エレベーターのボタンを押したにも関わらずランプがつかずエレベーターも来ない時がある。なぜ?

そんな時、気持ちが萎縮しているか、自信がない時や、おっかなびっくりの状態の場合が多い。キキは以前に自動ドアが開かない経験がある。それも回数が多い。そんな時のキキの状態はやはり迫力がなく弱々しい。

冬乾燥している日には、金属に触れると静電気でパチッと来てしまう。キキはそれが怖いので、ドアのノブに触る場合もびくびくしている。ある日前の男の人が小さな装置でドアのノブにふれているのを見た。その人はその後素手でドアノブに触ってドアを開けた。パチッとしていない。すかさずキキはそれに続いた。

ある時は手袋しているにも関わらずパチッと来た。この時は大丈夫と思っていたので不意を突かれ、慌ててしまった。予測と反して思わぬ反応が現れた場合、人は戸惑ってしまう。以前父が恐怖はいつ来るか分からない恐怖よりも、来ると分かっている恐怖が怖いと言っていた。しかしこの場合、ドアノブに触るとパチッと来るのは分かっていたので恐怖があって当然だが、手袋していると安心という気持ちが安心をさせてしまった。しかしその予測に反してパチッと来たから、恐怖は増幅されてしまうらしい。

ストレスにもこれに似た反応がある。いっぺんひどく怒られたと人は怒った人に会うと、また怒られると思ってしまう。毎回怒られている場合は逆にストレスになりにくく、怒られたり、怒られなかつたりした方がストレスが増大する。おかしな話ではあるがこれが真実という場合が多い。人とはふしぎなものである。怒られ慣れということもあるのだろうか?とキキは考えた。

上司から呼ばれた時、この前のレポートは頑張ったので褒められるかもと思ったが、全く違うことでこっぴどく怒られてしまった場合、ショックは大きい。褒められると怒られるでは雲泥の差がある。これはストレスになりそう。

恐怖は時間によって作られることがあるという話も父から聞いた。つまりある恐怖を抱えたままにするとその恐怖がひとりでに膨れ上がってしまうというものである。くよくよする人は更に恐怖が大きくなってしまうから恐ろしい話である。

変な期待をしたことで反対のことをされてしまった場合、今後はどんな場合でも期待しないということが起きてしまう。そうなるとある仕事がうまくいって上司から褒められたとしても喜びを感じない体になってしまう。安心のために怒られることを期待してしまうということもあるそうだ。キキには理解できなかった。

シーソーをどちらかに着地させてしまうという行為は、自己防衛反応のひとつであるという。こんな時どのように着地させるのかによってその人の人生が変わってしまうという人もいるほど重要なことである。つまり豊かな人生を送るのか、損な人生になってしまうのか、程の違いがある。

キキは日常のチョットした反応のやり方がその人の人生を変えてしまうのであれば、そのチョットした反応を注意深く観察する必要があると考えた。そしてその具体的な場面ではその時その時の状況によつて判断や評価が異なることが分かった。ということは自分の考えがしっかりしてしないと大変だということが分かった、キキは少しの満足感を味わった。
(つづく)