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JESSICA40のブログ

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昨日は沖縄の慰霊の日で。

沖縄のこと、本の少ししか知らんけど、ほんと、考えたよ 私なりに。

このまえ、沖縄いって、なんとなく行った、日本軍の地下壕や、前に見た ひめゆりやら、スキューバした 慶良間諸島やら。

儚くて、失われる必要がなかった命が たくさん散ったってことを、いまや、拾おうと思ったら、WEBにはたくさんあるのね。

観光地のイメージが大事なのか、あまり、表に出ないような、サブカルチャーみたいに紹介されてるような、そんな沖縄の話。

これ考えたら、なんで、基地が沖縄にまだあるのか。

許されんのかなー。

って思うけど。





波が打ち寄せる絶壁の上で、輪になって座っていた女性とたちはしくしく泣き
出した。深夜だった。「もう一回、太陽の下を大手を振って歩いてから 死にた
いね」。輪の中の1人がそうつぶやくと、まもなくだれからともなく「ふるさ
と」の歌が始まった。

 すすり泣きが聞こえる。みんな精いっぱい歌っているつもりだが、思うように
声にならない。暗くてお互いの顔もはっきりと見えない。が、涙がとめ どなく
あふれ出ていることだけは確かだった。

 「あの晩のみんなの声がいつまでたっても忘れられません」。翌日起きた悪夢
の集団自決を、思いもよらないことから免れた宮城(旧姓)喜久子さん
(56)=那覇市首里儀保=は、無残な最期を遂げた仲間たちのことを思い出し
て声を落とした。

 昭和20年6月19日、米軍の猛攻撃に追われて宮城さんたちのグループは沖
縄本島南部の喜屋武岬にたどり着いた。

 メンバーは全員で12人。“ひめゆり学徒隊”として沖縄戦に駆り出された県立
第一高等女学校の生徒のうち3、4年生の9人と、途中で仲間に入れ てほしい
と言ってきた地元に住む同校卒業生2人、そして平良松四郎教諭の顔があった。

 このグループは、その2カ月ほど前に“ひめゆり学徒隊”が分散勤務となった
際、球部隊軍医部の経理部として南風原・津嘉山で組織され、当初の人 数は
もっと多かったという。激しい戦火に見舞われて南部へ撤退、糸満・伊原の第1
外科壕に移ってきたが、1週間余りたった6月18日に非情の解散 命令が出
た。壕を脱出して喜屋武岬へ逃げ延びるまでに、何人かが爆風にやられ、息絶え
ている。行方知れずになった者もいた。

 岬に着いた時は、すっかり日が暮れていた。その時の模様を宮城さんは振り返る。

 「大雨の夜でした。私たちは、そこに着く直前にはぐれてしまったらしい石川
義雄先生と仲栄真助八先生の2人を捜そうと必死で、アダンのトゲに足 を刺さ
れながらも一帯を歩き回ったものです」

 「せんせーい、せんせーい」と何度も大声を上げて呼んだが、いっこうに返事
はない。女生徒たちはワーワー泣き出していた。雨足は弱まるどころか 勢いを
増すばかり。2人の先生がどうしても見つからず、あきらめの表情に変わった生
徒たちは、とたんにものすごい疲労感に襲われた。

 「そのままアダンの根元に腰を下ろし、ずぶぬれの状態で横になりました。食
べ物を口にしなくなってどれだけたっていたでしょうか。おなかがすい て、の
どもカラカラ。せめてのどだけでもうるおそうと、何か臭いなと思いながらも近
くのたまり水を飲み、いつの間にか寝込んじゃいました」

 あくる朝、目をさました宮城さんは周りを見渡してびっくりした。ブヨブヨに
膨れ上がった死体がいっぱい。ウジも湧いていた。「そう言えば、昨 夜、臭い
と思いながらも飲んだ水は…」

 慌てて飛び起き、海岸べりへ一目散に駆け出して行ったという。




 膨れ上がった死体の群れから逃げ出すように海岸べりまでやってきた宮城喜久
子さんら“ひめゆり”の経理部グループ12人は、そこで多くの避難民 を見た。
宮城さんら県立一高女生と同様、“ひめゆり”として組織された師範学校女子部の
生徒たちもいる。そこは大きな入り江になっていて、人々は 波打ち際に群がる
ように休んでいた。

