手を引かれた。

 

 

3限目は体育館だから、

食堂のから揚げが売り切れるから、

17時34分発の電車に乗りたいから。

 

 

 

明日はこっちにあるから。

 

 

 

同じクラスにいた一人の友人はそうやってよく私の手を引いてくれた。

私はトンネルの出口がわからなくて立ちすくんでいる、小さな子どものようだった。

 

 

泣くことにも苦しむことにもだいぶ前に飽きて、諦めて、

手を引かれるときにほんの少しだけ見えるような気がする細い光の筋だけを頼りに、水槽の中で窒息しそうになりながら時間を重ねていた。

 

 

ここは多分、私が泳ぐ水槽ではないのだろうと思った。

でも、その世界には水槽が一つしかないから、そこで泳ぐしかなさそうで。

 

 

泳いでいても息が苦しくならない水槽がどこかにあるのだろうか。

 

 

そんなものがこの世界に存在するのだろうかと考えていると、

友人はいつの間にか私の手を握っていた。

 

 

 

友人はいつも、お日様のにおいがした。

友人を思い出すとき、健康的に焼けた肌と並びの良い白い歯、

引き締まった筋肉質な身体を思い出す。

 

 

今、思うとほんとうは太陽の子だったのではないだろうか、

なんて考えるほどには友人は太陽のよく似合う人だった。

 

 

太陽の子、ではなく太陽そのものだったのかも。

 

 

柔らかい光が眩しい人だった。

 

 

 

友人にはもう3年、会っていない。連絡もしていない。

 

 

メッセージアプリに表示されるお誕生日のときにだけ、

友人のユーザー名のところに向けて私はおめでとう、と精一杯に心を込める。

 

 

 

私は友人に手を引かれた今日を生きている。

 

 

当時、友人が手を引いて連れて行ってくれた「明日」は今日になり、

今日に繋がっていて、きっと、また、明日になる。

 

 

 

あのとき、手を引いてくれて、私の「明日」を見つけてくれてありがとう。

 

 

 

今日の私は手を引かれることなく明日を見つける。見つけられる。

見つけられなくなったとしても空を見上げて、太陽は見つけられる。

 

 

 

 

だから、大丈夫。

 

 

 

 

 

 

大丈夫になったよ。