聖書のマルコ書及びマタイ書には
「幼児の時に神の国に入らなければ、誰も神の国に入れないのである。」
と。
我が子の幸せを願う親は早い段階にこぞって「洗礼」を受けさせる。
キリスト教信者としてこの一生懸命祈りを込める姿は美しい。
だがそれで「全て解決済み」と思うなら
「笑止!または何をいわんや」
(と、キルケゴールは言った。)
この様な聖書の言葉を言葉通りに振りかざす幼稚な牧師によって、キリスト教とは何とも愛らしい姿となったことか!
(成熟した男女の美しさに比べて赤ちゃんの可愛さだ、とでも言いたいキルケゴール)
その論法ならば、使徒も締め出しを食らうではないか。
(殉教した守護聖人でさえ、生まれながらにキリスト教では無かったではないか!と言いたがるキルケゴール)
何故ならば、小さな時にキリスト教の門に入ったかどうかよく分からないからだ。
(そして、それを伝導する牧師さえ、幼い時に洗礼を受けて『よく分からない』からだ。
つまり、キルケゴールは分別がつかない幼児の内の洗礼が代々続き、中身のない『儀式化』に19世紀中ごろに警鐘を鳴らしている。
宗教=カルト教団と頭から嫌悪する人は恐らくこの部分だろう(笑)。
しかし、しかしです。
稀代の哲学者にて神学部卒で牧師の資格を持つキルケゴールの本領はここからです。
「友よ、もし君が再び『幼な児』になろうと努力するならば、君はキリスト者になるだろう。」
との回答を提示しました。
つまりは、神(絶対者、唯一神)の御前で自分は神の手に抱かれた「子」であるとの認識が生まれた時に真に「キリスト者」となり、「幼き内の神の国」のキルケゴールとしての答えである。
更に
「幼児のうちに洗礼を受け、出来るだけ早くこの世とおさらばして天国に行けりゃ万事解決」
なんて考えは愚劣極まりない。
とまで言ってます。
これをギリシャ多神教の教えで
「若くして亡くなった幼子はエリシオン(天国)で泣き暮らす」と引用しています。
ユダヤ、イスラム、キリストの一神教は夭折を賛美してるが、ギリシャ多神教では天国に行けても幸せでない、とのギリシャ人なりの「智恵とまっとうな考え」を有している、とキルケゴールは言ってます。
これを
「ユダヤ人には躓き(つまずき)、ギリシャ人には愚かな教え」
戒律により智恵を圧縮させたユダヤの限界であり、ギリシャ哲人に取っては簡単過ぎると。
(終わり)