お待たせしました! やっとやあっと、中間部分をお届けできます!!
ハギの拙訳ですが、お楽しみいただけると幸いです~♪
ペク・ジヨンさん=J
われらがヨンウニム=Y
J:もともと性格が内向的でいらっしゃった・・・
Y:子供の頃は本当に極端でした。極端に内向的でした。
J:どのくらいですか? たとえば? 学校でも一人ぼっちで、家でも?
Y:ええ、それが普通で、人が怖いから横を向いてやり過ごしたぐらい
J:高校生になってもそうでしたか?
Y:正面向いてすれ違えばいいいのに、こんなふうに横向きに・・・
J:相手を避けて? 小学生の頃の話?
Y:おそらく、中学生ぐらいまでそんな感じでした。ん~、高校生のときまでだったかな・・・
はっきりとは覚えていませんが、ずいぶん長い間そんなふうでした。
J:高校生になってもそんなふうに気弱な性格で、どうして俳優になられたんでしょう?
Y:だから、です。そのために、たぶん。あのまま生きていたら気が狂いそうだったんです。
J:気が狂いそうだと思ったのはいつですか?
Y:爆発する一歩手前までいったのが・・・浪人していた頃。二浪したので。
J:二浪はキツイですね。
Y:ちょうど身体も壊して。そのときおそらく、反発心が極限に達した。
J:あまりに辛くて爆発しちゃった?
Y:ええ。ひとり頭の中でだけ考えてたことを初めて行動に移したのがその時でした。
J:どんな行動にでましたか?
Y:演劇映画科を受験したいと、進路を変えました。
J:どうして演劇映画科だったんでしょう?
Y:無謀でしたね。特に深い考えはなかったんです。そこに行けば、自分の知らない世界があるようで。
今まで自分が会ったことのない、自由な思想の人たちがいるような気もしました。漠然と。
J:そこへ行けば自分も良い方に変われそうな。
Y:はい、何かがありそうで。
J:期待をもって入学されたんですね。入ってみて、どうでしたか?
Y:思ったほど理想に近くはなかったです。そこにもやはり克服できない問題がありました。
J:当時の演劇映画科の雰囲気って、気合を入れてやる!風な・・・先輩後輩の関係が。
Y:ええ、とても厳しかった。
J:体罰でみんな倒れてしまうようなこともあったって。
Y:はい。自由を求めて入ったのに、思いもしない拘束にあって。
J:つらかったでしょう?
Y:はい、これっていったい何だろうって。2回生の頃まで適応できずにいました。
J:やっと大学に入ったのに、またそんな葛藤を感じられたわけですね。
Y:はい。2回生までそんなかんじでした。
ともかく、人が生きていく上でとても大事なことのひとつが、どんな人と付き合うかによって
重要な契機になり得るのですが、2回生を過ぎてからは気持ちの通じ合える人たちに出会えて
自分がどれだけ利己的だったかに気付いて反省し、自分からみんなに合わせようとずいぶん努力もして、
ちょうどその頃、演技のアルバイトも本格的に始めたように思います。
偶然アルバイトをして、自分の姿をテレビで観るのはとても不思議な感じで
まだ子供でしたから、自分の顔がテレビにでるとやけに格好良く見えたりして・・・(笑)
J:不思議なものでしょう。
Y:はい、とても。自然と肩に力が入るというか、自慢もしたいし。
J:ええ、そうですよね。
Y:しかも最初、反応が良かったんです、それなりに。すべて望みが叶ったような気になったし
サインを求められたりして。
J:最初のアルバイトは何でしたか?
Y:『オ博士家の人々』というSBSの番組です。
J:シチュエイション・コメディ?
Y:はい。
J:あの番組を最初に?すんなりと?
Y:ええ。当時は、こうやってればスターになれるんだなって。たいしたことないや、俳優なんてって。
J:その頃、心の中で思ってらっしゃったんですか?
