報道論~19世紀を生きた哲人からの警鐘を継承するものからの戯言 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

はじめに。
私は、るろうに剣心が大好きです。
斎藤一様が大好きですが、どちらかと言えば、司馬大先生の小説の中の斎藤一様が大好きです。

るろうに剣心では斎藤一様の次に好きなのが月岡津南です。
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マイナーキャラです。
砲術に長け、絵師であり、赤報隊が壊滅したあとは「絵草紙新聞」を発行し、明治政府の非道を正すことを誓いました。
彼が自らの絵と文で闘うのなら、どの辺りで「マスコミ」と言えるのでしょうか?

「マス」とは「大衆」の意です。「どこの誰々」を決めて発信することを目的としていません。
そして大衆を相手にすることを目的としている以上、全ては「印刷技術の発達」から生まれたことを念頭に置かないといけません。

農家や漁師は手作業から、生産効率を上げる為に技術を求めました。
工場もそうです。大量に生産されることが必要という動機があったからです。

しかし、不特定多数への報道、取り分け新聞の発行は「技術から生まれた」のです。
手作業で自分の為のお米を作っても農家には変わりありませんが、不特定多数に発信する媒体=メディアを所有してない限り、「マス」コミ、「マス」メディアではないのです。

もうお分かりですね。
既存の報道機関は「報道倫理」や「企業理念」で集まった集団ではありません。

テレビ局や新聞社は「私達は発信技術を所有しているだけ」
です。そもそも意思は後付けだということです。

ネット技術の発達により、双方向が発達し、一般大衆が報道各社に意見しやすくなり、即時に伝えることも、一般人のツイッターなどで、既存の報道各社より早く情報を得ることを容易くしています。

「インターネットはマスコミか?」との議論は現在も継続中で、乱暴な括りで言うところの「プロの報道」と「素人の報道」に境界線が無くなってきています。
近年では報道各社は自粛して「マスコミ」では無く、「マスメディア」の単語を使い、『媒体を所有する者』と名乗る方向になっています。

余談ですが、映画が生まれた当時、画家は「映画は記録であり、技術であり芸術でない。」って言ったそうです。
しかし、画家でさえ絵の具や筆、紙は技術の発達に依存しています。

ライフルや核の議論になると、「斧が発明された時から危険はあった」と言っています。

キルケゴールは19世紀半ばに
「大衆の一人になるな」
と言ってます。