 宮城さんはその中に、師範生を引率していた仲宗根政善教諭を見かけた。

 「血だらけでした。確かその前の晩にも一度見かけたんですが、けがをしてい
るということは暗くて気付きませんでした。日差しの下で見ると、もう 顔面は
そう白。ひと言もしゃべらず、ぐったりして岩陰に横たわっていました」。ただ
先生の周りには師範生たちが何人かいて、「私たち一高女生が手 当てに当たる
には及ばない。大丈夫だろう」と宮城さんらは胸をなで下ろしたという。

 しばらくすると、その波打ち際に米軍の上陸用舟艇が近づいてくるのが目に
入った。船上の米兵らは盛んに両手を動かして何か叫んでいる。投降を呼 び掛
けているらしい。「危害は加えない」「助けてやるから出て来なさい」などと
言っているようだった。背すじが寒くなったその時の思いを宮城さん は振り返る。

 「捕まったら最期、いたずらされてひどい目に遭うに違いない。そのあときっ
と、戦車でひき殺されるんだ。そんなふうに信じ切っていました。幼い ころか
らアメリカ人は鬼だ、としか教えられてきませんでしたからね」

 女生徒たちは背中を丸め、ガタガタ震え出した。アメリカ兵は今にも自分たち
を襲ってきそうな気配。息を殺し、じっとしているしかなかった。

 半日くらいたっただろうか。依然として震えはおさまっていない。いたたまれ
なくなって、ついに岩場を飛び出し、みんなでアダンの木の茂っている 方に移
動した。が、落ち着く間もなく、生徒たちを激しい火えん放射器の攻撃が襲う。
アダンの木は燃えさかり、炎に包まれた宮城さんたちは、いぶり 出された形と
なってそこも飛び出さざるをえなかった。

 再び海岸線へ―。険しい岩場をはだし同然でくぐり下りていった。「卒業した
先輩の瀬良垣えみさんと4年で同級生の宮城登美子さんが負傷していま した。
岩場を駆けるものだから表情が痛々しそうで、かわいそうでしたよ。でも、手当
てをしてあげる余裕はなく、みんなで励ましてやるだけでした」

 着いた海岸も決して安全な場所とは言えなかった。「いつか米兵に狙い撃ちさ
れてしまう」。そこで、海岸伝いに喜屋武岬から具志頭の港川方面に突 破して
いこうということになり、波の打ち寄せる岩陰の下をカニがはうようにして恐る
恐る進んでいった。宮城さんはその時のことをはっきりと覚えて いる。

 「どのくらい歩き続けていたでしょうかねえ。不自然な格好だったんで、もう
へとへとの状態。と、その時、遠くに日本軍の兵隊たちの姿が見えたん です。
そして怒鳴るんです。おまえたちはバカか。女、子どもがここを突破できると
思っているのか。絶対にだめだ、とね」

 そういった声を耳にして生徒たちはお互いに顔を見合わせた。寒々とした波が
一段と強く絶壁にたたきつけている。「もう潮時。先生、ここを登りま しょ
う」と生徒の1人が言った。ところが、振り仰いであまりの高さに一瞬たじろい
でしまったという。

 「とてつもない高い壁でした。けれども歯をくいしばってよじ登ったんです。
今思うと、とても考えられない腕力と度胸でしたが…。そして、そこが 集団自決
の場所になったんです」


 喜屋武岬から波打ち際を伝って進んできた宮城喜久子さんたちは、荒崎海岸ま
で来て港川行きを断念、そこから岸壁をよじ登った。みんなで12人。 ここ2
カ月ずっと行動を共にしてきた仲間だった。

 「兼城さん(宮城さんの旧姓)、もう自決しよう。自決しないとだめよ」。全
員が岩の上に登りつめたところで、3年生の1人が宮城さんに乞(こ) うよう
な目で言ってきた。「もう少し待ってみましょう。師範生もいるようだし、
ひょっとしたらはぐれた先生たちに会えるかも知れない。仲栄真先生 も石川先
生もきっと私たちのことを捜しているでしょうから…」

 最上級の4年生だった宮城さんは、そう言ってその3年生の後輩をしきりにな
だめた。「その子はとってもまじめな子でね。前の晩からしょっちゅう “自決し
よう”とすがり続けていたんです」

