毎日へのラブレター

毎日へのラブレター

毎日を慈しんで生きる

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 バッハのG線上のアリアを聴きながら、こうして安らぎと愛に包まれて生きていく喜びを感じる。まるで天からの愛が私に無条件に注がれているようだ。音楽を聴いていると、神の愛が私の隅々まで満ち溢れている気がする。ただ、自分が愛されていると気づかなかっただけだと思えてくる。

 音楽の力はなんと偉大なのだろう。自分の内なる光に気づかせてくれる。

 昔、自分に自信が持てなかったり、安心した環境にいることができない時期があった。

 でも、結局のところ、安心感とは、自分の心が見出すものであろう。物質的な状況や、家族の状況に100パーセント依存するわけでもない。物質的な状況や人間関係など、助けになってくれるものはあるだろう。だが、自分の心に確かな軸があれば、荒波の中にいても、希望や神の愛を感じ続けることはできる。

 

 この一瞬一瞬の美しさに気づくこと。それが最高の安心感の一つだ。

 この愛に満ちた一瞬の美しさに気づき、自然と心の内から生きていて良かったと感謝の念が生まれる時、未来への不安や、過去のトラウマは消えるのだと思う。

 過去のトラウマを引きずり、過去の出来事を現在に投影し、また再び起こるかもしれないという不安の為に、行動ができなくなっている人達や人間不信になり、人を愛せなくなっている人達もいる。そのような人達は自分を孤独の殻で覆っている。愛を願いながら、愛を遠ざけている。 

 一瞬、一瞬、その瞬間の全ての恵みを受け取り生きることは、癒されることでもあると思う。神が与えた癒しなのだ。

 人がそれぞれ夢中になれる趣味だったり、仕事を持っているのは、そうした一瞬、一瞬の全てを生き、癒される為の技術でもあるのだろう。

 自分が無心になり、夢中になれるものに対して、自分の全ての良い感情を注ぎ込み、感動し、人間として生き、愛する。

 夢中になれる音楽に出会えて良かった。

 神は乗り越えられない苦労など与えないという言葉に何回か出会ったことがある。それはこれを指しているのかなとも思う。自分の趣味や仕事を通して、生きがいに出会い、それはどんな困難にも打ち勝つ希望を与えてくれる。神に向き合っているような神聖な気持ちにさせてくれる。その時の自分の魂がどんなに美しいかも教えてくれる。そして、生きることは、自分の魂の美しい部分をどんどん広げていく事でもあるのだと思う。ただ、愛を素直に受け取ればいいのだと思う。好きなことを通して与えられる愛や、心地よさや安心感をただ受け取ればいいのだと思う。

 「世の中はこんなものだ」とか、「世間のことをちっともわかっていない」と、悪いことばかり並べ立てる人もいる。でも、その人が、そこで人生を諦めていたら、人生はそこで終わってしまうのだ。自分はもっと良いことに値する人間だと思い、努力しなければ、それはそこで終わっってしまう。その人の言うことは、その人個人が経験し、その人が判断を下したことであって、人の考えなんて千差万別なのだ。

 生き方を決めるのは自分なのだ。

 

 

 

 人と会わない生活をしていると、普段の何気ない穏やかな、優しさに満ちた言葉を受け取ったり、かけたりする喜びがどんなに大きなものであったかに気付かされます。

 なにげない時間でありながら、その穏やかさと輝きは、木漏れ日にきらめく光のように、天からの光に満ちていたのだなあと思います。

 人間として生きる喜びと味わいが、木の年輪のようにしっかりと自分の心の中に刻まれていたのだなあと思います。

 家にいる時間が多くなったことで、本を読んだり、音楽を聴く機会が増えました。すると、世界はなんてこんなに胸を打つような愛の表現に満ちているのか驚かされます。人がいれば、その人の数だけ、愛の表現があるのです。誰一人として同じものはない。まるで宇宙が、無尽蔵の愛の豊かさを表現する為に生命を生み出したかのようです。一人一人に価値があり、神聖なものを宿しているのは、一人一人が唯一無二の素晴らしい愛の表現を宿していることにもあらわれているのかなあと思います。

