うーさぎ うさぎ なにみてはねる


十五夜お月様 見て はねる






この童謡から悟りを得る場合、

ウサギは月神の使者であります。
又、うさぎは右左義と解釈でき、その中に道徳の教えが伺えます。


自然界のエネルギーに同調する場合、時計回りと同じ方向の右義は正義のことで、左義は反対回りの悪義のこと


月神様は何を基準にして、正義と悪義を分けるのか?



十五夜お月さん見てはねる~

とありますから、
まんまるい鏡心で、八方方向のどの周囲にとっても前向きに解決出来る意見を発せる人の心を中心にして、左右に振り分ける。
片寄った考えの人に合わせていては丸く治まりません。
ヤタカガミの心の持ち主に合わせ、その様を見て公平に判断して下さるのです。




一人一人で考えるなら、月神の審議する場所は、内臓腑です。

神の審議の結果、本来の理想的な中心より外れたところに義がある場合、気づきを与える為に、その学びに通ずる内臓に病気が発生してくるのが、人の精神と身体の関係の仕組みになっているようです。
その様なことは、すでに解明されていることでもあります。

物質社会の現代人が忘れてしまっているだけのことであります。


病気をしたり、ケガをしたりして、正義から外れていることを察するように教えてくれるのです。


ネガティブな考えの場合、その内宇宙からの知らせを無視して、薬や医者の手に委ねてしまい、自分を省みるのを拒んだ場合、病気は治らないでしょう。例え治ったようにみえても、次の代わりの何かを与えられるだけです。

もしも、学びを受け取らない場合は、残念な結果になります。




人として生まれてきた私達は、命ある間だけが学びの時であり、神様は何時でも私達を審議しているようです。




悟りを得て真理を受け取る場合、頭脳の享受範囲が拡がり、人間は進化していくようです。

そして、学びを受けとらない場合、頭脳の中の爬虫類脳の分野へと退化していく。
そのようなことはあるそうです。







身体の病は“個人の学び”でもありますけれど、社会の病事は“国全体の学び”の時を迎えているというのが現状です。


歪んだ国造りを修正しなければ、横縞な根腐れの国になります。

左義の志しは、“裏縞の国”造りになり

亀(かみ)さんに竜宮城へ招待されてしまいます。


過去において、神の怒りに触れ海に沈められた王国は幾つもあります。


かつては“浦安の国”と呼ばれた日本の国ではありますけれど、今では“浦島の国”と呼ばれても仕方ない程に下の国になってしまっています。


“海底の王国”や“湖の上の国”と呼ばれるようになる前に、国軸が体制を直し、再び、“浦安の国”と呼ばれる日が訪れることを祈ります。




今、月神様が降りてきておられ、国が宇宙の審議にかけられています。

“人間の本質”と“宇宙の本質”とは同じです。

月神様は大祓いのお役目の神様でもあります。

日本の国は大丈夫でしょうか。




日本の国造りは、人間の本質から外れたところで行なわれている場合、どんな方法で修正出来るのでしょうか・・・・・・


神職さん方が祝詞を唱える場合、
まずは、清水で身を禊ぎ、口を濯ぎ白衣を着てから、詠むこと、と記載されています。

また、お経を唱える場合や写経する場合も、同じ意味合いのことが記載されていますけれども、


果たして、どれ程の神職さん達が本当の意味を理解されていらっしゃるのでしょうか。


禊ぎの意味を真剣に考えてみました。




神様に通ずる大切な言葉を唱えるのですから、誰でも おいそれと行える事ではないはずでございますから、


“口を濯ぐ”とは、日々の言葉使いを正しく綺麗に使いなさいという意味合いのはずです。嘘をつかない真実の言葉を使い正義と誠で満たされなさい、と注意されているのだと思います。


そして、“白衣を着る”の意味は

正義や誠の心を行動で現しなさい。信頼される理想的な人になってから、祝詞を唱えなさい!
そうすれば、神様と繋がることが出来、神事を執り行なうことが出来ます。


これは、神様と人間との間に交わされた大切な約束事なのです!


当然、そういう意味を込めて説明されているのだと思います。




実際のところ、

理解されていない方が多い様に見受けられますので、残念に思います。


その場合、神事を執り行っても、神通力は皆無だと思います。


どのくらいの方が理解されていて、実行されておいでになるのでしょうか。




神様は確かに、おいでになられて、天からも見られていますし、至るところから見られていると思います。


どなた様も

一日もはやくお気づきになられます様に。




“イエス キリスト”を
私なりに解釈してみました

とても簡単な絡繰りだと気づいた


キリスト=クリスト

クリストとは、名前のなかった頃に、誰々さんと呼ぶ名称として使われていた・・・

そして、イエスは肯定的な・・・意味なのだから




つまり、
何時でも何処にいても、肯定的な人のこと、

自分に対しても他人に対しても、ポジティブな事を云える人が、イエスキリストだと
いえるのだと思うのです。


そうしますと、その産みの母のマリアは

マリア=真理阿


真理で満たされた人の中から生まれた神様の存在こそ、イエスキリストで

誰でも真理で満たされた人になれば、イエスキリストを生むことが出来るのです。


イエスはウマやで産まれたと云われていますからね、

そういうことならば、


ウマやのウマは右回りのことで、正義の心のことですね!

地球においては、自転や時計回りと同じ右回りのことを正しい回り、右回り=正義と解釈しますので、
ウマやから生まれたとは、正義感で満たされた人から生まれたポジティブの人がイエスです!と説明されているのです。

イエスキリストは世界中に何人いても良いのですから、教会の中の像ではなくて、私達の家の中に居るのです!

たぶん、私の解釈が正解だと思います。


聖書には興味ありませんけれども、たぶん、何が書かれているのか理解出来ると思います。


聖書は聖の人に成る為の解説書であり、私達が人間としての自覚を目覚めさせる為の大切な精神哲学書なのでしょうね。


日本でいうところの祝詞や般若心経や、古事紀など、どれも、同じ意味合いのことが書かれているのだと思っています。




人類が人工の科学の力に負けそうな時に、自分達が何者であるかを思い出す為の、大切な導き書なのだと、気付かされます。