 死を覚悟したその日は、宮城さんによると20年の6月20日。手帳にそう書
いてあったという。

 夜になっていた。目の前に広がる海には数え切れないほどの軍艦が、薄暗い中
で不気味に砲口を向けている。かといって後方に逃げ出すわけにはいか ない。
火炎放射のえじきになるのが目に見えているからだ。もう全く身動きの取れない
状態だった。

 「軍艦からはマイクでしきりに何か叫んでいました。船は目と鼻の先のような
ものだから船上で手招きしているのがよく見えましたが、私たちには悪 魔の手
招きにしか思えなかったですね。捕まったら八つ裂きにされる、としか頭にはな
かったですから」

 途方に暮れたみんなは絶壁の上で輪をつくり、海の方に向かって腰を下ろした。

 「どうしよう」

 1人がそう言った。それに答えるように「自決する」とだれかのきっぱりした
声が返る。

 「うん、自決しような」

 ここまで11人の女の子たちを引率してきた平良教諭も、しようがないな、と
いう顔をして言った。車座になった生徒たちはつばを飲み込み、うなず いた。

 ところが、手りゅう弾が1個しかなく、果たして全員死ねるか心配になった。
「戦後に聞いた話ですがね」と前置きして、宮城さんが手りゅう弾調達 のいき
さつを語る。

 「私たちのグループから少し離れたところに天願さんとかいう方がいらして、
前に平良先生が自決用に手りゅう弾をあげてあったらしいんです。それ を先生
が再びその人の隠れている穴まで行って取り返してきたそうです。“ぼくたちは
手りゅう弾が1個しかなく、12人が死ぬには足りないから”と 言ってね」

 平良教諭は天願さんから取り戻してきた手りゅう弾を「兼城、お前が1個持っ
ておけ」と言って宮城さんに手渡した。「それがあれば何とかなるか ら、いざ
と言う時はその手りゅう弾を腹に当て、みんなの中に飛び込むんだ。そうすれば
みんな死ねるから」

 そういった平良教諭の話を宮城さんは「ああ、そうですか」といった感じで平
気に聞けるのだった。

 死ぬことが決まり、みんなは所持品を捨てることになった。宮城さんも入隊前
の学生時代からずっと持っていた救急医療のかばんから中身を取り出 し、暗い
海の中へ次々と投げ込んでいった。その中には、入隊時に寮のアルバムからはぎ
取ってきた家族の写真もあり、束ねられたまま波に吸い込まれ てしまったという。
 喜屋武岬から波打ち際を伝って進んできた宮城喜久子さんたちは、荒崎海岸ま
で来て港川行きを断念、そこから岸壁をよじ登った。みんなで12人。 ここ2
カ月ずっと行動を共にしてきた仲間だった。

 「兼城さん(宮城さんの旧姓)、もう自決しよう。自決しないとだめよ」。全
員が岩の上に登りつめたところで、3年生の1人が宮城さんに乞(こ) うよう
な目で言ってきた。「もう少し待ってみましょう。師範生もいるようだし、
ひょっとしたらはぐれた先生たちに会えるかも知れない。仲栄真先生 も石川先
生もきっと私たちのことを捜しているでしょうから…」

 最上級の4年生だった宮城さんは、そう言ってその3年生の後輩をしきりにな
だめた。「その子はとってもまじめな子でね。前の晩からしょっちゅう “自決し
よう”とすがり続けていたんです」

 死を覚悟したその日は、宮城さんによると20年の6月20日。手帳にそう書
いてあったという。

 夜になっていた。目の前に広がる海には数え切れないほどの軍艦が、薄暗い中
で不気味に砲口を向けている。かといって後方に逃げ出すわけにはいか ない。
火炎放射のえじきになるのが目に見えているからだ。もう全く身動きの取れない
状態だった。

 「軍艦からはマイクでしきりに何か叫んでいました。船は目と鼻の先のような
ものだから船上で手招きしているのがよく見えましたが、私たちには悪 魔の手
招きにしか思えなかったですね。捕まったら八つ裂きにされる、としか頭にはな
かったですから」

