みかんの気まぐれ読書記録。

みかんの気まぐれ読書記録。

ある社会人の雑記。本の感想が多め。

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元々、アメトークの読書芸人で又吉が紹介しているのを機に読んでみようと思っていた小説。

 

まるまると太っていて人を疑うということを知らないお母さん、肉子ちゃんと、

ほっそりとしていてかわいらしいが、心は妙に達観している小学生の娘のきくりんを取り巻く小さな港町の人々のお話。

 

久しぶりに、小説を読んで泣いたかもしれない。

最初は、方言でなされる会話が読みづらかったり、何かが起こりそうで起こらないのんびりとしたペースに

あまり読み進まなかったけれど、半分を過ぎたあたりから一気にのめりこんで数時間ほどで読んでしまった。

 

この本は、どんな人にも生きているということを肯定してくれる、やさしい物語だと思う。

 

以下、ネタバレ注意。

 

 

一番胸にぐっときて涙が出たシーンは、

主人公が盲腸になって、サッサンに、どうしてこんなに苦しかったのに今まで我慢して何も言わなかったんだと叱られた時に、

「私は、望まれて生まれた子じゃないから」と言った場面。

 

主人公は、実は、肉子ちゃんの実の子ではなく、肉子ちゃんが風俗店で知り合い

実の妹のように可愛がったみうという女が産んだ子供だったことが、物語の後半で明らかになる。

(それまでも、あまりにも外見が似ていないことや性格も全く似ていない点等、不自然な部分は見受けられるけれども)

しかも、みうが借金を返すために風俗店で営んだ不特定多数の男内の誰かとの子供だ。もはや誰の子供かすら定かではない。

 

それでも、赤ちゃんを授かることができない身体なのだと思っていた自分も赤ちゃんを授かることができるのだと知って、みうはとても幸せに思う。

そして、お姉ちゃんのように慕っている肉子ちゃんもそのことを心底喜んでくれて、大変かもしれないけど一度は三人で暮らしていく決意を固める。

 

しかし、みうは泣き止まない赤ちゃんに睡眠時間を削り取られ、やつれてしまい

自分で望んで産んだ赤ちゃんなのに、殺したいと思ってしまう程、憎むようになってしまう

そして、耐えきれなくなったみうは家を出ていってしまう。肉子ちゃんのもとに、赤ちゃんを残して。

 

肉子ちゃんは信じられないほど馬鹿だ。

人を疑うということを全くといって知らない。

人がこうであると言ったら、まるまるその全てを信じ込んでしまうような人なのだ。

だから、好きなろくでもない男に騙されて借金を負わされても平気でその人を信じ続けて返済してしまうし、

親友から、どこの誰ともわからない男との間にもうけた赤ちゃんを押し付けられても大事に育てることができてしまう。

 

主人公は、そんな肉子ちゃんを本当にアホだなぁとおもうし、肉子ちゃんのようになりたいとは到底思えないけれど、

そんな肉子ちゃんにしかこのような境遇の自分を大切に育てることはできなかったということも

ちゃんと分かっていて、ものすごく彼女に感謝をしているし、大好きなのだ。

 

小学五年生でまだまだ小さいながらに、聡い主人公は肉子ちゃんが本当のお母さんでないことも勘付いているし、

だから、自分は望まれて生まれてきた子ではない、という風に考えていた。

お前は望まれて生まれてきた子ではない、と誰かに言われるのを極端に恐れ、

いつもいい子にして、誰かに迷惑をかけることをひどく怖がっていた。

 

だからこそ、生きているということはそもそも誰かに迷惑をかけたり恥をかいたりすることの連続なんだから、

そんな風に考えて生きる必要は全くない。血がつながっていなくても家族になることはできる、

という言葉をサッサンからもらった主人公は涙が止まらない。

 

現実には、恐らく、肉子ちゃん程純粋で、馬鹿な人間は中々いない。

呆れるほど人を信じ込んでいて、それに漬け込む悪い人間たちにぼろぼろにされても、肉子ちゃんはへこたれないで、人を信じ続ける。

私も、主人公と同じように、肉子ちゃんのようにはなりたくない。

というか、そもそも現実に生きている限りそれは限りなく不可能に近い。(私の感性ではということかもしれないけれど)