 中には自分には価値がないと思い込むような扱いを受けて育ったり、誰かに役立たずと言われ、周囲の自己承認を得る為に必死になって恐怖心から働いている人もいるでしょう。

 でも、どんな人間も、その人から奪うことができないのは、その人の何かを愛する心です。その愛に満ちた言葉は世界を輝かします。誰かの人生を救い、大きく変えることもできるかもしれません。草も大地も聴いています。そして、何よりも、神様が聴いています。

 もし、あなたがいつか草木のオーラを見れるようなことがあったら、何か優しい言葉をかけてみてください。そのオーラが大きくなるのが感じられます。それはとても美しく、いつ見てもとても感動します。そして自分の身体がまるで溶けるように優しい気持ちに満たされるのです。

 そう、あなたは優しい一言で、自分が思いもしないようなものにまで、愛を与え、喜ばせて、何倍もの愛を返されているのです。

 だから、誰も、無能な人はいないのです。価値のない人はいないのです。誰もが愛の言葉を自分の内に宿しているのですから。そして、自分に与えられている見えない愛や財産に気づいてください。

 だから、自信を持って生き、優しい言葉をかける時間をつくってください。きっとその愛は、いつか自分に返ってくるでしょう。それは自分が思いがけない瞬間、思いがけないことでかもしれません。

 愛は色々な形をとります。様々な愛の循環を楽しみましょう。

 

 

 朝、目覚めて、少しずつ朝の陽の光にベッドの中で慣れてくると、こうして生きて生かされていること、様々な恵みを神様から与えられていることに自然と感動を覚える。毎日見ていても、その都度、新たな感動と生きる希望を与えてくれる陽の光。

 何年か前に大病を患い、医者と看護師さん達に助けられた。もし若かったら、きっと私の主治医のような医者を目指して、同じ大学の医学部を目指しただろうと思う。きっといつも先生の後をつきまとって、沢山学んで、先生のような優れた人格者になって患者に向き合いたいと思ったであろう。

 でも、実際はそうではなかったので、今の年齢でできることはないだろうかと考えた。結局、何年もかかって思いついたのは、自分らしく精一杯生きることだった。

 人と真心を込めて話し、自分の思っていることを人と分かち合う。あるがままの自分を受け入れて、愛する。すると、自然と、こうして命を与えられていることに感謝の念が沸き、神様の愛を感じるようになる。

 自分が自然体で安らいでいることは、世界にある色々なものの美しさを感じるのを手助けしてくれる。そして、周りを一層愛することを教えてくれる。どんなにひどいことや不幸なことがあっても、生きる強さと、それでも光を見続ける強さをもたらしてくれる。怒りを手放し、許しに変える勇気を与えてくれる。でも、それは理不尽なことを許容するわけではなく、ただ淡々と悪いことは指摘するということだ。

 不安や恐れではなく、愛の中に生きる素晴らしさ。そして愛は智恵をもたらしてくれるものだと思う。心が落ち着いて安らいでいれば、良い考えも浮かぶ。自分が、自分の生き方を好きになるような、考えをもたらしてくれる。そして、もっと神と身近にいるような気がする。

 今日もこうした時間を与えてくださって、神様、有り難う。

 

 

この曲の出だしを聴くと、命が次々と産声をあげて輝いているように感じる。光のオーブにキラキラ満ちているようだ。この好きな曲を聴ける喜びを噛みしめたい。

 ある時期、好きな音楽を聴けない時期があった。まるで自分を苦しめるかの如く、音楽を聴かなかった。誰かに他人と比較されたり、自分を他人と比較して、自信を失ったりして、音楽と向き合えなくなっていたことが原因だった。