 途方に暮れたみんなは絶壁の上で輪をつくり、海の方に向かって腰を下ろした。

 「どうしよう」

 1人がそう言った。それに答えるように「自決する」とだれかのきっぱりした
声が返る。

 「うん、自決しような」

 ここまで11人の女の子たちを引率してきた平良教諭も、しようがないな、と
いう顔をして言った。車座になった生徒たちはつばを飲み込み、うなず いた。

 ところが、手りゅう弾が1個しかなく、果たして全員死ねるか心配になった。
「戦後に聞いた話ですがね」と前置きして、宮城さんが手りゅう弾調達 のいき
さつを語る。

 「私たちのグループから少し離れたところに天願さんとかいう方がいらして、
前に平良先生が自決用に手りゅう弾をあげてあったらしいんです。それ を先生
が再びその人の隠れている穴まで行って取り返してきたそうです。“ぼくたちは
手りゅう弾が1個しかなく、12人が死ぬには足りないから”と 言ってね」

 平良教諭は天願さんから取り戻してきた手りゅう弾を「兼城、お前が1個持っ
ておけ」と言って宮城さんに手渡した。「それがあれば何とかなるか ら、いざ
と言う時はその手りゅう弾を腹に当て、みんなの中に飛び込むんだ。そうすれば
みんな死ねるから」

 そういった平良教諭の話を宮城さんは「ああ、そうですか」といった感じで平
気に聞けるのだった。

 死ぬことが決まり、みんなは所持品を捨てることになった。宮城さんも入隊前
の学生時代からずっと持っていた救急医療のかばんから中身を取り出 し、暗い
海の中へ次々と投げ込んでいった。その中には、入隊時に寮のアルバムからはぎ
取ってきた家族の写真もあり、束ねられたまま波に吸い込まれ てしまったという。


 自決を覚悟した女生徒たちはそれぞれ持ち物を整理、多くは次々と海へ投げ込
んでいった。でも「どうしても捨てられないものがいくつかあった」と 宮城喜
久子さんは振り返る。

 一つは日記帳。今日、宮城さんが日時や人数を明確に把握しているのは、この
日記帳の記録のお陰だ。「毎日の出来事を書き込んでありましたから ね。捨て
られませんでした」

 万年筆や書類も手元に残すことにした。行方不明の石川教諭から前に預かって
いたもので、「書類は特に重要なものに思えましたので…」と宮城さ ん。軍服に
は大きな胸ポケットが付いていて、そこにしまい込んだという。

 しかし、多くは“証拠”隠しのために捨てた。「卒業式の日、みんなに回して書
いてもらった思い出のサイン帳もそうです。後生大事に持ち歩いてい たんです
がね」。家族の写真なども絶壁の上から投じられ、海の中に吸い込まれていった。

暗やみだった。「もう一度、お父さんとお母さんに会ってから死にたいね」。
板良敷良子さんがポツリとつぶやいた。輪になって座っている女生徒た ちのあ
ちこちからすすり泣きが聞こえてきた。

 「やがて“ふるさと”の歌が始まったんです。だれが歌い出したか知らないけれ
ど、みんながだんだんと声をそろえ始めてね。けんめいに歌ったもの です」。
宮城さんは懐かしそうに当時を思い出し、板良敷さんの話を続ける。

 「彼女は一人娘でね。私と同級生。とってもきれいなかたでした。“もう一度
親に会いたい”という声を思い出すと胸が締め付けられるようです。本 当にかわ
いそうです」

 いよいよ最期だということで、その夜、比嘉三津子さんという先輩の1人が
持っている米をみんなの前に広げた。「ごはんを作ってあげるからね」と 言
い、再び米をかき集めて飯ごうに入れた。そしてアダンの葉のようなものを燃や
して炊いた。

 「古くなった米でね。カビ臭くなっていました。それを塩水で炊くもんだから
とても食べられたものじゃありません。でも、とってもひもじかったで すから
ね。炊けたごはんを比嘉さんが“食べなさい”とみんなの手に少しずつ分けてくれ
ました。みんなはそれを泣きながら口にしましたが、もう臭く て嫌な味。私だ
けはどうしても食べ切れず、もったいないと思いながらも残してしまいました」

 車座になって話していたみんなは近くに小さな穴を見つけ、そこにもぐり込ん
で体を横たえた。「疲れ果てていたはずですが、ろくろく眠られなかっ たです
ね」と宮城さんは振り返る。