でも、肉子ちゃんみたいな生き方を、ほんの少しでも参考として生き方に取り入れることができたら、

他人に疑いを抱くことによって生まれるどす黒い不安や焦燥感から解放されるのだろうな、とも思う。

肉子ちゃんみたいにぼろぼろになるまで信じ続けることはできなくても、

決定的に何かがあったわけでもなんでもないのに、勝手に自分の中で不安や恐れを作り出して、

無暗に人を疑うことは、もうやめようと思った一冊。

 

先ほど決意したので、早速読み終わった本について考えたことを書きつけようと思う。

 

数日前に購入してぼちぼち読んでいて、

今日一日で残り半分ほどを一気に読み終えたのはレイ・ブラッドベリの『華氏451度』。

彼の作品を読むのは初めてではなくて、二度目。

初めて読んだ作品は『たんぽぽのお酒』。数年前に図書館で借りて読んだ記憶がある。

 

今回、華氏451度を読もうと思ったのは、そのあらすじに惹かれたから。

本書は、近未来を描いた作品で、その世界では本は忌むべき存在として

焼き尽くされる宿命を背負っている。

人々は、技術革新によって今よりもさらに進んだ文明の機器を享受しつくし、

常時音と光の洪水によって刺激を受け続け、単調な快楽にのみ身を委ねている。

その中で、主人公は本を焼き尽くす職業「昇火士(ファイアマン)」として生活している。

しかし、ある一人の不思議な少女との出会いによって、

これまで幸せと考えていた生活に疑問を抱き始めるというストーリーである。

 

この本を読んで、

自分自身で思考することの大切さをあらためて実感した。

 

以下はネタバレ要素を含みます。ご注意ください。

 

人々が本を読むことを完全に忘れ、

感覚的な刺激を十分に与えてくれる文明の機器に気を取られてばかりで

傍にいる人のことさえ十分に気にかけなくなった世界で、

クラリス・マクレランの語る言葉は主人公の胸を突き動かす。

自然や、人に良く目と耳を凝らし観察して、ものをじっくり考えることが好きだという彼女は、

主人公よりもたくさんのことを知っていると語る。例えば、朝の草むらに、露がいっぱいたまっていることだとか。

そう言われて、自分にその知識があるかどうかさえ思い出せなかった彼は無性にイライラする。

そんな彼女の語る生き生きとした言葉にどんどん彼は惹かれていく。

 

クラリスとの出会いや、本と共に心中した女の姿は、

彼の心にこれまでの暮らしや、世間に対する疑問を投げかける。

そして、ついには昇火士としての仕事の最中に、突き動かされるように本を盗み出してしまう。

最後には、本のために殺人まで犯し、犯罪者となってしまう主人公。

街中に指名手配犯として捜索され、逃亡し続けた彼が出会ったのは、

来たるときのために本の内容を頭にのみ蓄えつづける放浪者達の集まりだった。

思考する力を失った人々は戦争が起きてさえ、

自分たちには関係のないこととして事態を深く受け止めなかったが、

そんな時、街は、一瞬にして爆弾で崩壊する。

その時、彼は、自分が盗んだ本から必死に記憶したことを、想起する。

荒野と化した街で生き残った人々に、何を伝えよう、と考えて

主人公がその本に出てくる言葉を頭にかすめたところで、物語は終わる。

 

この本で印象的だったシーンを、二つ挙げる。

一つ目は、中身のない情報に囲まれてろくにものを考えることをしなかった主人公が

逃亡の最中に川に身を投じて、ゆっくりとものを考えるうちにたどりついた一つの考え。

太陽は、時間を燃やしているということ。日々、太陽は時間を燃やし、

多くの年月、人々、物事を焼き払っているということ。

だから、昇火士がわざわざ躍起になって物を燃やす必要は全くないのだということ。

 

つまり、時間が経てばおのずと人々は死んでいくし、物も廃れたり、壊れたりしていく。

時の流れが自然に様々な人や物を風化させるのならば、

昇火士なんていう職業は本来全く必要ないということ。

真に価値があるとされるものだけが、時のふるいにかけられて残っていくのだから。

主人公の考えを、私はこのように解釈した。

その通りだと思うし、だからこそ、古典は読む価値があるのだとも思う。

古典は読むべきものという位置づけではなく、人々に読み継がれてきたからこそ古典なのだということ。

 

