「懸」はいずこに? | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

おはようございます。
久しぶりのブログ更新でございます。

以前の様な長編小説を載せる準備はまだ出来てませんが、まずは私がここ最近で感じたことを、思いのままに書かせて頂きます。
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「神ってる」

若者中心に使用されるこの言葉が苦手であります…。

いや、この言葉が生まれるきっかけとなった、広島の鈴木誠也選手は大好きですよ。
生粋の阪神ファンの私から見ても、彼の全力プレーはとても好感が持てます。

しかし…私としては

「神がかっている」

と言ってほしいな、と切に願うのであります。

勿論、言葉は変化します。時の流れに逆らえません。
明治から昭和初期の文学を原文で私は読めません。

しかし…「神ってる」と「神がかってる」では重要な言葉が欠落しています。

「懸」の字です。

「神がかり」とは「神懸かり」とも「神憑り」とも書きます。

寧ろ、後者の方が一般的かもしれません。
そこで私は思うのです。

「神ってる」は「憑(つ)き物」としての宗教の否定と嫌悪が生み出す要因となったのでは?

全知全能である神をオカルト的なシャーマニズムに貶めない為に「神憑り」→「神ってる」ならば納得できます。

しかし、「神懸かり」から「懸」を抜くのもまた、「あぁ、若者らしいな」と溜め息が出る私なのです。

はい、「懸」は「懸命」の懸です。

「一生懸命」とは本来は「一所懸命」からの派生というのが有力な説だそうですね。
鎌倉時代の守護・地頭により「地縁的結合」は奈良時代以来の「血縁的結合」に勝り、「一つの場所を皆が命懸けで守ろう」というスローガンだそうです。

もう、お分かりですね?
私が言いたいのは

「命懸けの努力をしないで、一方的に無条件な神の奇跡だけを求めるな!」

と言いたいのです。

「神ってる?じゃぁ、貴方はどれだけ神に尽くしましたか?」

と。

カルト宗教の嫌悪は寧ろ健全です。
しかし、スパルタ式の否定や上下関係の拒絶、何でもかんでも軍国主義に結びつけたがる末路かな?とも思います。

「憑き物」は確かに本人の本質を否定してると思いますよ。
それはいいんです。
しかし、じゃぁ、貴方は神の為に献身的に尽くしたマザーテレサに「神ってる」って言えますか?言わないでしょうね。

日本人は敗北の理由を「努力不足」と言い、外国人は「運がなかった」と言うそうですね。

そして何よりも「頑張れ」の翻訳に苦労するそうですね。