 間もなく夜が明け、日差しがまぶしくなった。昨夜入り込んだ穴は意外に小さ
かったようで、窮屈だった。「私と3年生の比嘉初枝さん、それに平良 先生の
3人がその穴からはみ出しちゃったんです。突っ立ったような格好になってし
まって…」

 3人の姿は、近くまで来ていた米兵からまる見えになってしまった。


仲間が方を寄せ合っている岩穴からはみ出してしまった宮城喜久子さんは、前方
の海で銃撃される日本兵の姿を見た。

 「米軍の艦船が相変わらず投降を呼び掛けている時でした。“早く泳いでこい”
とか“泳いできたものは助けてやる”とか叫んでいたんでしょうね。 それを聞い
て近くにいた日本兵の1人が上陸用舟艇に向かって泳いでいったんです。そした
ら、その後ろから“憶病者”とばかりに別の日本兵が狙い撃 ち。弾は命中、泳い
でいた日本兵の周りはみるみる真っ赤に染まっていきました」

 日本兵が同じ仲間の日本兵を撃ち殺す―。そういった生々しいシーンも宮城さ
んは「無感覚で見ていられた」と言う。「連日の戦禍で神経がマヒして いたん
でしょうね。あんな恐ろしい場面にも平気なんですから、戦争とは怖いもんだと
つくづく思います」

 撃たれたのは朝鮮人の軍属のようだった。「軍服が普通の日本兵と違ってラフ
な感じでしたから」。当時、日本軍は朝鮮人のことを“半唐人”と呼ん で冷やか
していたとかで、宮城さんも「半唐人がやられているなあ」という感じで様子を
ながめているだけだったという。

 ぼんやりしていた宮城さんの頭上に太陽が差し掛かってきた。「もう昼になっ
たのか」。そう思った直後に異変は起きた。

 「敵兵だ」。突然、血だらけになった日本兵が大声をあげながら宮城さんらの
いた岩場に駆け込んできた。はみ出ていたのは3人。平良教諭はとっさ に生徒
9人のいる穴に強引に突っ込み、宮城さんと比嘉さんの2人は反対側の小さな穴
に反射的に潜り込んだ。

 同時に、米兵による激しい銃撃が襲ってきた。小さな穴は一瞬のうちに血の
海。ほんの数秒、息をする間もなく起きた悪夢を宮城さんは振り返る。

 「もう、めくら撃ちだったですね。私たち2人の潜り込んだ穴は師範生のグ
ループが何人かいて、出口近くにいた安富祖嘉子さんという人が即死。口 から
血を出し“ウーン”と私に寄り掛かってきました。“あっ、どうしたの”って声を掛
けているうちに、周りでは上地一子さん、仲本ミツさんといっ た師範生たちも
バタバタと倒れていくんです。すっかり動転してしまいました」

 死人が続出する中で、重傷の人たちも「痛いよう痛いよう」としきりに泣き叫
んでいる。小さな穴は、うめき声と血の臭いでまさに阿鼻叫喚(あび きょうか
ん)の状態。

 奇跡的にも無傷だった宮城さんは言う。「私は即死したみんなに囲まれ、助け
てもらったようなものです。みんなは私をかばうようにして息絶えてい ました
からね」

 そんな状態だったから自分たち一高女グループの方がどうなったか心配する余
裕などなく、その中に飛び込んでいった平良教諭のこともその時は頭に なかった。

 隣の穴で平良教諭以下10人の仲間が自決しているのを目撃したのは、それか
らしばらくしてのことだった。

「けが人は出せーっ」という大きな声で宮城喜久子さんはわれに返った。叫んだ
のは師範学校の与那嶺教諭だった。「ハッとしてね。気づいたら手りゅ う弾を
しっかりと握りしめている。そうだ、私は隣の岩穴にいる一高女の仲間たちと一
緒に自決するはずだったんだ、こうしてはいられないと慌てて腰 を上げたんです」

 米兵によるめくら撃ちで死傷者が散乱する壕の、奥の方の出口から宮城さんは
飛び出した。そして、びっくりした。

 「銃を持ったアメリカ兵がいっぱい。構わず自分たちのグループがいた所へ行
こうとしたら、取り囲まれて銃を突きつけられました。すると、そばに いた比
嘉初枝さんが『兼城さん(宮城さんの旧姓)手りゅう弾を下に置いて』って叫ぶ
んです。どうしようかと考えたのですが、結局アメリカ兵の顔色 をうかがいな
がらそっと手りゅう弾を下に置きました」

