
プロアマではなく表現する音楽
歌プロ主催のヨーコです。お久しぶりです^^
3年半に及び開催してきた歌プロを7/8に終演してから、気がついたら、このBlogを全く更新していませんでした。
自分のブログでは、歌プロについてのこと、少しずつ書いていたのだけどね。
実はここのところ、今までとは、全然別のマグマが、グツグツと煮えたぎってきているように感じています。
プロになるだとかアマチュアだとか、そういうことではなく『表現する音楽』としての歌を歌いたい人の場を用意したい。
幼い頃から歌っていたタイプではなかった
自分を振り返ると、小学生の時はいっていたリコーダー部が、なぜか一度だけ合唱コンクールに出たことがあったのが、はじめての歌との接点。
それから中学高校と合唱部で、高校は音楽科、そのまま大学は芸術大学の音楽学科にすすみました。
なんというか、歌うこと=仕事という感覚で、ずっと歌と接していたわけです。
湧き出てくる情熱が消えた日
そうやって大人になって、32歳で結婚したら、とたんに歌が作れなくなって、音楽から離れてしまった。
そうはいっても、歌う場はなんだかんだといただいていたので、300人ほどのお客さまがいる前では歌わせていただいていました。
だけど、歌ってたんだけど、なんだろう、自分の奥底から湧いてくる気持ちがなくって、どんどん歌から離れていきました。
コンサルタントのお仕事も楽しかったし、もう歌を歌うことはないのだろうとやめたのだけど(電子ピアノも売り払った!)、どこからともなくこの、歌プロというお仕事がスタートしたのです。
正直いうと、なかなか歌プロを受け入れられなかった。
なんというか、だっさいと思ってたんだよね。
歌で成功しなかった人が、音楽セラピーみたいなことをするって、ものすごく負け組な感じがして。
いや、そういう意味ではめちゃくちゃ負け組なんだけど、そういう自分が許せなくて。
でもその気持ちとは裏腹に、ステージにたつみんなはとっても感動していて、観に来ていたお客さまはみんな最初から最後まで涙していた。
何が言いたいのかというと、音楽セラピー上等ということだ。
音楽は誰のものなのか
音楽は、特別な人のものではない。
というのが、ここのところの阿部家の結論。
プロであるとかアマチュアであるというくくりで話すと、音楽は特別な人のものかもしれない。
でも、表現という音楽というくくりで話すと、音楽は全ての人類のものであると。
実家の母がよく『赤ちゃんはおぎゃあと生まれた時から鳴き声という歌を歌い』と表現していたのだけど、まさにである。
自分を表現したい。
そのためのツールとしての音楽。歌。
聞き手を無視した音楽は音楽ではない
やっぱりわたしにとっての音楽は、そうとしか捉えられないし、そうでしかない。
だから、自分の中から沸き起こる何かを表現するのではなく、自分と周りの間に生まれる感動を引き起こす歌しか提案できないけどね。
他者との関わりの中で、はじめて命が宿る歌。そんなイメージ。
だから、聞き手は必要なんです。
歌にとって、聞き手は必要で、聞き手を意識しない歌は、オナニーシング。
自分の中から湧き上がるものを表現したいだけなら家で歌っておけば良い。そっと。
でも、聞いてもらいたいのなら、聞き手を意識しないとそれは表現にはならない。
少なくとも、私の音楽に対する価値観はそう。
聞き手があっての音楽。
伝えたいことが伝わってはじめて表現と呼ぶのです。
なんとなく、頭の中では、こういうことをしていきたいと見えてきてはいます。
でもまだ固まりきっていない。ぜひヒントが欲しいので、
もしあなたが、阿部ヨーコから本気で音楽を学ぶとしたら、何を学びたいかぜひ教えてもらいたい。
ここのコメントでもいいし、歌プロLINE@でも。
@utapro で検索→追加を。
このBlogでは、表現としての音楽について、引き続き書き記していきますね!
ではまた。