「映画俳優なんて大したことない」って。
Y:ええ、大したことないやって、そんなふうに始めたのを覚えています。
Y:なぜか容易く稼いで学費も自分で払えたし。
J:はい。
Y:上手くいきそうな気がしたんですが、その後に少しずつ、辛い目にもあって・・・
せっかく始めたんだから最後まできっちりやってみようと1年休学しました。
そこからです、苦労が始まったのは。
J:苦労が始まったとしても、足を突っ込んだ以上はやらなきゃ。
Y:そのとおりです。
J:次の作品は何でしたか?
Y:作品と呼べるようなものはなくて、どんな役かって言えるほどのものもなく。
担ぎ屋1、下人2、従業員3・・・
J:拉致犯1。
Y:はい、拉致犯もやりました。
J:誰と一緒になさったんでしたっけ? お友達の・・・イ・ソンジェさん?
Y:イ・ソンジェさんと・・・
J:キム・ヘスさんを拉致したんですよね。
Y:はい。『恋愛の基礎』・・・?そうだ『恋愛の基礎』だったはずです。ファン・イネ監督、有名な。
J:顔ははっきりと映ったんですか?
Y:ええ、顔はしっかりと映ったはずです。
J:イ・ソンジェさんにしてもパク・ヨンウさんにしても、今は主役を張れる役者さんじゃないですか。
でもみなさん、そんなふうに拉致犯1、通行人2っていう時期を過ごして来られたんですよね。
1番2番という端役をやらずにスターになった人なんていませんよ。
Y:ええ、そうですね。
J:『オルガミ』がデビュー作だと紹介した資料がたくさんありますが。
Y:初めての映画でした。役も比重のある役だったので、覚えていただいているようです。
J:あの役はどうでしたか? ママボーイ(マザコン)(笑) 真ん丸い目をして・・・
Y:ラッキーでしたし、とても感謝している作品でもある反面、
私にとても長い間、つらいトラウマとなった作品としても心に残っています。
J:あまりに印象が強くて?ママボーイのイメージが?
Y:基本的にママボーイというと、男性にとって致命的な部分を刺激するところがあって
そういうものに対する先入観、かな。
あの映画がそれほど大ヒットしたわけでもないのに、イメージだけは相当長い間残って
その後のキャスティングにおいても、とても長い間ひきずっていたように思います。
J:どのくらい長く?
Y:あのあと、そうですね、5~6年は、私が個人的に、俳優として苦しんだので。
J:若い頃の5~6年って実に長いですよね。20代で。
Y:ええ、とても苦しかった。
J:どうやって過ごされたのですか?
Y:このまま演技を続けなくてはいけないのか、その頃初めて考えました。
今ほど演技者という仕事に愛情を持ってもいなかった頃なので、
やめるべきかと、そんなことを考えたんだと思います。
J:周囲の反応も同じだったのではありませんか?
Y:はい、両親も情けない息子だと。ただ家でゴロゴロしてたので。
自分でも自分が情けなくて。
J:それにしても、5~6年も家でゴロゴロしてるっていうのは、本当に長かったでしょうね。
Y:5~6年も家でゴロゴロ過ごしていたわけではなくて。
J:ええ、わかってますよ。
Y:時々テレビに出てはいたんですよ。
J:でも5~6年は長いじゃないですか。
それを耐え抜いたから、今も演技を続けてらっしゃるのでしょう。
やめようかと思いながらも耐え抜けたのは、どうしてだったんでしょう。
Y:ただ運がよかったと言えば、あまりに無責任な言葉のような気がして・・・
こんなこと言うのも申し訳ないのですが、やっぱり基本的に運がよかったように思います。
私がこんなに演技を好きになるとは、自分でも思いませんでした。
数年前から、私は本当に演技が好きです。
J:数年前から?
Y:はい。
J:ではそれまでは?
Y:それまでは、ただストレスの原因になる金稼ぎの手段?
そんなふうに考えることが多かったように思います。
J:では、自分は演技が好きだ!と思うようになったきっかけは?
Y:自然に。少しずつ。
J:たとえば何かの映画、ドラマといった作品は?そんなきっかけはなかったんですか?