 米兵はそこで、突きつけていた銃を放してくれたという。が、ほんのひと呼吸
おいて宮城さんは心臓が止まりそうになるほどの衝撃を受けた。近くの 穴で平
良教諭以下、一高女の経理部グループ10人が死んでいるのが目に入ったから
だ。集団自決を遂げていたのだ。

 「駆け寄って見ると、平良先生が穴の真ん中で倒れている。生徒たちも周りで
ぐったり。肉が飛び散り、ある3年生の女の子なんかは顔面が血だらけ でね。
私の頭の中はすっかり混乱してしまいました。あまりのショックで涙さえ出てこ
なかったのを覚えています」

 しばらくぼう然としていた宮城さんはやがて気を取り直し、その岩穴の少し下
の方に下りてみた。すると奥の方で、昨夜「お母さんに会いたいね」と 言って
いた板良敷良子さんをはじめ、4年生の宮城貞子さんや普天間千代子さんといっ
た人たちが倒れているのが見えた。

 「その人たちは顔がちゃんと残ったまま息絶えていました。とてもきれいな死
に顔でした」

 このほか、同じく4年生の宮城登美子さん、3年生の金城秀子さん、座間味静
枝さん、浜比嘉信子さん、それに卒業した先輩の比嘉三津子さん、瀬良 垣えみ
さんたちも最期を遂げていた。比嘉さんと瀬良垣さんの2人は“ひめゆり隊”のこ
とを耳にし、途中から仲間に入れてほしいと願い出てきたばか りに、命を落と
すはめになってしまった。

 浜比嘉さんは宮城さんの一番の仲良しだった。集団自決の前の晩に“敵に捕
まったら殺されるから早く死のう”と言ってとてもおびえていたのが、こ の浜比
嘉さんだ。

 幼い時に父親を亡くしたとかで、母親が手内職で育て上げ一高女に入れたとい
う。「入学式の日、寮にお母さんが見えられて同じ部屋に決まった私に 『娘を
よろしくね』と頼まれたのを思い出します」と宮城さん。

 「お母さんは娘だけを頼りに生きていたらしく、終戦直後に娘が戦死したこと
を聞き、間もなく南米のアルゼンチンに渡って行きました」

 その母親が5年ほど前、30数年ぶりに一時帰国した。宮城さんの案内で、娘
の戦死した糸満・荒崎海岸を訪れた母親は「沖縄に帰るとどうしても娘 のこと
が思い出されてたまらなくなるから、ずっと帰ってこれなかった。でも、初めて
戦死場所でお参りできてホッとした」と言葉少なに話していたと いう。


 級友たちの集団自決現場を目撃、ショックを受けていた宮城喜久子さんは、再
び銃を持った米兵たちに取り囲まれた。そして、大事に持っていた万年 筆を
「オミヤゲ」と言って取り上げられた。

 「それは石川先生から預かっていた大事なもの。前の晩、身辺整理をした時に
も捨てることができず、ポケットへしまい込んであったものでした」

 宮城さんはこう言って、悔しい思いをした当時を振り返る。「アメリカ兵は白
人でもないし、黒人でもない。メキシコ人みたいな感じですね。顔だけ は今で
もはっきり覚えています。それと“オミヤゲ”とはっきり日本語で言ったのが印象
的。“ヘイッ、スクールガール”とも言っていました」

 何人かいた女の子たちはおかっぱ頭にそろいの服。学徒隊であることを既に聞
いていたのであろうか。「アメリカ兵たちに冷やかされているうちに涙 があふ
れ出して、もうどうしようもなくなったんです」と宮城さん。

 泣いている間も米兵らは岩陰から負傷している人たちを次々と運び出してい
た。見ると、顔見知りの女生徒が近くで死んだようにぐったりしている。 そこ
へ米兵が注射器を持って近づき、その女生徒の腕にうとうとした。

 「殺されていまう」。一瞬、宮城さんは飛び上がらんばかりに驚いた。注射し
ようとしているのはどうも衛生兵らしい。「針が入らない」とか言って 何やら
騒いでいる。

 「アメリカ兵に捕まったら八つ裂きにされる、としか教えられていませんから
ね。衛生兵とはいえ怖くて見ていられなかったんですよ」

 そうしていると、同じく近くにいた先輩の1人が「私が代わりにやりましょ
う」と言い寄り、注射器を衛生兵から奪い取って女生徒にうったという。 「結
果的にはそれで助かったんじゃないでしょうか」

