「読書とは、直接学べない人から学ぶ唯一の方法」
byデカルト
「読書とは、自分の頭ではなく、他人の頭で思索することである。」
byショーペンハウアー
ネットの発達により、知識と情報を得やすくなったからこそ、先代の哲学者が残した言葉を肝に命じたいと思います。
思うに歴史認識にズレがあるのは当然でしょう。
諸説あるから面白いし、探求することは学問以外でも己の人生多大な恵みを与えるからだ。
だがしかし、異なる見解に対して、「調べたんだけど~」なんて言い方は、歴史上の人物は勿論、その話相手に対してもあまりにも敬意を欠く態度ではあるまいか?
探求し、答えを模索することは若者の特権ではあるが、「調べたけど~」と記述された事に執着もなく述べるのは「自説」ではない。
「私はこう思う。」の方が遥かに尊敬する。
言っておくが私は、異なる見解を持つ者に対して相手側の情熱に準じて肝要なつもりだ。
つまり私が嫌がるのは自分の立ち位置を明らかにしない「棚上げ評論家」だ。
私が敬愛する人物を批判するにも、歴史的事実の羅列よりは、貴方個人の情熱を訴えてくれた方が遥かに好感が持てる。
まぁ、哲学なんて3000年に渡り批判の矢面に立たされた学問ですから、宗教指導者や無神論者と対峙するのは学問の一環かもしれません(笑)。
過去の哲学者を「思想家」と呼ぼうが、旧約聖書に書かれたユダヤ教徒にとっては「教義」を「神話」と貶めようが、どうせ信仰心の海を泳いでることには変わりがないのですから(笑)。
「信仰は疑いの敗北」
ってのは有限で相対的なものを信仰した時にだけ言えることです。
信仰心を何でもかんでも「妄信」と貶めたいなら間違いではないでしょう。
だからこそ、信仰とは「絶対者」「包括者」「真理」のみを信仰するのです。
私は論理の完全性に拘るつもりもありません。
正論なんてのは副産物だ。
大切なのはどちら側の立場でどれほど情熱的になれるかだ。
私が嫌いなヘーゲルや馬謖や某有名司会者や護衛隊が大好きな人には何の恨みもありませんよ。
ただし弁論術の延長で反証の材料にすることは、著しくリスペクトを欠くだけです。
生前に哲学者は哲学者と名乗らなかった、なんて妄言は形而上学だけが哲学と思い込んでる、少しだけ歴史を学んだ奴が言いそうだな。
そんなことはニーチェやサルトルが既に否定していますから。
「神は死んだ」
の意味を考えましょうね。