 他人と比較するのはつまらないと思う。誰一人自分と同じように生きているものはいないし、他人の価値観で生きれるはずもない。自分の感情も生き方も自分で見つけて、自分の人生を背負っていくしかないのだ。だから、自分の書く音符が自分の人生そのものなのだ。その自分をあるがままに受け入れ、愛そう。

 そしてバッハの音楽は、いかに一つ一つの命が個性的でかけがえのないものか、輝いて美しいものなのかを感じさせてくれる。それは自分に生きる信念と勇気を与えてくれる。有り難う。

 毎日、何か感動して、感謝して生きれる日々は素晴らしい。どんなに辛い大変な状況であっても、それに焦点を当てるのではなく、希望の方に目を向かわせてくれる。

 有り難う。心を込めて。

 

自分の好きなこと。

自分の心が静まった時に見えてくる豊かな世界。

神や天使達にまさに出会っていると思えるような愛に満ちた空気を感じる世界。そしてそこからは、全ての人に神聖な美しさが宿っているように見える。このような尽きることのない愛を与えられ、その恵みを抱きしめる時、私の命は輝き始める。

そして、生きていて良かったと、そしてこの世に命を与えてくれた神様に感謝する。

このような気持ちでいつでもいられたらなあと思う。

でも、実際は思うようにはいかなかったりもする。

神に繋がっている自分を忘れ、日常生活に追われていると、孤立し、分離したエゴイズムがもたげてくる。

すると、他人からされたことが、とても嫌に感じられたり、許せなくなってしまう。心に余裕がなくなるからだ。

 

完璧な人などいない。全ての人が成長の道を歩んでいる。それを優しく見守ってくれる神様がいて、神はただ愛してくれているのだと思う。

でも人はつい、いらついている人に出会うと、自分までいらついてしまう。怒りっぽい失礼な人に出会うと、ついこちらも頭にきてしまうものだ。でも、そのように自分が感情的に反応する必要もないのだ。注意する必要があれば、ただ冷静に淡々と注意すればいい。あるいは、時にはこちらも怒っている振りをして、相手に伝えることが必要かもしれない。でも、自分の心を乱す必要はないのだ。

心の中は微笑んでいたい。常に神の愛と共に歩んでいたい。

自分の豊かさや愛は、自分の心を自分で耕さなければ、見えてこない。

でも耕せば、誰でも自分の内に無尽蔵の愛がある。

 

 人生のうちで、何度か、たくさんのオーブが自然の中で光り輝いているのを見たことがある。草や樹木のオーブの美しい輝きに圧倒された。有り難うというと、沢山の有り難うというエネルギーが至るところから聴こえてきた。私の一言が、何千倍にもなって返ってきた。本当に沢山の愛を与えてくれるもの達に囲まれているのだなと思った。

 だから、声をかける、あるいは心の中で優しい気持ちで声をかけるというのは大切だと思う。そしてその愛は愛を持って答えてもらえる。

 もちろん、人間同士であれば、それが報われない時も多々あるだろう。でも、神が横であなたと共に歩んでいることには変わりないのだ。神から与えられる愛はあなたにさらなる勇気と愛と癒しを与えてくれるだろう。そのメッセージを受け取る為にも、自分の心が静まる時間は大切だと思う。 

 

 自分に自然と満足できること、感謝の気持ちが自然と溢れてくること。

 自分の心の調和が取れた時間。そのような時間を与えてくださって、神様、有り難う。

 

 

お早う。今朝はハワイアンミュージックを聴きながら、自分が見ていないハワイの空に向かっておはようと言う。

 音楽からその土地の空気と、歌っている人のハワイを愛する心と、その心を通して感じられるハワイの美しさが伝わってくる。その愛が語ってくれる世界に身を浸すと、歌声が優しい波のように押し寄せては引き、押し寄せては引き、心地良いリズムを刻むながら私を包み込む。