 命拾いしたその女生徒から戦後聞いたことを宮城さんは話す。

 「彼女はその時、意識がもうろうとしていたそうです。あちこらけがしてい
て…。今でも体の中には弾が残っており、寒い冬になるととても痛むんで すっ
て。そこをどこかにぶつけた時、中で引っかかるのがよく分かるそうですよ」

 荒崎海岸から宮城さんは糸満の街まで歩かされることになった。けが人をお
ぶってアダンの木々をくぐっていった。炎天下だった。

 「本当に初めて太陽を振り仰ぎましたね。太陽の下を大手を振って歩くという
気分にはとてもなれませんで、時には弾も飛んでくるなど異様な感じで した」

 後からは銃を構えた米兵が付いてきた。時折、持っていた水筒を差し出しては
「飲みなさい」という感じで声をかけられる。宮城さんが「イヤッ」と 顔をそ
むけると、「ノーポイズン」と説明するような目をして言うのだった。

 「毒は入っていないから安心しろ、という意味だったんですね。でもその時は
全く意味が分からず、ほかにもガムとかいろんなものを出されたんです が、み
んな“いらない”と言って断ったものです。のどはカラカラ、腹もペコペコでした
けれどね。絶対にもらわないという気持ちで、むきになってい ました」

 そしてフラフラしながら歩き続け、やがて糸満にある大きな収容所にたどりつ
いたという。

糸満のはずれにあった収容所内は避難民でいっぱいだった。住民はほとんど死ん
でしまったとばかり思っていた宮城喜久子さんは、彼らの前を歩きなが らとて
も不思議な気持ちがしたという。

 「自分だけが生き残り、捕まってここに連れてこられたとばかり信じていたの
で目を丸くしたものです。そこではみんな何かしら食べている。身なり はあま
りよくないけれど、座って何やらおしゃべりしている人も。金網があって、その
中にフンドシ1枚の男たちが入れられていたのも覚えています」

 やがて日が暮れ、宮城さんもそのまま地べたに横になり、体を休めた。肌身離
さず持っていた日記帳によると「昭和二十年六月二十一日の晩」と書か れている。

 夜中になって、同じく収容所に連行されていた与那嶺教諭が宮城さんを呼び寄
せ、小声で「あとでいろいろ調べられるだろうけど絶対に学徒隊員だっ たと言
うな。ただ生徒だったとだけ言うんだ。看護隊だったことが知れると大変な目に
あうからね」と強く口止めした。「そのことがとても印象に残っ ている」という。

 間もなく宮城さんは糸満から本島北部の久志地区まで移動することを命じら
れ、そこまでの長い道のりを歩かされた。「それからは孤児同様の日々。 周り
からはかわいそうにと言われていました」と当時を振り返ってにが笑いする。

 最初に仕事をさせられたのは米軍の病院だった。負傷している民間の人たちの
手当てを手伝っていたが、その後、各地の収容所を転々。真栄原地区ま でやっ
て来た時に父親を見つけ、思わぬ家族との再会になった。初めに収容されてから
実に3カ月目で、9月になっていた。

 戦後、宮城さんは何度か糸満・荒崎海岸の集団自決現場を訪れているが、その
度に水とおにぎりを抱えていく。

 「自決した級友たちの最後の食事は潮水で炊いたごはん。それもカビ臭くなっ
たお米でね。だから、おにぎりをいっぱい岩陰に供えてお参りするんで す。た
くさん食べてちょうだいって言ってね」

 戦後、結婚して子どもにも恵まれた宮城さんは「私なんか幸せです。楽しいは
ずの青春時代は奪われましたが、生き延びたあとで少しは人生を取り戻 したと
思っていますから。それだけに若くして生涯を終えた級友たちがふびんで…」と
無念な表情を見せた。



無駄な生き方してる俺なんかと、生まれる時期を交代してあげたかったとおもうよね。
思うのは簡単だけど。

こーいうことや、きっと、もっとある ほんとの話を知ってから、沖縄いかにゃならんね。