無罪投票してくれた諸君とは、私はもっと話したい。
裁判長が判決文を作成している間に、裁判官諸君と語ることに責めは受けまい。
そう、今ここでこそ、諸君を「裁判官諸君」と呼ぶにふさわしい。
私に無罪票を投じてくれた諸君に伝えたいのは、私の内に起こった不思議な出来事である。
私の生涯において「神霊の声」は常に私を諫止するのであった。
しかし、私が法廷に来る時も、弁論の途中にも、神からの警告の徴しはなかったのである。
私はこの事について、
「今、私の身に降りかかったことはきっと善い事であると思われる」
と。
それで私達の中で死を禍(わざわい)であると信ずる者は間違っているといわねばならぬ。
また、
「死は一種の幸福である。」
という理由を裏付けるには、次の二つの中のいずれかでなければならない。
即ち死ぬとは虚無に帰することを意味し、また死者は何ものについて何の感覚をも持たないか、それとも誰かが語るが如く、一種の更生であり、霊魂の移転であるか。
また全ての感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものならば、死は驚くべき利得であるといえる。
もし人が夢一つ見ないほど熟睡した夜を、その生涯の内に数えたとしても、仮にペルシャの大王でさえ、それは僅かな日数でしかないことを発見するであろう。
これに反して死が
「この世からあの世への遍歴」
ならば、実際に過去の死者が住んでいるというならば、冥界で裁判官となったミーノス、ラダマンティス、アイアコス達や、オルヘェウスやホメロスとそこで交わる為になら、どんな高い代価も払うだろう。
少なくとも私は何度死んでも構わない、もしこれが本当であるならば。
私はパラメデスやアイヤスやその他不正の裁判によって殺された昔の人達に逢えるのであれば、彼らと比較して見ることは私にとって、決して少々の愉快ではないだろうと思うからである。
そして最も重要なのは、あの世でもこの世と同じように、誰が賢者で、誰が賢者の様な顔をして振る舞っているかを、過去の死者達全てに試問出来ることである。
そしてそこでは、それを行なったことで死刑になることはない。
この点だけでも、あの世は何と幸福であろうか?
それは誰かが言ったように、誠に『不死』であるのだから。
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最も特筆すべきは、ソクラテスは死後の世界を決して決めつけていません。
「かもしれない」
という態度に終止してます。続