真理のためなら何でも出来る?


私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら何でもできるのです。
第2コリント13章8節



この言葉の通りだとすると、
ここでいう真理とは何なのか?
別の箇所で、このように書かれています。


わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネ14章6節



これは、イエス様の言葉です。ご自身が真理だと言われています。
もう一つ別の箇所では、真理を行うものについて書かれています。


しかし真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
ヨハネ3章21節



ここでいう光とは何か?
イエス様は言われました。


わたしが世にいる間、わたしは世の光です。
ヨハネ9章5節

あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。
ヨハネ12章36節



光はイエス様ご自身であると言われています。
そして光を信じなさいと。
ただ、別の箇所で、人間は光より、やみを愛したと書かれています。


光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
ヨハネ3章19節



ここで言われる光とやみ。
この光は、天地創造の時に、神様の『光あれ』と仰せられた時に、この世に現れたと書かれています。


初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠(ぼうばく)として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光あれ』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみを区別された。
創世記1章1節〜4節



初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。いのちは人の光であった。光は、やみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネ1章1節〜5節



では、光よりも、やみを愛してしまわないようには、どうしたら良いのか。イエス様は言われました。


わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。
ヨハネ8章12節



イエス様を信じて愛し従う者として、光に導かれ、いのちの光をもつことができますように。


真理 = 光 = 道 = ことば = いのち = イエス様



※ 中国の哲学で、道はタオと言われており、その意味として、このように紹介されています。

礼や義などを超越した真理。学ぶことはできるが教えることはできないとされています。


※阿弥陀様は、サンスクリット語が中国に入り、今の阿弥陀様になったようです。

「アミターバ、Amitābha(限りない光)」
「アミターユス、Amitāyus(限りないいのち)」