 その人の語る愛が、どこか普遍的な愛そのものに繋がっている気がする。

 自分はハワイに育ったわけでも、ハワイの風景そのものでもないのだが、ましてその歌手が愛する相手でもない。でもその純粋な愛は、その歌手の愛の深さゆえに、生きとしいけるものに繋がっているように思う。そして生きとし生けるものとしての私に繋がり、愛が流れてくる。

 

 朝、起きて愛する人がそばにいなくても、誰かの愛する心に耳を傾け、向き合い、味わう事をすれば、様々な愛と繋がることができる。そして様々な愛の形を知ることが出来る。

 一人ではないのだと知ることは大きな力になる。孤独と思う世界から一歩を踏み出し、与えられている愛に感謝し、微笑んで生きる。

愛を与えられ、愛し返し、この小さな積み重ねが日々の幸せをつくっていくのだろう。

 

 

この瞬間、聴いているのはバッハのG線上のアリア。

心が落ち着かない時も、これを聴くと心の階段を一つ一つ、まるで神様と天使達に支えられながら降りて行っているように感じる。安心していいんだよって、言われているようだ。

 すると、今度は自分の足でしっかりと大地を踏みしめて歩く勇気を取り戻し始める。柔らかな草と、心地良い微風、生命を育む大地の慈愛の眼差しに支えられて、歩き出すような。

 

 毎日、社会に生きていれば、困難な状況に巻き込まれることもある。そんな時は、周りに振り回されずに、自分の心の階段を降りてみる。そこにいる、この世に生まれてきた美しい命である私。

 すると、困難に見えたことは、大抵の場合、大したことではないように思えてくる。愛が怒りや不安を、許しや穏やかさに変えてくれる。

 本当の安らぎは、外にあるのではなく、自分の内にすでにあるのだろう。ただ気づけばいいのだ。外に探し続けても、それは永遠に終わらない旅。

 自分を助けてくれる叡智も智慧も、本当は自分の内に宿っているのだろう。

 そんな風に思わせてくれる曲。

 有り難う。バッハへのラブレター。

 

 

今、「Time to say good bye」という曲を聴きながら書いている。

この曲の出だし。歌詞の意味を知らないで聴いている。なんて雄大な景色が思い浮かぶのだろうと思う。まるで山を登って、やっと頂上に着き、見渡す限りの大地を眺めた時、この地球の美しさと雄大さに畏敬の念を感じ思わず涙が溢れてくる時のよう。自分の心の中に、この地球を貫く宇宙の無限の力が降り注ぎ込んでくる。もう、自分はちっぽけな自分ではないんだ。この雄大な美しい地球の一部なんだ、この神聖で美しく輝くものの一つなんだ。この宇宙を貫く神聖で、無限の愛の力と繋がって、共に生きていくんだ! そんな気がする。

そんな風にして作曲家は旋律を思い浮かんだのかなとも思う。地球の地平線を見ているような気になる。

大地を踏みしめている脚に思わず力が入り、自分の確かな肉体の重みと、生きている実感を感じながら、自分が普遍的な愛と神聖な無限の力に繋がっていると確信する。

私もこんな曲が書けたらいいな。

でも、自分の書いた曲は今の自分の人生から生まれてきたものだから、それを受け止めていくしかないのだろう。書いている時は、思わず涙が出てきちゃったり、感動するけれど、レッスンに行くと、ああ〜、なんて至らなかったんだろうと、思わず帰り道に茫然となることもしばしばあった。先生が私の曲を少し直すと、力強く希望に満ちた曲になるというのを見て、なんでこんなに違うんだろうって!そこで、簡単に諦めてしまったのがいけなかったんだなって思う。どんな人でも無限の力が宿っている気がする。この曲を聴くと、特にそう思う。

