もう7、8年前になるだろうか。

以前ブログにも書いたけれど

仲の良かった(私はそう思っていた)友人から

「私たち仲が良かったっけ?」と言われたことに

ショックを受けたということがあった。

 

というのも

その方の悩みを相談されたり

仕事が終わって時間があれば

お茶をしたりご飯を食べたりしていたからだ。

 

仲が良いと思っていたのに

あの一言があったので

私の中ではどちらかと言うとネガティブな出来事として記憶に残り

そこから数年後

「そんなこともあったなぁ」と

そのネガティブさも薄れてきたわけです。

 

もう気にしなくもなったし

それはそれで

「そういうこともあるよね」と

わかった風で自分の中で納得していました。

 

なのに

ふと、今朝この経験を思い出しました。

 

なんででしょうね。

 

そう

なんでだろう?

どうして思い出したんだろう?

 

ちょっと考えてみたんですよね。

 

そうしたら

 

「あぁ 自分がそうさせたんだな」って

思えてきたんです。

 

きっと自分がその人に対して

もしかしたらなんらかの無礼を働いていたんだなと。

 

私は友人だと思っていたけれど

接する態度が友人に対する態度ではなかったんだと。

 

だから

あんな一言を言わせてしまったんだと。

 

きっとその方は寂しい想いをされてたんだなぁって。

 

「私たち仲が良かったっけ?」

 

これって結構きつい一言じゃないですか。

そんな一言を言わせてしまって

申し訳なかったなと。

 

全ての源は自分にある。

 

ならば

そう言わせてしまう源は

相手にあるのではなく

私にあるんですよね。

 

これって

「人は自分の鏡」

っていうのと一緒。

 

当時の私の至らなさを

悪役(私にはそう思えた)をかって出てくれたってこと。

 

そのことにすぐ気がつけなかったあの頃の私。

 

なにを勝手に悔しい想いをして、ショックを受けて

ネガティブな経験として心にしまっておいたのか・・・。

 

アホやな・・・。

 

まぁ 今気がつけたから良かったとしておこう。

 

そういえばあの頃は

いろんなことを自分一人で引っ張っていって

とにかく頑張らなくちゃっていう生き方をしていました。

 

理不尽なことがあればそれに腹を立て

馬鹿にされないように自分を大きくみせようとして

男性社会に馴染もうとして強がって

全てに力が入ってたなぁと。

 

今でも

何かと闘ってしまいがちになるけれど

(なるんかい!)

でも

それは自分の無意識レベルでやっちゃうことって理解している。

なにせ庚(こうきん)持ちだから。

そこがわかったから

とっても楽になったし

自分で中庸を保てることができる。

 

それ以上に

いろんなことにジャッジしなくなりつつあることが

いい意味で力が抜けた大きな原因なのかなと思っています。

 

ジャッジも無意識レベルだから

どうしてもジャッジすることはするんだけど

「これは私の正しさだもんね」って

これまた中庸に戻す作業をしてます。

 

そんなことを繰り返してると

ジャッジする機会が減ってきているのが

自分でもわかります。

 

何事もトレーニング。

 

ありがたいことに

こういうトレーニングは嫌いじゃない。

ちょっとSっ気あるのかも(笑)

 

自分自身が生きやすくなるには

そんなトレーニングが必要だと

私は思っています。

 

最初っからそれが出来てる人が羨ましいけど

出来なかったことが出来るようになるのも

それはそれで嬉しいよね。

 

 


札幌はようやく紫陽花の季節。

今日はちょっと肌寒い朝でした。