二つ目は、昔に大学教授をしていた放浪者の内の一人が、自分の祖父について語るシーン。

祖父が死んだとき、とても悲しかった。何が悲しかったって、祖父がいなくなったこと自体ではなく、

祖父が世界に働きかけるということが今後一切なくなってしまったという事実が一番悲しかった、と。

じつに心優しい人で、常に手を動かして、何かを生み出したり働きかけたりしている人だった。

私は、祖父がしてくれたことのために泣いたのだと。

 

誰かのために尽くすこと、何かを生み出すこと、その方法はなんでもいい。

世界に自分という痕跡を残すことの大切さ、そのために自分の時間を使うことこそが

いかに大事であるかということを、しみじみと教えてくれる言葉だと思う。

ソシャゲをしていても、自分という痕跡は世界のどこにも残らない。

残るのは、その会社の倒産とともにあっさり失われるデータの集合体のみだ。

同じゲームをやっている友人と話すネタとして重宝はしていたけど、そのためだけに

膨大な時間を費やすのは費用対効果が小さすぎる。

私は、この放浪者の祖父のように、死にゆくときに一人でも多くの人にその死を悼まれるような生き方をしたいと思った。

 

この本には、近い未来に対する警句が含まれている。

本作に登場する、常に人々に感覚的な刺激を与え続ける壁(ラウンジ)は、スマートフォンを彷彿とさせる。

いや、持ち歩きができる時点で、スマートフォンの方が壁よりも恐ろしい存在かもしれない。

主人公の妻(ミルドレッド)は、壁に現れる様々な人物を家族と呼び、

一日中その壁に向きあって、夜は耳に心地よい波の音をもたらす巻貝を装着して眠るという生活で、

ろくに主人公の言葉すらも聞いていないけれど、全く他人事ではない。

現実世界にも、スマートフォン無しでは一日すら暮らせない人はたくさん存在している。

彼氏・彼女や友人と会っているのに、スマートフォンにばかり目を落としている人々もたくさん見かける。

スマートフォンは確かに便利だ。そこを認めていないわけではない。

でも、機械を利用している内に、いつの間にか機械に支配されていたら本末転倒だ。

 

本の美点は、他人の思考を、自分のペースでじっくりとなぞることができること。

ゆっくり読んだり速く読むこともできるし、反復することもできる。

だからこそ、ちょっと立ち止まってその情報を自分で吟味することもできる。

 

本を読むうえで大事なことは、情報の本質を知ること。

そして、本から情報の本質を汲み取るための時間。

最後に、情報の本質と、情報を咀嚼する時間から生み出された自分自身の考えを実行に移す力。

この本では、本の効用をそのように定義づけている。正に、その通りだと思う。

 

この本が、私の考えに何かしらの影響を与えてくれたことは間違いないと言える。

再びこのブログの存在に気をかける時が訪れるとは思ってもいなかった。

 

そのきっかけとなったのは、今後の自分の時間の使い方について今一度

納得するまで考えようと思ったことにある。

 

私は、モモに、いかに時間が大切かということを教えられながらにして、

あまりにも多くの時間を無駄にしてしまったということを後悔している。

 

ここ最近の私は、膨大な時間をスマフォのソーシャルゲームと、

さして面白くもないテレビを見る時間に費やしていた。

そうして得たものは、本当に何もなかったと言える。

あれだけ若い時期の貴重な時間を費やしておいて、残るものが何もなかっただなんて

恐ろしい、悪夢のような話だ。

救いだったのは、その中でもバンドだけはずっと辞めずにベースを弾き続けたことだ。

だからこそ、大好きな友人や先輩達との縁は切れていないし、

大好きなバンドも未だに辞めないで続けることができている。

 

失った時間で、どれだけの本を読み、映画を見ることができただろうか、と思うと恐ろしい。

読んだり、見たりした作品を自分の中で咀嚼して、思考したことをこの読書記録に

綴っていくことができていたら、多少は今よりも自分自身ででものを考えられる人間に

近づいていたことだろう。

作品から何かを受け取ることだけではなくて、

他の様々な趣味や生きるために必要なことにも時間を費やせていたことだろうと思う。

 