 ただ、求め続けることが重要なんだと思う。自分の能力はこんなもんだと制限を設けて、自分で勝手に自分を見限って、努力しないで、何か言い訳をつけて、でもお金は稼いでいるって、お金で言い訳して、中途半端に生きる人生なんて嫌だなと思う。

 本気で生きよう。だって自分には、感動する心が宿っているのだから、

今の自分を認めて、自分のかけがえのなさを、この世に生まれてきたことをもっともっと愛して、どんなに周りから愛や美しい感情を与えられているかにたくさん気づく。こんなにも沢山の愛の中に生きているんだって。その感動と感謝の気持ちが自然と心に溢れてきたら、もっと美しい旋律が書けるようになるんじゃないかという気がしている。神様、私に美しい旋律を与えてください。夕方は神様へのラブレター。

 

 
 

自分の好きな音楽で1日を始められることの美しさ。何度感謝しても、言い足りないほどの感動がいつもある。youtubeで偶然見つけた歌。働いてやっと貯めた高いお金を出してコンサートに行って出会えた曲、というのではなく、何気ない日常の中に、そう、まるで道で石蹴りをしていたら、偶然当たったというような、日常の一コマに潜んでいた曲。

 自分の見知らぬ人の美しい魂が、陽の光のようにそっと差し込んできて、ただ微笑んでいた。世界に微笑んでいた。私を無償の愛で包み込むように、ただ与えるように微笑んでいた。

 有り難う。

 孤独だとか、人に会えないと言うのは簡単だけれども、こんな状況だからこそ、本当に自分の心に触れるものを探したい。そして共に生きていたいと思う。こんな状況でも、自分に生きることの輝きや希望を抱き続けさせてくれる、そして人間の無限の力を信じたいと思わせてくれる、音楽に感謝したい。自分もいつか素晴らしい音楽を書いてみたい。世界に愛している、有り難うと、そんな思いを歌にしたい。それを素直に音楽にすればいいのに、なぜ自分は他のことに逃げているんだろうって思う。自分も書ける、って信じればいいのに。

 昼のラブレターは、自分の本当の夢を応援するためのラブレター。その世界に触れることで、自分は愛し、愛されていると思え、命をこの世に持った事を感謝できる。そして自分も何かしたいと、愛が時代を超え、地域を超え、人から人へ繋がっていく。その美しい世界に生まれた自分を感じられる世界に生きたい。それを仕事にしよう! 頑張ろうね、私!

 

1日の終わりに、自分に有り難う、って言ってみる。

私の身体の細胞一つ一つに、有り難うって言ってみる。自分の身体を動かしてくれた肺や心臓、こうしてブログを書かせてくれている手や眼に言ってみる。

 一つ一つの細胞が頑張って生きてくれた。その細胞は、自分の両親から受け継がれ、その両親はまたその両親から受け継がれと遡っていくと思うと、なんという偶然と、なんという大きな時間の中に自分は生きているんだと思う。

 こうして辿って発見していくものに対して、有り難う、有り難うって言い続けていると、今度は悲しくなってくる。1日の中で、ぼうっとして過ごしたり、なんとなくだらだら過ごしてしまった時間が悲しくなる。もっと大切に過ごせばよかったなって。自分に自信が持てなかったり、不安にとらわれたり、他人と比較してしまってる間に、時間はどんどん逃げていく。でも、そんな社会の物差しと、その物差しの時計で何がわかるというのだろう?こんな奇跡の中に生きている自分のことについて、、、。

 自分の中に潜むこんなに沢山の偶然と、地球の雄大な時の流れと、そこに潜む沢山の愛の面影。なんで気付かなかったんだろうって。地球の時間に抱かれている自分は、地球にかつていた沢山の生命が織りなす織物でもあるのだと。だから、かけがえのない自分に愛を贈ろう。この生きている時間を大切にしよう。

 自分を愛することから、世界は広がる。だから、自分に有り難うって言い続けてみよう。有り難う。有り難う。そして、地球よ、有り難う。