私は
「科学は否定の歴史」
という言葉に否定的です。
勿論、私も今まさに「否定」をしているのですが。
確かに人間が常識を疑わなかったら、人類は月にたどり着くことは無かったし、「冠動脈バイパス手術」
なんか成功しなかったでしょう。
しかし、私が伝えたいのは「科学は否定の歴史」だったとしても、
「科学者の歴史」は必ずしもそうではないからです。
ある日突然、論文や法則が生まれるわけではありません。
科学者は「日常」の中で発見するのです。
その日常は過去の業績に対して「無条件の肯定」があるからです。
馬車のある生活で車を開発し、固定電話の生活圏で携帯電話は生まれ、「日常の恩恵」を肯定するから新しいものが生まれるからです。
私のこの様な考えは、個人のみを賞賛する「偶像崇拝」があるかもしれません。
ノーベル賞を授賞した方のプライベートを特集するばかりで、研究対象を少しも掘り下げないバラエティ番組と私は同列かもしれません。
しかし、人間は生きている限り「生の外側」に飛び出せないのです。
これが私が繰り返しいう
「魚は海を認識しない」
になるのです。
私達は自らの網膜というスクリーンに映った映像を観ているに過ぎないのです。
決して他人の頭の中に入ることは出来ないのです。
他人が殴られても、自分が流血することは絶対にないのです。
だからこそ、思索する必要があるのです。
他人様にとっては自分自身の表層意識なんて関係ないかもしれません。
行動したり実績を残すことの方が重要かもしれません。
しかし、私は社会が押し付ける「努力」があくまで人生の50パーセントだと伝えたいです。
勿論、1パーセントを50パーセントにする努力、49パーセントを50パーセントにする努力は必要です。
理性的に調和が取れた世界なら、文学や芸術は感情を乱すだけの「余計なもの」でしょう。
しかし、ショーペンハウアーが唱えたように、読書は「他人の思考回路」になる必要性を説いてくれます。
死を体験して語ることは誰にも出来ません。
だからこそ共感と謙虚さが必要なのです。
理数の世界のみで「人の死」をまとめるのは簡単ですが、膨大な人類の歴史は他者の死によって、己の死を思索させ、よりよい「生」を送る為に先人達が「贈り続けた」メッセージと思いたいです。
自分達が泳いでる「生の海」と「死という向こう側」は認識出来なくても思索は出来ると思いたいです。