過去の哲学者の言葉ではなく、自分の言葉と哲学として、この「学義論」を書かせていただき本当にありがとうございます。
皆様からの意見は私自身の新たな発見となり、これからの生活に大変役立つものでした。
「学義論」はとりあえずこの10回目でひとまず終わりとさせていただきます。
「真に学ぶべきことを取り戻す」
をテーマに書かせていただきましたが、ひとまず伝えたいことは全部書いたので、次回からはまたヤスパースや、「愛」そのものについて語る「仁学論」を独自に展開していきたいですね。
で、歴史、戦争、死、思想と戦後の日本が避けてきたことを書いてきましたが、最後は「信仰心」です。
過去ログにも何度も書いてますが、
1 無宗教と無信仰は違うということ
2 絶対で永遠な「神」や「死」を思惟せずには人間は生きてはいけないということ。
3 法則性、規則性の範囲の中に一生はあるということ。
4 だからこそ私自身の哲学として(今現在の)最高の言葉
「汝、自身を信仰せよ。」
と私は言葉を遺します。
盲目的に既存の宗教の教義と教祖を崇めることが「信仰」ではありません。
己の小ささを知り、大自然の恵みに感謝をし、己の大きな可能性を信じて自己自身を生成することこそが真の信仰心です。
「生、老、病、死」は「個」に訪れる苦しみであり、統計の総和ではない!
世の中にたくさんの情報、知識、知恵が溢れていても、
「私のだけの今後の未来」
を書いてるを書籍はどこにもありません。
だからこそ
「汝、自身を信仰せよ。」
と言います。
神格化した皇帝の様に振る舞えと言っていません。
過去の自分、現在の自分を信じれば、未来の自分を信じられるということです。
大切なのは「道のりそのもの」だと思います。
だからこそ、過ぎ去ったことを結果論的に「運命」を信じるのではなく、(文法上誤りがあるかもしれませんが)「今まで生きてきた人生を信じろ」と言いたいです。
私は幼い時に両親の結婚式の写真を見て、
「自分が生まれていない時の世界」
と言うのをとても不思議に思いました。
「まだ生まれていない」
という振り返りようの無い過去に何とも表現できない「永遠」を感じました。
科学はどこまでも誰にでも当てはまる「客観」の積み重ねです。
しかし、「私」は役所の登録や健康診断の数学ではありません。
だからこそ文学、芸術、宗教があると思うのです。
(終)