失った時間が戻らないことを嘆いているばかりでも生産性が無いので

反省文はこのあたりにして、この先は未来の自分の時間の使い方について考える。

 

新年を迎えて考えたことは、たくさんの本を読んで、たくさんのアニメや漫画や映画を見て

吸収したことを、文章に残して、思考の跡を残していきたいということ。

それだけでなくて、お洒落もしたいし、料理や家事のスキルも上達させたいと思う。

 

本の話をすると、

 

最近になって、本は読むだけでは何も意味がないと考える。

本を読む人にとって危ないことは、実際はただ本を読んでいるだけなのに、

自分があたかも賢くなったような気分になることであるというようなことを、

どこかの偉人が言っていた。

本を読んでいる時というのは、ただ他人の思考の道筋を辿っているだけで、

ほとんど自分自身でものを考えることはない。

だから、本は読んだだけでは意味がない。

本を読んだあとに、そこから自分自身が何を受け取ったのか、

どう感じたのかを考えることが一番大切なのだと思う。

本を読んだ後に何も考えることがなかったら、その本は読んだ内にも入らないのだと思う。

だから、本を読んだ後、その本がなにがしか自分自身に影響を与えたと思ったら、

このブログか、もしくは日記や手帳に何を考えたのか書きつけていきたい。

 

これはまた別の話になるのだけど、

私は、記憶力が悪いためか、読んだ本の内容をほとんど忘れてしまう。

(本に限らず、漫画、ゲーム、アニメ、映画のストーリーに関しても同様)

その時は面白かったと思っても、本の内容をあらすじでさえ説明できないことすらある。

内容の大部分を忘れてしまっても、1フレーズだけでも頭の片隅に残るものがあったら

その本は読んだ意味がある、という考えもあるけれど、

その1フレーズですら残らないことも多々あるから、密かに自分の脳を心配していたりもする。

 

それでも、このような試みが少しでも

脳に本の内容を刻み付ける助けとなれば幸いだと考える。

もしくは、何も頭に残らなかったのだとしても、このようにし自分の頭の外に

その時に考えたことを書き残しておけば、忘れてしまっても思い返すことができる。

 

2017年の抱負は、たくさんの作品から、自分で考えたことを文章として残すということ。

それに伴って、文章力もつけていきたいと思う。

『モモ』 ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 岩波少年文庫

2014年8月中に読み終わった本。

この本を知ったきっかけは、大学2年生の春期に受けていた教育学という講義で取り扱っていたこと。その時はさして興味をもたなかったのだけど、その後わたしの大好きな作家野村 美月の「ヒカルが地球にいたころ」シリーズの何巻かでこの本が引用されていて、その引用文を読んだだけで絶対に読みたいと心に誓った作品。

あらすじは、モモという不思議に人の心を惹きつける魅力を持った少女が、人々から時間を奪い取り心の平穏を脅かす時間泥棒に立ち向かっていくというストーリー。


以下はみかんが自分なりにまとめたストーリーのまとめ直しと、感想。がっつりネタバレを含むので注意。

ある日、町にやってきたモモという少女は、身柄も分からない浮浪者の子。彼女は町の大人たちに孤児院(?)に連れていかれそうになるがそれに反抗し、町の古びた円形闘技場を自分の住処と決めて暮らし始める。

そんな変わり者の彼女は、人の心を惹きつける不思議な魅力を持っていた。

モモは澄んだ目はしているが特段美少女なわけでもなく、他の誰も持っていないような特別な才能があるわけでもない。しかし、彼女は人々の心を惹きつけてやまない。この主人公の持つ不思議な魅力は、ただ人の話にじっくりと耳を傾けることから生まれる。

町の円形闘技場に暮らし始めたモモは、円形闘技場を訪れてくる人々と共に遊んで平和な日々を送っていた。

しかし、ある時から徐々に今まで仲良くしていた大人たちが円形闘技場を訪れてこなくなる。何の理由もなく訪れてこなくなったことを不思議に思ったモモは、その内の何人かを訪れる。そこでモモは、変わり果てた彼らの姿を目にすることになった。

