぱり ご先祖様の心中を想うと胸が熱くなり痛みます。

 

どれだけ無念だった事か !!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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