Y:ん~、今から思えば、そんな気持ちが少しずつ芽生えてきた作品といえば『血の涙』かな。
本当に少しずつ、少しずつ、演技を好きになり始めたのじゃなかったか、そんな気がします。
J:役者になって11年目ぐらいに出演された作品ですよね?
Y:そのぐらいだったと思います。
J:『時間の森』の中で『血の涙』の・・・
Y:(苦笑) はい。
J:『血の涙』の話をしながら泣かれたでしょう。
Y:編集されて残ってましたね。
=『時間の森』映像=
韓国では演技が下手だとトン・ベウ(クソ俳優)って言うんだけど、
これほどのトン・ベウがどこにいるんだって監督からさんざん詰られました・・・
最後の作品になるかもしれないって・・・
Y:自分でも泣くとは思っていませんでした。
自然に、話をしている中で涙が出てしまいました。
J:最初の撮影のときに監督ともめて、2回目の撮影に赴く過程について、話していらっしゃいましたね。
Y:とても感謝している、恩人の一人と言わなければならない監督です。
でも当時は幼くて、監督が恨めしかった。
J:自分のやりたい演技と監督の意見が食い違ったんですか?
Y:そうです。当時は、自分が間違っていたのに、自分が間違っていることがわからなかった。
気持ちもまだまだ未熟で、演技力もなかったので、自分が正しいと思ってしまったんです。漠然と。
監督は作品全体を見なければならないので、私の意見ばかり聞くわけにはいきません。
J:当時の撮影の記憶は残っていますか?
Y:もちろんです。
J:監督が演技にダメ出しされたのでしょう?
Y:私としてはとてもきつい言い方で。
J:ヨンウさんがこう、演技をするのに、スタッフみんなが見ている前で、クソ演技だクソ演技、
こんなふうだったんですか?
Y:私に対してだけそうだったわけではないんです、実は。
他の俳優に対しても同じような態度を取る監督のスタイルなんですけど、当時私がとても切実だったんです。
3年ほど映画に出られなくて、映画に対する渇きの強かった時期で、
ここで上手くできなければ二度と映画には出られないかもしれない、なんてバカな考えもあったのでしょう。
だから何としても成功したいという欲求が強くて、いっぱい叱られました。
J:どんな場面でしたか?
Y:愛する女性が銃で撃たれて死んでゆくのに、海をみつめるばかりでどうすることもできない、
そんな複雑な感情を表現するシーンでした。
J:すごく難しいじゃないですか。そんな複雑な感情を消化する俳優さんを私はとても尊敬します。
どんなふうに表現なさったのですか?
Y:自分なりに期待も大きく、緊張もして、思ったとおり演じたのですが、
監督が描いておられたイメージとずいぶん違ったようです。
監督がそのとき何と言われたかというと、ご自身の経験談を語ってくださいました。
ご自身の身内の誰かが亡くなったのに、お父さんは無表情に日常生活を続けていらっしゃって
それがある瞬間ポンッと感情が爆発して悲しみがあふれ出した、そんな話をされました。
でも一体何のことをおっしゃってるのか・・・(笑)
私はそんな場に居合わせたこともないし、突然感情がはじけるってどういうことなのか。
まったくつかめない。でも、それができないと監督はOKは出してくださらないように思えるし。
結局OKは出なかったので、そのまま撤収しました。そして1か月後にもう一度撮り直しました。
J:何回やってOKが出なかったんですか?
Y:たしか30回以上。
J:まあ、それは大変。
Y:最後には声も。絶叫しなきゃいけないのに、「ふぃ~ん」って。結局、撤収しました。
J:30回以上もやりなおした挙句、撤収したときの気分は? 惨めな気分では?
Y:ああ、これで終わったな、と。
J:俳優人生が?
Y:ええ。 一緒に出演していたユ・ヘジンさんに、
「今日はこのまま宿に帰るなんてできそうにない。一杯飲みましょう」って誘って、
朝8時から夕方4時まで飲みました。二人で。
J:そういう話を聞くと、本当に俳優って誰にでもできる仕事じゃないって思いますね。
Y:『血の涙』ではもっとひどい経験もしましたよ。
と、ここでコマーシャル。
続きは(いつになるかわからない)後編で~
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