今まで一人一人の客に丁寧に時間をかけていた美容師は、せかせかと忙しそうに動き回って仕事を適当にしてでも早く仕上げられるようにとつとめている。モモが話しかけてもイライラした様子で、お前と話している時間などないといった様子だ。訪れたうちの全員が、そのようにせかせかとしていて、すっかり心の余裕をなくしてしまっていた。

それは時間泥棒が「時間を節約するようにすれば、節約した時間を何倍にもして戻してやる」と甘い言葉で彼らを騙くらかし、彼らのもつ時間を奪っていたからだった。その誘惑に乗ってしまった人々は、ただ効率のみを重視するようになり、時間を奪われていることにも気づかず(そもそも時間泥棒の存在すら記憶から消えてしまっている)、せかせかとした毎日を送るようになってしまった。

この時間泥棒のインチキをたまたま知ることのできたモモは、大人に相手にされなくなって悲しんでいる子どもたちと一緒に時間泥棒の悪事を大人たちに知らせようとして奮闘するが、失敗。この行動によって時間泥棒に目をつけられたモモに彼らの手が及びそうになるが、モモは強い意志でもって「私の時間は誰にも奪わせない」と彼らに反抗。モモ自身には手のつけようがないと理解した彼らは、モモの友達に手をつけることで彼女を孤独にし、おとなしく言うことを聞かせようとする。

そんな状況の中、不思議な亀に導かれた彼女は、マイスター・ホラーという時間の管理人に出会う。そこで、時間の真実を心得た彼女が、彼らの助けを得ながら時間泥棒に打ち勝って、再び人々の心に平穏が戻るというお話。

(私の記憶をたどりながらまとめたものなので多少ストーリーの前後関係が違っているかもしれません。)

時間をどのように扱うかということは、その人がどのように生きるかということ。その意味で私はこの作品は、生きるということそのものを描いた作品だと思う。

この作品では、効率を最重視するようになりつつある現代社会に警鐘を鳴らしている。例えば、ファストフード店。ファストフード店ではなるべく短い時間で手早く食事できることが重視される。確かにこれは時間の節約になっている。しかし、おそらくそういった店で簡潔に済まされた食事は、多くの人が何週間後かには簡単に忘れ去っているだろう。何も心で感じることなく急いで済ませた食事の時間は、その人にとって本当に存在していたことになるのか。多少時間をかけてでも、ゆっくりと噛みしめて食べた食事はしっかりと心に刻み込まれる。

この作品は、時間とは心で感じ取るものだと言っている。何も心で感じ取ることのなかった時間は、その人にとって存在していたことにならない、と。

例えば、今この作品の感想を書くのに、私はかなりの時間をかけている。でも、ゆっくりとこの本について想起しながら、この本について思ったことを書きつけているこの時間はまるで私とこの本との対話のようで、心がいろいろなことを感じ取っている。だから、私にとってこの時間は、確かに存在しているのだと思う。

『モモ』は、時にはゆっくり散歩をして道端の花や空にじっと目を向けてみるなど、そういう一見無駄なように思える時間が大切なのだと教えてくれる。せかせかした気持ちになって、良いことは一つもない。どんな体験も、心にたっぷりと感じさせること。これが生きるということなのだ。

一番、印象的だったシーンは、モモがマイスター・ホラーの館で、モモ自身の時間を司る花が咲く場所に訪れるシーン。エンデは時間の何物にも代えがたい尊さを、その花を美しく描写することでもって表現したのかなと思ったりした。

もっと、小さい時に出合っていたらと願わずにはいられなかった本。そうしたらきっと本が大好きでたまらない人間になっていたんだろうな。自信をもって人に勧められる、素敵な作品。

『時計というものはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがあるのだ。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。』 p236 から引用
初めまして、みかんです。
このブログはしがない女子大生が書いた記録の集合体になる予定のものです。
本ブログの目的は、自分の思考の整理、文章力の向上などです。つまり、自己満足です。
内容としては、読んだ本の感想をメインに書いていきます。
一冊でも多くの本の感想を残せたらと思っています、よろしくお願いします。